第2話 絶望の予感
公園のベンチを後にした俺と真央は、夕闇が薄く広がり始めた住宅街の坂道を並んで歩いていた。
足元に伸びる影が徐々に濃くなっていく。真央の歩幅は小さく、それに合わせて俺もゆっくりと靴底を鳴らす。
口の中に残るイチゴキャンディの残り香が、なんだか気恥ずかしくも心地よかった。
「あ、陸。おばさんに頼まれてたお醤油、うちの分と一緒に買ってあるから後で届けるね」
「サンキュ。母さん、最近うっかりが多くてさ」
そんな他愛もない会話。誰もが羨むような、穏やかで幸福な日常の片隅で。
その平穏は、一本の街路灯の下で待っていた「あいつ」によって呆気なく不協和音を奏で始める。
「――なんだよ、まだ仲良くいちゃいちゃしてんのかよ? 陸兄ちゃん」
そんな、嘲るような声が静寂を掻き消した。
物陰から現れたのは、俺たちの家の近所に住む中学生――桐島翔太だった。
今年で中学三年になるはずの翔太は、学校にはほとんど通っていない。
裕福な実家の威光を笠に着て、近所のアウトローなグループとつるんでは窃盗や暴力沙汰を繰り返している、界隈では有名な問題児だった。
中学生とは思えないほど体格が良く、日焼けした肌にはどこで付けたのか分からない浅い傷痕が幾つか残っている。
翔太はポケットに手を突っこんだまま、ダラダラとした足取りで俺たちとの距離を詰めてきた。
「翔太くん……」
真央の声がわずかに震え、俺の制服の袖をキュッと掴んできた。
俺は真央を庇うように一歩前へ出る。
「翔太、こんな時間まで何してんだよ。早く家に帰らないと、またおじさんに怒られるぞ」
俺としては注意のつもりだったのだが、翔太は鼻で「フン」と笑い、俺を舐め腐った態度で見つめてきた。
その瞳には、年下とは思えない粘着質な悪意が渦巻いている。
「怒られる? 誰が? あの親父が俺に何か言えるわけねえだろ。金だけ置いて勝手に愛人のとこ行ってんだからさ」
唾を吐き捨てるように言い放つと、翔太の視線は俺を通り越し、背後に隠れる真央へと注がれた。
「それにしてもさあ、真央姉ちゃん。相変わらず可愛いね。陸兄ちゃんみたいな冴えない奴の隣にいて、退屈しねえの?」
「……そんなことないよ。陸は優しいし」
真央は言葉を絞り出したが、翔太の威圧感に気圧されたように俯いてしまった。
真央の黒髪が揺れ、夕闇の中で首筋の白さが一段と際立つ。
この時も翔太の目が、ギロリと怪しく光ったのを俺は見逃さなかった。
あいつは真央のその身体を、まるで品定めでもするかのように、頭から足先までねっとりと視線で撫で回している。
「優しさねぇ。……ただのヘタレだろ? いまだに手すら握ってねえんじゃ」
「お前、いい加減にしろよ!」
俺は声を張り上げた。胸の奥で苛立ちが熱く滾る。だが、翔太は怯むどころか、ニヤリと口元を歪めて俺に一歩近づいてきた。
体格差はほとんどないはずなのに、翔太から漂う荒々しい暴力の匂いに、俺の身体はすくんでしまう。
「怒るなよ陸兄ちゃん。冗談だって。……じゃあな、またな『真央姉ちゃん』」
翔太は意地悪な笑みを残すと、俺の肩を強く叩いてすれ違い、闇の中へと消えていった。
叩かれた肩がズキズキと痛む。俺は自分の不甲斐なさに歯噛みしながら、真央の方を振り返った。
「ごめん、真央。大丈夫だった?」
「うん……大丈夫。でも、翔太くん、昔よりなんだか怖くなったよね」
真央は不安そうに俺の袖を掴んだままだ。
俺はその手を優しく包み込んでやりたかったが、結局、言葉だけで「俺が守るから」と伝えることしかできなかった。
自分の言葉が、いかに軽かったのか。
翔太が去り際に浮かべたあの歪んだ笑顔の意味を、俺はこの時もっと真剣に考えるべきだったのだ。
