第21話 猫被りの負け犬・前編
「……ねぇ、怪我大丈夫?」
「名前を教えてくれるかな?」
卒業前のあの日、陸兄と真央姉はこんな俺に手を差し伸べてきた。その時の俺は信頼を勝ち取ることができれば、どこかで役に立つかもしれないと思った。
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それは一段と寒さが増していた2月下旬のことだ。俺はいつものように学校内で同級生たちをいたぶっていた。
校舎の陰り、冷たい風が吹き抜ける誰も来ないような場所で、自分より弱い奴らを言葉と暴力で屈服させることが、当時の俺にとって唯一の生き甲斐だった。
己の惨めさや孤独から目を背けるためだけに、誰かの尊厳を踏みにじり、虚勢を張り続けていた。
すると、しばらくの間、俺の下についていたはずの早坂が、あの日の鬱憤を晴らす目的で俺に歯向かってきやがった。
放課後の体育館裏は人通りが少なく、早坂の連れが、俺を囲う。
俺を取り囲むこいつらは、少しずつ俺をいたぶるつもりでいた。
思えば早坂は俺に従順な振りをしていたが、その裏でのほかの連中との関係は続いていたはずだ。
へらへらしながら俺の顔色を窺い、鞄持ちやら雑用やらを嫌な顔一つせずに引き受けていたあいつの目が、時折冷たく光っていたのを覚えている。
ああ、くそ。
あれは恭順の眼差しなんかじゃなく、獲物を狙う猛獣が機を待つ目だった。
俺が油断し、一歩踏み外すその瞬間を、あいつはずっと静かに待ち続けていたんだ。
クラスや他校からの印象として俺と早坂は二人とも粗暴な餓鬼で、このままいけば犯罪に手を染める奴らという評価だったらしいが、一つだけ俺等が似て異なるものだと証明するものがあったらしい。
俺とあいつで何が一番違うか。それは、周りに味方がいるか、いないか。同じ連中に慕われるか、否か。
たったそれだけのことだが、味方が大勢いる早坂とは違い、頼ることが出来ない俺には致命的な違いだった。
とにかく早坂は要領が良かった。誰かを殴る時も、誰かを笑いものにする時も、常に周囲に「お前もそう思うだろ?」と同意を求め、自分を中心としたコミュニティを作り上げていた。
上手いこと周りを言いくるめられるほど頭が回ったし、どこか仲間想いで。
だからこそ、あいつの周りにはいつも人が集まっていた。悪意で結びついた、脆くも強固な烏合の衆。
一方で俺は、誰のことも信じられず、誰の手も握ろうとしなかった臆病者だ。
一人で突き進み、暴力だけを盾にして周囲を威嚇し続けてきた。その結果がこれだ。
味方など一人もいないし、頼れる背中も、助けを呼ぶ声すら持ち合わせていない。
「たった一回俺を怪我させたくらいで、なーに偉そうにしてんだよ!!」
言葉の端々に滲む狂気と怒りは、吹いた冷気と混ざり合って俺の皮膚を刺した。
「早坂さん、ボコったら教えて下さいね。俺はカッター準備しとくんでー」
周りの連中が下品な笑い声を上げる。
凶器の存在を仄めかし、どこまでも俺を追い詰めようと、あいつらは必死だ。
これまで俺が振るってきた恐怖が、何倍もの重さとなって俺自身に返ってこようとしていた。
「……」
何でだ?俺はどうして拳を振るえない?今更、怖気づくことなんかないはずだ。
今まで何度も人を殴ってきた。何度も痛みと怒りの中で立ち回ってきたはずだった。
なのに、どうして腕が上がらない?右拳を固く握りしめようとしても、指先に力が入らない。喉の奥が乾ききり、ヒューヒューと浅い息しか吸い込めない。
「ぁあ、ぁ」
あの頃みたいに弱者側に戻れってか?
人に踏みつけられ、惨めさに耐えながら地面を見つめていたあの暗い日々を繰り返してたまるかと、二度とあそこには戻らないと誓ったはずだった。
強者になることでしか、俺は自分を守る術を知らなかった。
それなのに、いま俺の目の前に広がっているのは、かつて俺が撒き散らした恐怖そのものの光景だ。
「早坂さん〜、こいつ足震えてるっすよ笑」
連れの一人が足元を指して嘲笑う。
少しずつ、少しずつ、こいつらは俺に距離を詰めてくる。俺の膝はガクガクと震え、握り締めた拳はこれから行われるであろう事を想像すると汗でびっしょりと濡れてしまった。
こんな時に俺は情けない。
一歩退こうにも、逃げ場などどこにもなかった。指一本動かせないまま、押し寄せる暴力の気配に俺は抗えなかった。
バキッ
「あ〜鼻血垂らして情けねえ〜笑」
早坂の渾身の一撃を食らい、ポタポタと滴り落ちる血を見た俺は恐怖で震えて動けなかった。
「ぁあ、ぁ゙ぁ゙あ゙………!!」
俺はその場に崩れ落ち、痛みに悶えることしかできないまま、こいつらに笑われ続けるしかなかった。
殺してやりたい、黙らせてやりたい。
そう思っても、数の暴力には抗えない。
「んじゃ、今から顔面を切りつけまーす」
カチ、カチ、カチ、カチ
先ほどカッターで俺を切りつけると言っていた奴が、遂にポケットからカッターを取り出して、俺の頬元まで近づけた。
くそ、殺してやる。
「何だよ、その目」
早坂は髪の毛を掴み上げ、笑いながら、唾を吐き捨てた。
「ぁぁぁ……」
俺は抵抗など出来ずに、カッターで頬を切りつけられ、それから長い間痛めつけられることになった。
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……しばらくしてあいつらは飽きたのか、その場から立ち去ったが、俺は痛くて立ち上がれなかった。
(動けるようになったら、公園に行こう。傷口がどうなってるのかも見たいし、あの公園ならあいつらは来ないだろうから……)
この後、俺の運命は大きく動き出すことになる。
もし、あの時公園の公衆トイレで傷を見に行っていなければ、あの二人に出会いはしなかったのだろうか。




