第1話 噂のあの子を染める色
放課後のチャイムが鳴ると、教室の喧騒は一気に外へと流れ出していく。
夕刻の赤い光が窓枠を斜めに切り取り、木製のデスクに長い影を落としていた。
「陸、またぼーっとしてる」
鈴を転がすような澄んだ声に、俺――蓮見陸は跳ね起きるように顔を上げた。
視線の先には、整えられた黒髪を肩に揺らし、少し首をかしげてこちらを見つめる白石真央の姿があった。
仕立ての良い制服を隙なく着こなし、折り目の正しいスカートから伸びる脚はどこまでも白い。
学校中から「清楚なお姫様」と評される彼女は、俺の隣家で育った幼馴染であり、俺の初恋の相手でもあった。
「ごめん、真央。ちょっと考え事してて」
「もう、教科書開いたまま固まってたよ。ほら、帰ろ?」
真央は小さく微笑むと、自分のカバンを抱えて俺の席の横に立った。
その仕草ひとつ、漂う石鹸の香りひとつ取っても、俺の胸はいつも痛いほど高鳴る。
校門を出て、橙色に染まる通学路を二人で並んで歩く。俺たちの距離は、手を伸ばせば触れ合えるほど近い。
だが、その数センチの隙間を埋める勇気が、俺にはどうしても出なかった。
「あ、陸。あそこ、まだ開いてる」
真央が指さしたのは、住宅街の角にひっそりと佇む古い駄菓子屋だった。小学生の頃、二人でよく小銭を握りしめて通った場所だ。
「懐かしいな。久々に入ってみるか」
店内に入ると、独特の甘い香りと埃の匂いが鼻をくすぐる。真央は子供のように目を輝かせ、ガラス瓶に並べられたカラフルな飴玉を眺めていた。
「これ、覚えてる? よく二人で半分こして食べたよね」
真央が手に取ったのは、安っぽい透明なフィルムに包まれた大きなイチゴ味のキャンディだった。
「覚えてるよ。真央がいつもイチゴ味選ぶから、俺はいつも余ったソーダ味だった」
「ふふ、今日はちゃんと半分あげる」
会計を済ませ、店を出た公園のベンチで、真央は器用にキャンディの包み紙を破いた。カチリと音がして、丸いピンク色の塊が二つに割れる。
彼女は大きい方を俺の手のひらに乗せてきた。
「はい、陸の分」
「ありがとう」
口に含むと、一口で強烈な甘さが口いっぱいに広がった。真央も自分の口にキャンディを運び、頬を少し膨らませて嬉しそうに目を細める。
誰もが俺たちのことを「付き合っている」と思っていた。
クラスメイトからも「お前ら、いつ結婚するの?」なんて冷やかされるのが日常茶飯事だった。
真央もそれを嫌がる風でもなく、いつも少し顔を赤くして微笑むだけだった。
(両思いなんだな、俺たち)
そう確信していた。真央の瞳に映るのはいつだって俺だけで、真央の隣にいるのはいつだって俺だった。
『好きだ』と一言口にすれば、この甘い関係はきっと本物の恋人同士へと変わる。
けれど、俺はその一言を言えなかった。
もし告白して、今のこの完璧で甘い関係が壊れてしまったらどうしよう。
今のままでも十分に幸せじゃないか。そんな甘えと怯えが、俺の口を重くしていた。
「陸といると、すごく落ち着くな」
夕日を背に浴びながら、真央が呟いた。
「……俺もだよ、真央」
「ずっと、こうやって一緒にいられたらいいのにね」
「うん。ずっと、一緒だよ」
俺は嘘をついた。ずっと一緒でいるためには、関係を進めるための踏み込みが必要だったのに、俺はその責任から逃げたのだ。
口の中のキャンディがゆっくりと溶けていく。甘くて、温かくて、幸福に満ちた味。
この時の俺はまだ知らなかった。
この甘い関係を放置した代償が、どれほど残酷な形で返ってくるのかを。
そして、このキャンディの甘さが、やがてドロドロの汚泥と屈辱の味へと変わってしまうことを。
公園の街灯がパチパチと音を立てて点灯する。
遠くで、見覚えのある粗暴な中学生――桐島翔太が、ニヤニヤと卑しい笑みを浮かべて俺たちを見つめていることにも、俺はまだ気づいていなかった。