翔太の狙いは、単なる悪戯や嫌がらせなどではないはずだ。
学校中で「清楚な学園のアイドル」として崇められ、俺と二人で甘い初恋を温め合っていた真央――その完璧に守られた華を、汚泥の中に引きずり下ろすこと。
そして、指一歩動かせない俺の無力さを噛み締めさせ、二人の関係を根本から破壊することだった。
あいつの吐く毒は、すでに俺たちの足元へと忍び寄っていた。
◇◆◇
翔太と出くわした翌日からも、表面上は穏やかな日常が続いていた。
放課後、俺と真央はいつものように二人で図書室の窓際席に座り、テスト勉強をしていた。
窓からは柔らかい風が吹き込み、真央の黒髪を静かに揺らす。
真央がシャープペンシルを動かすかすかな音と、ページをめくる音だけが室内に響いていた。
「陸、ここなんだけど……この英文の解釈ってこれで合ってる?」
真央がノートを滑らせて見せてくる。整った綺麗な文字。
俺は真央の隣に身を乗り出し、ノートを覗き込んだ。
「あ、うん。ここは過去完了形だから……」
教える振りをして真央の横顔を見る。長い睫毛、透き通るような肌、ほんのりと赤みを帯びた薄い唇。
距離があまりにも近くて、胸が張り裂けそうになる。真央も俺の視線に気づいたのか、パッと頬を染めて視線を伏せた。
(やっぱり、真央も俺のことを……)
胸の奥が甘い期待で満たされる。昨日翔太に言われた「ヘタレ」という言葉が頭をよぎったが、俺たちは俺たちのペースで進めばいい。
わざわざ焦ってこの愛おしい時間を壊す必要なんてないのだと、自分に都合よく言い聞かせていた。
その時だった。
ヴヴヴ――ヴーッ――
静かな図書室に、スマートフォンのバイブレーション音が鳴り響いた。
机の上に置かれた真央のスマートフォンが揺れている。画面には名前が表示されておらず、未登録の番号からの着信であることを示していた。
真央はビクッと肩を跳ね上げさせると、大慌てでスマホを手で覆い隠した。
「あ、ごめん! マナーモードにしてたつもりだったのに……」
「いいよ。誰から? 出ても大丈夫だけど」
俺が何気なく尋ねると、真央は一瞬だけ表情を凍りつかせた。だが、すぐにいつもの清楚で柔らかい笑顔を張り直す。
「ううん、ただの迷惑電話か……近所の子からのちょっとした頼み事の連絡だと思う。後でかけ直すからいいの」
「近所の子?」
「うん、ほら、自治会のお手伝いの件でね。大したことじゃないの」
真央はそう言うと、逃げるようにスマホをカバンの奥底へと押し込んだ。
その手つきが、どこか異様に急いでいるように見えた。
いつもなら隠し事など一切しない真央が、俺からスマホの画面を遠ざけたこと。そして、「近所の子」と言った時の、ほんのわずかな声の掠れ。
以前もかかってきた番号から……。
(……翔太か?)
一瞬、嫌な予感が脳裏をかすめた。だが、真央と翔太に接点などあるはずがない。昨日の今日だ、関わりたくもないはずだ。
「……そうか。勉強、続きやろうか」
「うん!」
真央は笑顔で頷いた。
だが、その後の真央はどこか心ここにあらずで、何度もカバンに視線を落としていた。
シャープペンシルを握る指先が、かすかに震えているようにも見えた。
俺は疑問を抱きながらも、それを深く問い詰めることができなかった。
真相を聞いて、もし自分たちの関係にヒビが入ったらどうしようという恐怖。真央を信じたいという身勝手な願望。
いつものように俺は違和感から目を背け、甘い麻痺の中に逃げ込んだ。
この時の俺の「優しさ」という名の逃避こそが、真央を絶望の淵へと追い詰める最初の引き金になったとも知らずに。




