第3話 汚される純白
季節は夏に向かって、日差しが日に日に強さを増していた。学校の廊下に差し込む光は白く眩しく、放課後の校舎には部活動に励む運動部の掛け声が遠く響いている。
俺と真央の日常は、表向きは何一つ変わっていないように見えた。
毎朝、同じ時間に家の玄関を出て、並んで登校する。休み時間には真央が俺の席までやってきて、他愛もない雑談に花を咲かせる。
今まで通り、クラスメイトの男子からは「お前ら、いい加減付き合っちゃえよ」と相変わらず冷やかされ、真央は恥ずかしそうに下を向いて「もう、からかわないでよ」と小さく笑う。
そんな日常。俺の初恋は、相変わらず誰もが羨むような透明感に満ち溢れていた。
だが、その日を境に、俺の鼻腔をくすぐる「匂い」が変わり始めた。
「陸、今日の放課後なんだけど……ごめんね、図書室行けなくなっちゃった」
お昼休み、俺のデスクの前に立った真央が、申し訳なさそうに眉をひそめた。
黒髪を綺麗に切り揃え、第一ボタンまでしっかりと留められた制服のブラウス。相変わらずの清楚な佇まいだ。
「え、そうなの? なんか用事?」
「うん。ちょっと、クラスの女子からノート借りなきゃいけなくて……すぐ終わると思うんだけど、先に帰ってていいよ」
「そっか。じゃあ、校門のところで待ってるよ。急がなくていいからさ」
そう言って俺が立ち上がった瞬間、真央がふわっと身を翻した。
そのとき、真央の髪と制服の隙間から、これまで嗅いだことのない匂いが立ち上り、俺の鼻腔を強く突いた。
それは、石鹸やシャンプーの匂いではなかった。
重く、濃厚で、どこか熟しすぎた果実のような、大人びた甘い香水の匂いだった。
そこまで詮索するのは良くないとは思うが……。
「……真央、その匂い」
思わず言葉が口から漏れた。
真央はピクッと背中を強張らせ、大慌てで一歩後ずさった。その動きは異様なほど怪しくて、まるで触れられるのを恐れているかのようだった。
「え? 匂い……?」
「あ、いや……いつもと違う香水の匂いがしたから。真央って、そういうのつけるタイプだっけ?」
俺が首をかしげると、真央の顔からすーっと血の気が引いていくのが分かった。
透き通るような白い肌が、一瞬で蒼白になる。真央は胸元を両手でギュッと押さえつけるように隠しながら、泳ぐ視線を必死に俺から逸らそうとした。
「あ、これ……? これはね、あの……休み時間に友だちが持ってきた香水を、試してみない?って言われて、ちょっとつけさせてもらったの! だから、私のじゃないの!」
早口で捲し立てる真央。その声はかすかに上ずり、手先が小さく震えていた。
「そうなんだ。大人っぽい匂いだなと思って」
「そ、そうかな……? 私にはちょっと重すぎたかも。すぐ洗い流してくるね!」
真央は俺の答えを待たずに、逃げるように教室を飛び出していった。
廊下に残された俺は、真央の去った空間にポツンと取り残された。
真央が去った後にも、その香水の匂いがかすかに空気に残っていた。
不思議だった。真央の言っていた「クラスの女子」で、こんな大人びた夜の街を思わせるような香水をつける奴なんて、この学校にいただろうか。
それに、いくら友達に勧められたからといって、あんなにも動揺して理由を説明する必要があるのだろうか。
(気のせいだ……)
俺は自分にそう言い聞かせた。
真央は昔から真面目で、少しウブなところがある。香水なんて慣れないものをつけてしまったから、恥ずかしくて動揺しただけだ。
そう納得しようと努めた。
だが、胸の奥で芽生えた小さな違和感は、消えることなく不気味な根を張り始めていた。
放課後、約束通り校門の前で真央を待ったが、三十分経っても彼女は現れなかった。
諦めて一人で帰路についた夕暮れの道、俺の鼻腔には、あの重く甘い香水の匂いがこびりついて離れなかった。
それが、真央が自ら選んでつけたものではなく、誰かに「擦り付けられた」匂いである可能性に、俺はまだ気づくことができずにいた。
◇◆◇
あの香水事件から数日が過ぎた。
