第22話 猫被りの負け犬・後編
公園の公衆トイレの前に立つ、古びた水飲場の水で血を洗い流そうとした時のことだ。
水道管が錆びついているのだろうか?
赤茶けた水が不規則な音を立てて蛇口から吐き出されていた。
「痛っ……くそ、痛ぇ……っ」
蛇口から出る水で頬を濡らすたび、カッターナイフで切り裂かれた傷口が烈火の如く熱く疼く。
それにこの時期の水はとても冷たいから、その分、頬の傷に沁みてとても痛い。
手のひらに溜めた水を浴びた俺の顔からは滴り落ちる血と混ざり合った水飛沫が、周りに飛び散った。
身体中の関節が、早坂たちに踏みつけられたせいで悲鳴を上げている。鼻の奥には血の生臭い匂いがこびりつき、息を吸い込むたびに肋骨の奥がズキズキと痛んだ。
俺は公衆トイレの鏡に映る自分の顔を見つめた。
腫れ上がった右頬、血で固まった前髪、そして何より――恐怖で引きつり、見苦しく怯えきった己の目。
(こんなはずじゃ……なかった……)
俺は『強者』だったはずだ。同級生どもを恐怖でねじ伏せ、教壇の影で、廊下の隅で、奴らが怯える姿を見下ろしていた時、俺は確かに生きていた。
奴らの視線に含まれる絶望と恐怖こそが、俺という存在の唯一の証明だったはずだ。
なのに、なぜだ。なぜ早坂は俺を嘲笑い、あの連中とつるんで俺を踏みつけた?
答えは分かっていた。分かってしまっていた。
『早坂さん~、こいつ足震えてるっすよ笑』
あいつらには『群れ』があった。俺には、頼れる相手なんて誰もいなかった。
俺はただ、暴力という使い捨ての刃物を振り回していただけの、一人の臆病者に過ぎなかった。
誰とも繋がれず、誰の愛も受け取れず、誰一人として背中を預けられる奴がいない。
俺を産み落とし、男と女の欲望の海へ消えていった無責任な親の顔が頭をよぎる。
『翔太、うるさいわね。向こうに行ってて』
『おい、俺の財布から金抜いたろ。まあいいや、勝手に飯でも食っとけよ』
俺には何も与えられなかった。家庭でも、学校でも、世界中のどこに行っても、俺の居場所なんて最初から存在しなかった。
「あぁ……っ、ぁぁぁ……っ」
悔しさと惨めさで視界が激しく歪む。膝から崩れ落ちそうになったその時、後ろから足音が近づいてきた。
「……ねぇ、大丈夫?」
透き通った声が俺を振り返らせた。
振り返ろうとした俺の視界に入ってきたのは、白いスニーカーと、放課後の夕日に照らされたスカートの裾。
「陸、この子すごく血が出てるよ!」
「……待って真央、むやみに触ると怪我がひどくなるよ。ねえ君……動ける?今、家から救急箱持ってくるから」
視線を上げると、そこに立っていたのは二人の男女だった。
二人は白石真央、蓮見陸と言うらしい。
近所でも有名な仲睦まじい幼馴染だった。
陸の目はまっすぐで、濁りがなくて、どこまでも澄んでいた。真央の顔には、俺のような泥の底で這い回る人間には到底持ち得ない、優しさが満ちあふれていた。
(なんだ……こいつらは……)
俺とも早坂たちとも違う。俺を見下す学校の教師どもとも違う。
こいつらは、俺の傷口を見て、本気で悲しそうな顔をしていた。
「すぐ近くだから、ここで待ってて!陸、急いであげて!」
「分かった、すぐ戻ってくるから!」
陸が背を向けて走っていく。真央は小さく息を吐くと、ポケットから綺麗にアイロンのあてられたハンカチを取り出し、俺の頬にそっと添えた。
「痛いよね……ごめんね、私じゃ何もできなくて……」
真央の手はあたたかかった。ハンカチから漂う柔らかい柔軟剤の香りが、とても心地良かった。
いかにも優等生な真央を横目に、俺はこいつらを利用できないかと考えた。
(あぁ……そうか)
俺は拳を固く握りしめた。
(こいつらは、救いたいんだ。可哀想な奴を、傷ついた奴を、助けてやることで満足する偽善者なんだな)
俺に群れがないなら。俺に守ってくれる味方がいないなら。
こいつらを宿主にすればいいじゃないか。こいつらの『善意』に、徹底的に寄生してやればいい。
「う……う……!痛い………助けてよ!」
俺は顔を両手で覆い、わざとらしく声をごまかしながら泣きじゃくった。弱々しく肩を震わせ、今にも壊れそうな被害者の振りをしてみせた。
「大丈夫だよ、もう大丈夫だからね!陸が救急箱を持ってきてくれるから!」
(へぇ〜)
真央姉が焦ったように俺の肩を抱きよせる。その華奢な体のぬくもりが俺の頭に触れた時、俺は両手で顔を覆いながら、指の隙間から真央姉の顔を覗き込んだ。
――なんて、チョロいんだろう。
恐怖で支配するよりも、暴力でねじ伏せるよりも、ずっと簡単じゃないか。
弱虫の仮面を被りさえすれば、この完璧で綺麗なふたりは、いくらでも俺のために心を痛め、手を差し伸べてくれるのなら。
俺はそれをうまく利用するまでだ。
◇◆◇
陸が走って持ってきてくれた救急箱で傷の手当てを受け、二人に懐くふりをした。
それからは毎日顔を出したから、次第に二人がどんな人間なのかが分かってきた。
まず、陸はバカだ。本当に真っ直ぐで、単純で、お人好しのバカだ。自分の手が届く範囲の人間を本気で守れると思っているようだ。
真央も真央で年下に優しすぎだ。陸が嫉妬しちゃうじゃないか。
「ねえ、翔太くん。これ、うちのお母さんが作ったクッキーなんだけど、食べる?」
俺が不登校になる前の放課後、いつもの公園のベンチで、真央姉が小さなラッピング袋を差し出してきた。
「……真央姉、ありがとう!俺、こういうの手作りでもらったの初めて……!」
俺は目を輝かせ、子供のようにはしゃいで袋を受け取った。
「ふふ、遠慮しないで食べてね。翔太くんが美味しそうに食べてくれると、私もうれしいな」
真央姉は本当に嬉しそうに微笑んでいた。その無防備で、清らかな笑顔。
クッキーを一口かじる。バターの甘い香りが口の中に広がったが、俺の心の中は冷ややかな嘲笑に溢れていた。
(ママさん気取りかよ。反吐が出る)
こんな甘ったるいお菓子で、俺の飢えが満たされるとでも思っているのだろうか。
俺が欲しいのはクッキーじゃない。
俺が今欲しいのは――都合の良い女だ。
「美味しいよ、真央姉……。俺が、真央姉の弟になれたらいいのに……」
「もう、翔太くんは本当の弟みたいなものだよ?」
真央姉が俺の頭を優しく撫でる。
その手の温もりを感じながら、俺は微笑んだ。




