第19話 逆風張帆
雑居ビルの屋上に吹き抜ける夜風は、秋の深まりとともに肌を刺すような冷たさを帯び始めていた。
「う……寒い。陸ー、早くその問題の解説してよ。寒さで指が動かなくなってきた……」
缶コーヒーの温もりで両手を包み込みながら、吏音はパイプ椅子の上で若干震えながら蹲っていた。
膝の上には、角が擦り切れた英語のワークとノートが広げられている。
「……だから言ったろ。下でやればいいのに、お前が屋上に行くって言ったんだろ」
「はぁ……」
陸は呆れたように言いながらも、自分が着ていた、ジップアップパーカーを脱ぎ、吏音の細い肩へと無造作に掛けた。
「うわ、暖か……っていうか汗くさい」
「は?返せ」
「冗談だって!ありがと」
吏音はパーカーの袖にすっぽりと手を隠しながら、嬉しそうにニシシと笑った。陸の服に包まれると、吏音はとても安心するらしい。
陸はペンを握り、吏音のノートの余白に綺麗な文字で例文を書き殴っていく。
「いいか、吏音。この『had + 過去分詞』は過去完了形だ。過去のある時点よりもさらに前に起きた出来事……『大過去』を表す時に使う」
「へ?だいかこ……? 過去のさらに過去ってこと? ややこしいな。過去は過去でいーじゃん」
「言葉にしておかないと、時間の順番が分からなくなるだろ。例えば、お前と会う前の俺が何してたか。みたいな」
陸が淡々とそう告げると、ペンを動かす手がふっと止まった。夜空を見上げる。歓楽街のネオンが遠くで赤や青に滲んでいた。
「……大過去、か」
陸の口から、小さな呟きが漏れた。
なんだかんだ、あの頃も楽しかったんだがな。光を信じてやまなかったから。優しさに自惚れていたから。
でもそれは、雨の勝手口で冷たく拒絶された瞬間にすべて、陸にとって「過去」の出来事になった。
どん底まで堕ちて、引きこもったあの時も、格闘技ジムで拳を固めてきた今の陸にとって、あの頃の甘い記憶も屈辱も、遠い昔の出来事のように思える時がある。
(そうだ。自分勝手な俺を心配してくれた両親に謝らないといけないな。親は……いついなくなるかなんてわからないんだからな)
吏音は膝の上でアゴを突き出し、陸の横顔をじっと見つめていた。
「ねえ、陸」
「……なんだ?」
「今は、楽しい?」
まっすぐな質問だった。
陸は自分の右拳を見つめた。
傷跡だらけの無骨な拳。そこには、翔太を破壊するための暴力の牙が完璧に研ぎ澄まされている。だが、以前のようにその拳を握るたびに激しい動悸や吐き気に襲われることはなくなっていた。
日に日に心も強くなっている気がする。
「楽しいよ」
陸は静かに答えた。
「吏音が……俺に優しさを、思い出させてくれた」
「〜〜っ」
吏音の顔が、一瞬で耳まで真っ赤になった。
「な、なに急に恥ずかしいこと言ってんのバカ……!あたしはただ、練習相手が変な奴だと迷惑だから世話焼いてあげてるだけだし!」
「本当のことだ。お前のおかげで、強くなれたんだ」
陸はそっと息を吐いた。
かつての自分は、憎悪という感情に完全に支配されていた。自分を壊し、相手を壊し、すべてを地獄の底に引きずり下ろすことだけが「目的」だった。
それも、吏音との出会いと、ALIVEでの厳しい鍛錬のおかげで、陸に「己を律する」心を身につけられた。
復讐を忘れたのか?丸くなった?
……むしろ逆だ。殺意だけじゃあ、あいつを苦しめてやれない。
「……あいつ、翔太はな」
陸は静かな声で言った。
「今でも街で不良として暴れてるらしい。力と脅迫で人を踏みにじり、自分は絶対に負けないと高を括ってる」
「ダサいよな」
「……」
「だから、あいつが一番大切にしている暴力で、大勢のギャラリーの前で完膚なまでに叩き潰す。あいつが得意な暴力で、あいつが信じる暴力で、完璧に踏みにじってやるんだ」
「まあ、勢い余ってあいつがどうなろうと、知ったこっちゃないが」
その声には、怒りも憎しみもなかった。
正確に言えば、これまでの殺意は消えたのではなく、己自身の奥底へと押し込め、制御できるようになったということだ。
吏音はゴクリと唾を飲み込んだ。
ようやく陸は、自分の感情を完全に制御できるようになった。
「……手加減、しないでやりなよ」
吏音は唇を噛み締め、陸のパーカーの袖をギュッと握りしめた。
「お前がそこまで覚悟決めてんなら、あたしは最後まで見届けるから。……でも、ボコボコにして勝った後は、ちゃんとあたしの所に帰ってきなよ? 刑務所行きとか、失踪とか……そんなの後味悪いマネしたら、あたしが殺しに行くから」
「それは恐ろしいな」
「……ああ。約束する」
陸は吏音の頭にそっと手を置き、髪を撫でてやった。
「髪型崩れる!」
文句を言いながらも、吏音は嬉しそうに目を細めて陸の手に頭を押し付けた。
「応援してるから」
冷たい夜風が吹き抜ける雑居ビルの屋上で、ふたつの影が寄り添っていた。
俺は、周りに恵まれていたんだな。と今になって思う。逆風も味方につけてしまえば、怖くなかったのだ。
あとは、舞台が整うのを待つだけ。
だが二人には、その舞台に複雑な介入者がいることなど知る由もなかった。




