第15話 天誅
(あたしは、一体何をやっているんだろう……)
黒塗りのセダンが上下、不快な振動を繰り返す中、真央の意識は白濁した霧の向こう側を彷徨っていた。
今更ながら理性は必死に真央を引き戻そうとしていた。
喉の奥が焦げ付くように熱い。翔太に無理やり飲まされた妙な甘みのある媚薬が、腹の底からドロドロとした怪しい熱となって全身の毛細血管へと広がっていく。
視界がグニャリと歪み、車内の天井がぐらぐらと回っていた。
「おい真央、もっと上手く腰使えよ。感謝しろよ、俺に最高の女に仕立て上げてもらってさぁ」
耳元で響く翔太の下品な嘲笑。
彼の指が真央の髪を乱暴に掴み上げ、頭皮に強い痛みが走る。
(陸……ごめんなさい)
以前の自分なら、この圧倒的な暴力と、怪しい薬による強制的な快感の奔流に流されるまま、「私を壊して」と無様に縋り付いていただろう。
陸を裏切った罪悪感から逃れるために、自ら毒を飲み、翔太の玩具へと成り下がることでしか、自分を保つ方法を知らなかったからだ。
だが、このままじゃ——。
(熱い……苦しい……。嫌……嫌だ……っ!)
体に巻き付く不快な熱気とは裏腹に、真央の心の一番深い部分で、冷え切っていた理性が再び悲痛な叫びを上げていた。
薬のせいで身体は勝手に熱を持ち、翔太の皮膚に触れるたび不本意な震えが走る。けれど、脳裏に過ったのは、翔太の凶暴な顔でも、壊されていく快楽でもなかった。
あの雨の日。傷だらけの顔で自分を引き留めようとした、陸の真っ直ぐな瞳だった。
(真央……っ!)
あの時、自分は陸を絶望の底に突き落とした。自分はもう汚れてしまったから、引き返せないからと、最悪の言葉で彼の心を叩き割った。
自業自得なのは私が一番わかっている。
だけど、陸のあの瞳の中にあったのは、暴力でも、自分を所有しようとする汚い欲でもない。どこまでも透明で、暖かな「愛」だったから。
今の私がとてつもなく憎たらしい。
(あたしは……何を信じて……何に怯えてるの……?)
(あたしって、白石真央ってなんなんだろう?)
翔太に握られているハメ撮り動画。世間に晒される恐怖。学校での立場。両親の顔。そして陸の優しさ。
それらが怖くて、脅されるがままに身体を差し出し、いつしか「快楽のせい」にして逃げていただけだ。
自分から絶望に逃げ込んで、陸の優しさを踏みにじっていただけだ。
「──おい、聞いてんのか真央。返事はどうした」
翔太の手が、真央の頬を強く叩いた。パシィンと乾いた音が車内に響く。
「……あ……っ」
「ほら、またぼーっとしやがって。やっぱり薬が足りねえか? いくら飲ませればキマんだよ——」
翔太がシートの脇から小瓶を取り出そうとした、その時だった。
「……触ら……ないでよ」
低く、かすれた声だった。
翔太が「あ?」と眉をひそめる。
真央は乱れたブラウスをかき集め、震える手で翔太の胸を強く押し返した。薬の作用で上手く力が入らない。
それでも、全身の痛みに耐えながら、真央は翔太の膝の上から這い下り、後部座席の端へと身体を引いた。
「なに被害者振ってんだよ、豚が。今更、清楚な優等生気取りか? お前はもう俺のペットなんだよ。動画、ばら撒かれたいのか?」
翔太が最低な笑みを浮かべ、スマホをチラつかせる。いつもの脅迫だ。これを出せば、真央は怯え、泣きながら服を脱ぐはずだったから。
だが、真央は逃げなかった。
涙で歪む視界の中で、真央は真っ直ぐに翔太の目を見据えた。
怯えで震える唇を血が滲むほど固く噛み締め、強く握り拳を作った。
「もう……」
「……ばら撒けばいいよ」
「……あ?」
「学校に流しても、ネットに上げても……好きにすればいい。……もう、あなたの言う通りにはならない」
真央の声は震えていた。恐怖が消えたわけではない。動画が流出すれば、自分の人生は間違いなく終わる。一生、惨めな目で見られ続けるだろう。
けれど——翔太の性奴隷として、陸の思い出まで汚し続ける地獄に比べたら、そんな恐怖はどうでもよかった。
せめて、翔太の好きにされてやるもんか。
「お前……自分が何言ってんのか分かってんのか?」
翔太の顔から笑みが消え、底意地の悪い怒りが顔を出した。
彼は真央の胸ぐらを掴み上げ、座席に叩きつけた。
「調子に乗んじゃねえぞ、この便女が! 俺を怒らせたらどうなるか——」
「殺せばいいじゃない……っ!」
真央は涙を撒き散らしながら、叫んだ。
「殺せばいいでしょ!! 私はもう、あんたの思い通りにはならない! 陸を……陸をこれ以上バカにしないで!!」
陸を突き放したのは私だ。だからこそ、翔太にバカされる筋合いなどないのだ。
翔太は一瞬、真央の鬼気迫る表情に気圧されたように目を見開いた。
だがすぐに不快そうに舌打ちをし、真央の髪を強く引っ張ってドアへと押し付けた。
「はぁ……鬱陶しい女だな。急に善人ぶりやがって」
「今日でもう冷めたわ。……まあ、お前がどんだけ抗おうが、お前の人生が詰んでることに変わりはねえんだけどな笑」
真央は何も答えず、崩れ落ちるように車外へと這い出た。
冷たいアスファルトの上に膝をつく。夜風が、破れたブラウスから覗く肌を苛烈に叩いた。
黒塗りのセダンは急発進し、排気音を爆音で響かせながら夜の街へと消えていった。
コインパーキングの冷たい地面に突っ伏し、真央は声を殺して泣いた。
体は熱く、だるく、後悔、屈辱、やるせなさとが混ざり合い、全身を苛んでいた。
(陸……ごめんね……。ごめんね……っ)
これが、真央が選んだ茨の道だった。
だが、立ち上がり、乱れた服を整えようとする真央の背後に——
コインパーキングの暗闇から、静かな足音が近づいていた。
「……可哀想に、真央ちゃん」
暗闇の中から現れたのは、手にスマホを握りしめ、顔半分を暗闇に沈めた鎌田琉生だった。
その姿はまるで救済という肩書きを持った死神のようだった。




