↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
両想いだった噂のあの子は、近所の糞餓鬼に寝取られたらしい。俺の初恋は、泥に塗れたキャンディの味がした。  作者: アルファベータ
引きこもり編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/23

第18話 泡沫の理性を閉じ込めて


────────────────────

 ──────────────────


 『ALIVE』の地下ジムに、重く澄んだ打撃音が響き渡っていた。


 ドスッ……ドスンッ!


 暗闇の中で闇雲に拳を叩きつけていた頃とは、打撃の音が根本から違っていた。


 肩の力を抜き、軸足を深く踏み込み、腰の回転を拳の先端へと収束させる。


 陸の打撃は、ただの「重い拳」から、相手の骨を砕き脳を揺らすための「完成された凶器」へと変貌を遂げていた。


「よし、そこまで! 陸、一回上がれ!」


 リングサイドでストップウォッチを握る黒川会長の声が響く。


 陸は荒い息を吐きながら、グローブをはめた両手を膝につき、マットの上にポタポタと汗を滴らせた。


「ちっ、おいおい、相変わらず化け物みたいなスタミナだな。お前とスパーすると翌日首が回らなくなるんだよなー」


 「……そうですか」


 対戦相手を務めたジムの先輩である橘が、苦笑いを浮かべながら陸の肩を叩く。


 かつてなら、見知らぬ男に触れられただけで殺意を剥き出しにしていた陸だったが、今はただ静かに頭を下げた。


「ありがとうございました」


 冷たく、淡々とした声だが、そこには、かつてのような自暴自棄な狂気や、周囲を無差別に拒絶するような荒々しさはなかった。


 バンテージを解きながらリングを降りると、雑居ビルの階段へと続く勝手口の影から、ひょこっと見慣れた金髪の頭が覗いた。


「はい、陸。スポーツドリンクよっと」


 鹿島吏音だった。


 ダボついたジャージのポケットに両手を突っ込んだまま、放り投げるようにペットボトルを渡してくる。


 陸はそれを片手で受け止め、口をつけた。冷たい液体が、乾ききった喉を潤していく。


「ありがとさん」


「なによ、その顔。橘の奴に褒められてたのに、全然嬉しそうじゃないじゃんか」


 吏音はリングサイドのコーナーマットにひょいと腰掛け、運動靴の先を揺らした。耳元でピアスが、むき出しの蛍光灯の光を反射して怪しく光る。


「別に、褒められるためにやってるわけじゃないからな」


「はーい出た出た。『遊びじゃないんだよガキ』みたいな顔。怖いよー?力抜きなって」


 吏音は呆れたように肩をすくめると、あからさまに大きな溜め息をついて見せた。


「んー、あのさぁ、陸。最近のお前、確かにめちゃくちゃ強くなってるし、無駄な殺意も消えて打撃も綺麗になったと思うけどさ……なんかまだ『機械』みたいで見ててつまんないんだよね」


「は、機械だ?」


「そうだよ。まだ前は『あいつを殺してやる』っていう泥臭い怒りが見えてたからまだ人間らしかったけど、今の陸はただ淡々と強くなるための作業をしてるだけじゃん。それじゃ、ただの練習マシーンだよー」


 陸はペットボトルのキャップを締め、じっと自分の手のひらを見つめた。


 何度も皮が剥け、角質が硬く固まった拳。


 ……確かに吏音の言う通りだ。ジムに入り、吏音から諭されて以来、陸の心からは余計な感情が削ぎ落とされていったが……。


 翔太への殺意。


 真央への絶望。


 それらは消えたわけではない。胸の奥底で、巨大な氷塊となって冷たく固まっているのだ。


 恐らく、今は顔を合わせていないから踏みとどまれているだけなんだろうが。


 怒りに身を任せて暴れるのではなく、ただ冷静に、確実に相手を壊すための期間として己の肉体と技術を研ぎ澄ます。それが今の陸のスタンスだった。


「感情に流されたら、間合いを見誤る。復讐を果たすためには、理性が必要だって言ったのは吏音だろ?」


「言ったけどさぁ!」


 「……」


 吏音はリングから飛び降りると、陸の目の前にカツカツと足音を立てて歩み寄り、陸の頬を両手でギュッと挟み込んだ。


「む……なんだよ」


「硬い! 顔が硬いの! あたしが言ったのは『理性を保て』ってことで、『心を殺せ』ってことじゃないの! もーお前さぁ、たまには普通の高校生らしい顔しなよ。勉強教える時だって、なんか……」


 潰された頬のせいで変な声になりながら、陸はため息をついた。


「俺は……もう普通の高校生にはなれないんだ」


「なれるよ」


「いや、あたしが」


 吏音は挟んでいた手を離すと、まっすぐな瞳で陸を見上げた。その瞳には、彼女の荒々しさの裏に隠された、どこまでも暖かく、優しい光が宿っていた。


「あたしが戻してやる。お前がどんなに『自分はもう壊れた』って顔をしてても、あたしが何度もその硬い頭を引っ叩いて、元に戻してやるよ」


「……お前、本当に……。年下なのにな」


「もう! 年齢なんて関係ないね。あたしの方がここじゃ先輩なんだから、陸はあたしの弟分みたいなもんなの!」


 吏音は胸を張り、ニシシと意地悪そうに笑った。


 その屈託のない笑顔を見ていると、陸の胸の奥に固まっていた冷たい氷が、少し、ほんの少しずつ、溶け出していくような気がするのは何故なのだろか。


 正直、陸の世界には「絶望」と「憎悪」しかなかった。世界中のすべてが敵に見え、自分を裏切った真央と、踏みにじった翔太への殺意だけが生きる意味になりかけていた。


 だが、ここで吏音と出会い、汗を流し、くだらない雑談を交わすうちに、陸の壊れた心には少しずつ「新しい血」が通い始めていた。


「な、練習終わったら今日も屋上で勉強教えろよ。あたし、次の英語のテスト本気でやばいんだから」


「……赤点取ったら、腕立て百回追加な」



 騒ぐ吏音の後ろ姿を追いかけながら、陸は自分の胸にそっと手を当てた。


(俺は……変われているんだろうか)


(……いや、変われているんだろうな)


 真央に拒絶されたあの雨の日、自分の中で何かが決定的に死んだと思っていた。


 だが、吏音の存在が、失われたはずの「人間としての温もり」を、もう一度陸の中に繋ぎ止めようとしていた。


 翔太を叩き潰すという目的は一貫して変わらない。


 しかし、今はただ復讐に燃えるだけでなく、守るべき理性と、自分を呼び戻してくれる存在を胸に秘めた、真の「強者」へと成るだけなんだと、吏音が教えてくれたから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。