真央の態度は相変わらずで、俺に対してもこれまで通り優しく接してくれていた。
だが、俺の中で膨らみ始めた違和感は、日に日に無視できないほど大きくなっていた。
真央は時折、誰もいない方向をじっと見つめて考え込んでいることが増えた。
スマホの通知が鳴るたびに肩を揺らし、画面を確認しては深いため息をつく。そして、俺と目が合うと、無理に作ったような満面の笑みを浮かべるのだ。
「陸、今週の土曜日なんだけど」
金曜日の放課後、校門を出たところで真央がぽつりと切り出した。
土曜日は、二人で隣町の大きな図書館へ行き、帰りに新しくできたカフェによる約束をしていた。
何週間も前から楽しみにしていたデートのような予定だった。
「うん、図書館だよね。午前十時に駅前集合で合ってる?」
「……ごめんね、陸。土曜日、行けなくなっちゃった」
真央は悲しそうな顔で伏し目になった。
「え? なんかあった?」
「うん……急にお腹が痛くなっちゃって。ううん、風邪かな? 最近ちょっと体調が優れなくて、土曜日は家でじっと休んでようと思うの」
「え、そうだったんだ……大丈夫? 病院、ついていこうか?」
「ううん! 大丈夫! 本当にただの疲れだから、気にしないで。約束キャンセルしちゃってごめんなさい……」
真央は何度も頭を下げた。
体調が悪いなら仕方がない。「気にしないで、ゆっくり休んで」と声をかけ、その日は自宅の前で別れた。
そして、約束の土曜日。
真央を心配した俺は、午後になってからスポーツドリンクとゼリー飲料を買い、彼女の家へ届けることにした。
隣家とはいえ、一人で押しかけるのは迷惑かもしれないと思い、インターホンを押さずに玄関先に差し入れておこうと考えたのだ。
住宅街の角を曲がり、真央の家の前の路地に入ろうとした、その時だった。
ブォン――ブォン――
不快な重低音を響かせて、一台の黒塗りの中古高級車が、狭い路地裏に路駐しているのが見えた。
型落ちの粗悪な改造車だ。車内からは下品な重低音の音楽が漏れている。
(なんだあのアタッチメント……こんなところに誰だ?)
俺が陰から様子を見ていると、真央の家の勝手口がゆっくりと開いた。
出てきたのは、真央だった。
彼女は「体調不良で寝込んでいる」はずなのに、私服に着替えていた。いつもの清楚なブラウスにスカート姿だが、どこか服の着こなしが乱れているように見えた。
真央は周囲を怯えたように何度も見回しながら、足早に黒い車へと近づいていく。
車の後部座席のドアが滑らかに開いた。
中に座っていた人物の顔は影になって見えなかったが、伸ばされた太い腕が、真央の華奢な手首を強引に掴んだ。
「あ……っ」
真央の小さく短い悲鳴が聞こえた。
抗う素振りを見せた真央だったが、車内にいる人物に何かを耳元で囁かれると、途端に全身の力を抜き、諦めたように車内へと引きずり込まれていった。
車内に乗り込む直前、一瞬だけ見えた真央の横顔。その表情は、体調不良の病人のものではなかった。
頬は熱っぽく朱に染まり、瞳は潤み、恐怖と——何か尋常ではない感情に苛まれているような、見たこともない艶めかしい横顔だった。
バタン、とドアが重い音を立てて閉まる。
車は急発進し、黒い排気ガスを撒き散らしながら路地を走り去っていった。
「え……。真央……?」
俺の手に握られたスポーツドリンクが、虚しく握りつぶされる。車を運転していた奴の姿、そして後部座席で真央の手首を掴んだあの独特の傷痕のある腕。
忘れるはずがない。あいつは、——桐島翔太だ。
なぜ、真央が翔太のところの車に乗っている?
なぜ、俺に嘘をついてまで、あんな奴の呼び出しに応じているんだ?頭の中が真っ白になり、吐き気がこみ上げてきた。
だが、俺の臆病な心は、ここでも最悪の真相から目を背けた。
(脅されてるんだ……翔太の奴、真央を何かで脅して無理やり連れ出したんだ)
そう思いたかった。そうであってほしかった。真央のあの熱っぽい瞳の意味を深く考えることを、俺の脳が拒絶していた。




