第4話 先に好きだったのは俺なのに
土曜日の出来事以来、俺の精神は限界に達していた。
真央に直接問い詰めるべきだという思いと、もし聞き捨てならない真実を知ってしまったらどうしようという恐怖が、俺の心を苛んでいた。
月曜日の学校。真央は普通に登校してきた。
体調不良を理由にしていたはずなのに、顔色は悪くない。むしろ、どこか上気しているようにすら見えた。
放課後、俺は意を決して真央を誰もいない階段の踊り場へと呼び出した。
「陸? どうしたの、こんなところに呼び出して」
真央はいつもの清純な笑顔を浮かべている。その態度があまりにも自然で、俺は一瞬、土曜日の光景が自分の幻覚だったのではないかと錯覚しそうになった。
「真央……土曜日のことなんだけど」
「え?」
「お前、体調悪いって言ってたろ。でも俺、見たんだ。真央が家の前から、黒い車に乗っていくのを」
直球で問い詰めると、真央の笑顔がピキリと凍りついた。目を見開き、呼吸が荒くなるのが分かる。
「な……なに言ってるの、陸。私、ずっと家で寝てたよ? 見間違いじゃない……?」
「嘘つけよ! 翔太の車だろ!? お前、翔太と何処行ってたんだよ!」
感情を抑えきれず、俺は真央の肩を掴もうと手を伸ばした。
「嫌ッ!! 触らないで!!」
真央が叫んだ。
それは、これまで聞いたこともないような激しい拒絶の悲鳴だった。
真央は振り払うように腕を大きく振った。その拍子に、きっちりと留められていた長袖の制服の袖口がめくれ上がり、白く細い腕が空中に露わになった。
「……ッ!?」
俺の時が止まった。
真央の白い手首から腕にかけて、痛々しい紫色の青あざが幾つも残っていた。
いや、あざだけではない。
袖口から覗く首筋の根元、ブラウスの隙間に——明らかに人の歯で強く噛み付けられたような、生々しい赤紫色の「痕」がついていた。
それが何によってつけられたものか、無知な俺にだって一目で理解できた。
誰かが真央の皮膚を強く吸い上げ、噛みつき、自分の所有物であると誇示するために刻み込んだ、淫らな痕跡。
「真央……その痕……なん、で……」
声が震えた。膝の力が抜けそうになる。
真央は大慌てで袖を引っ張り伸ばし、首元を両手で必死に隠した。
その顔は真っ赤に染まり、涙が目から溢れ出していた。だが、その涙は恐怖によるものだけではないように見えた。
「ちがう……ちがうの……! これは、転んだ時に……っ!」
「そんな嘘ありえないだろ! 誰にされたんだよ! 翔太か!? 翔太に何かされたのか!?」
「関係ないでしょ!!」
真央が大声で叫んだ。
「陸には関係ない!! 私に構わないで!! お願いだから、もう私に触らないで!!」
真央は泣きじゃくりながら、階段を駆け下りていってしまった。踊り場に取り残された俺は、自分の手を見つめたまま立ち尽くしていた。
腕のあざ。首筋の噛み痕。そして、俺に向けられた過剰なまでの拒絶。
真央の身体に、俺の知らない誰かの手が触れている。
俺がずっと大切に、壊さないようにと大切に育んできた「初恋」の思い出が、俺の知らない場所で、泥塗れの毒虫に刻まれ、汚されている。
頭の中で、何かがパチンと音を立てて弾けた。これまで過ごしてきた甘い思い出の味は、もうどこにも残っていなかった。
◇◆◇
あの日以来、俺と真央の間の空気は完全に冷え切ってしまった。
学校の廊下ですれ違っても、真央は視線を落とし、避けるように足早に去っていく。
隣同士の家なのに、朝の登校時間が重なることもなくなった。真央は俺よりずっと早く家を出るか、あるいは遅刻ギリギリに登校するようになっていた。
「俺の方が先に好きだったのに——」
自分の部屋のベッドに横たわり、天井を見つめながら、俺はその言葉を何度も心の中で呟いていた。
幼い頃からずっと一緒にいたのは俺だ。
真央の笑顔も、泣き顔も、一番近くで見続けてきたのは俺だ。
誰よりも真央を愛しているのは俺だし、真央だって俺のことが好きだったはずだ。
あの放課後、二人で半分こしたキャンディの甘さは、決して俺の幻想なんかじゃなかった。
『両思い』だったんだ。確実に、俺たちは互いを想い合っていた。
それなのに。
なぜ、俺が躊躇している間に、あんな近所の粗暴な中学生なんかに真央を奪われなければならないんだ?
なぜ、告白という一歩を踏み出さなかっただけで、俺の手からすべてが零れ落ちていくんだ?
(俺が……俺がもっと早く告白していれば)
激しい後悔が波のように押し寄せ、胸を掻きむしりたくなる。もし俺が「好きだ」と言っていれば。
恋人同士になって、彼女の手を強く握りしめていれば、翔太なんかが入り込む隙なんてなかったはずなのに。
俺が「今の関係を壊したくない」なんて甘い理由で保身に走っていたから。
自分を守るための優柔不断さが、真央を孤独にし、毒虫の毒牙に晒してしまったのだ。
だが、どれだけ自分を責めたところで、時計の針は戻らない。
その頃、俺の知らない場所で、真央の日常はすでに悪夢の泥沼へと引きずり込まれていた。
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きっかけは、ほんの小さな「隙」だった。
私が翔太の落とした財布を届けたあの日。翔太は私の世間知らずで断れない性格と、家庭環境のささやかな孤独を瞬時に見抜いた。
最初は「ちょっとした相談」から始まり、言葉巧みに私を密室へと誘い込んだ。そして、翔太が仕掛けたのは、単純な暴力だけではなかった。
弱みを握り、脅迫し、逃げ場を奪う。
「陸に言ったらどうなるか分かってんだろうな」という言葉は、私にとって何よりも恐ろしい呪いとなった。
私は陸を守るため、そして自分の犯した過ちが明るみに出ることを恐れるあまり、誰にも救いを求められない孤独な檻の中に閉じ込められていったのだ。
「陸……ごめんなさい……」
自室のベッドで、私は制服のスカートを抱きしめながら声を殺して泣いていた。
首筋に残る痛々しい痕跡をなぞる。
恐怖と屈辱に震えながらも、私の身体の奥深くには、翔太によって無理やり穿たれた「異質な熱」が、消えない火種として燻り始めていた。




