第16話 傍観者
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鎌田琉生がこの世で最も憎んでいたものは、人間の「表と裏」だった。
鎌田の実家は、外から見れば閑静な住宅街に建つ一軒家だったが、その扉の向こう側は欲望と惰性の吹き溜まりだったと言える。
父親は酒と女に溺れ、母親に家事を押し付けた割にわずかなミスがあると暴力という恐怖でねじ伏せようとする。
母親も母親で、夫の暴力から目を逸らすため別の男を家に連れ込み、まだ幼かった鎌田を狭い押し入れに押し込んでは、壁一枚の先で醜く喘いだ。
押し入れの暗闇の中で、膝を抱えて丸まっていた幼少期の鎌田はこの時から。
人間という生き物が持つ、剥き出しの愚かで浅ましい欲望の全てを知ってしまった。
鎌田の脳髄に「強烈な知識」として焼き付いていた。
(汚い……人間は、みんなどうしようもなく汚い……)
そうして成長するにつれ、鎌田は自らの世界から「穢れ」を排除することに異常な執着を見せるようになった。
それに過程や手段は厭わない。
クラスメイトたちが無神経に下ネタで笑い合い、誰と誰が付き合っただの、誰とどこまでしただのと中身も何もない薄っぺらい話に興じる姿を見るたび、胸の奥から激しい吐き気がこみ上げた。
人間は、社会性という皮を剥けば誰もが欲望の泥に塗れた獣だ。
この世には、濁りのない純粋なものなど存在しない。
自分の両親がそうであったように、世の中のすべての人間は醜く、浅ましく、やがて腐り果てるド屑どもなのだと、鎌田は冷め切った絶望の中で生きていた。
あの日——白石真央に出会うまでは。
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それは確か、激しい雨が降る午後のことだった。
鎌田は一人、放課後の図書室で誰も読まない古い文学全集のページをめくっていた。雨音が窓ガラスを乱暴に叩き、薄暗い室内には古い紙の匂いだけが満ちていた。
ふと、図書室の重い扉が静かに開き、一人の生徒が入ってきた。
白石真央だった。
肩に揺れるしなやかな黒髪。第一ボタンまでしっかりと留められた、シワひとつない白い制服のブラウス。
彼女が歩くたび、ジメジメとした世界にほんのりと甘い香りが広がる。
清らかな彼女のその風貌に、鎌田は思わず、持っていた本を落としてしまった。
はっと、息が止まる。
堕落したこの世界から、すべての雑念が消え去ったかのような衝撃だった。
真央が窓際の書架へ向かい、一冊の本を手に取る。雨に反射した淡い光が彼女の透明感のある横顔を照らし出し、その美しい瞳には、大人たちの見せるような浅ましい欲望や毒は欠片も存在しなかったのだ。
ただ、どこまでも静かで、清らかで、気高い。
泥の中に咲く、一輪のどこまでも澄み切った花。
人の評価は第一印象で概ね決まるという。
一目惚れをしてしまった、それがいけなかった。
どこまでも救いのないこの醜い世界に、まさかこれほどまでに完璧で、一切の濁りを持たない「人間」が存在するなんて、信じられなかった。
それ以来、鎌田は人間という存在を肯定することにした。
しかし、鎌田は真央に話しかけることはしなかった。自分のような、汚い家庭で育った人間が軽々しく彼女に触れることすら、彼女の神聖さを損なうような気がしたからだ。
ただ、遠くから彼女を見つめ、彼女が今日も清廉で、完璧な「人間」としてそこに存在していることを確認するだけで、鎌田の心は満たされた。
彼女の視線の先にある、静かで美しい風景の一部に溶け込めたら、どれほど幸せだろうか。
だが、そんな鎌田の「理想」のような日々に、一つの大きな影が落ちることになる。
それは蓮見陸という幼馴染の存在だった。
真央の隣には、どこでもいつも当たり前のようにあの冴えない男・陸がいた。
陸に突出したものなどなかった。背が高いわけでも、頭が良いわけでも、運動ができるわけでもなかった。
どこにでもいる、気弱でモブな男子生徒。
それなのに、真央は陸といる時だけ、あの表情を崩し、柔らかで愛くるしい笑顔を見せるのだ。
最初、鎌田は陸に対して猛烈な殺意と嫉妬を抱いた。
なぜ、あんな冴えない男が真央の隣に立つことを許されているのか。自分がその場所へ行き、彼女を崇めるべきではないのかと、夜も眠れぬほどの嫉妬に苛まれた。
だが陸は、真央に触れようとしなかった。
大半の人間誰しも抱くような浅ましい欲望を、陸は真央に対して一切向けなかった。
真央の手を強く握ることすら躊躇い、ただ彼女の笑顔を守るためだけに、純粋にどこまでも謙虚に距離感を保ち続けていたのだ。
陸の真央に対する想いに不純物などなかった。
(……そうなんだ)
鎌田は、納得した。
(蓮見なら……仕方ないんだ。あいつなら、真央ちゃんを汚さない。あいつとなら、真央ちゃんはありのままでいられるんだ)
陸と真央の二人の姿はとても綺麗だった。
内心妬んではいたが、せめて自分が近づけないと知ったなら、真央が陸の隣で微笑み、健気なままそこに在る。
それだけを強要することにした。
しかし——花が枯れてしまってはもう咲き誇れない。
陸の不登校。
そして、一人になった真央に抱き始めた「違和感と疑念」。
それが確信に変わってしまった今、鎌田は如何なる手段を用いてでも、穢れは取り除かなければならなかった。




