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「歪みに触れる者」

崩れた男の周囲から、人が少しずつ距離を取っていく。だがそれは今までのような単純な恐怖や疑いの連鎖ではなかった。空気が変だ。誰もがその場を見ているのに、誰も正確に“何を見ているのか”を共有できていない。ある者は男が立っていると言い、ある者はすでに倒れていると言い、また別の者はそもそも最初から何も起きていないと言う。その矛盾が自然に成立していること自体が異常だった。


ルクスはその中心に立ったまま動けなかった。視線の先にいる男は、確かにそこに存在している。だが存在しているはずなのに、意味が欠落している。会話も動作もあるのに、それらが“つながらない”。原因と結果が一致しないというレベルではなく、そもそも因果が成立していない感覚だった。


「……おい」


誰かが声をかける。だが男は反応しない。いや、反応しているのかもしれない。ただその反応が“意味として成立していない”。ルクスは喉の奥が乾くのを感じながら、その違和感を観察する。これまでの崩壊とは違う。疑いでもない。空白でもない。もっと構造的なものだ。


そのとき、男の視線がわずかにルクスへ向いた。


瞬間、いつもの“流れ”が来るはずだった。人の感情、恐怖、疑念、拒絶。それらがルクスの中に自然に流れ込むはずのものだった。だが今回は違う。何も来ない。完全な無音。無感情ではなく、そもそも“接続が存在していない”。


ルクスは一歩だけ呼吸を止めた。


「届いてない……?」


その言葉は驚きではなく、確認だった。今までの異常はすべて“伝わった結果の崩壊”だった。しかしこれは違う。そもそも伝わっていない。認識の経路そのものが切断されているような感覚だった。


その瞬間、男の身体がわずかに揺れた。そして次の瞬間、ルクスの右手に異常が走る。意識していないのに指が微かに震える。筋肉の問題ではない。内側の“何か”がずれている。視界の端で空間が一瞬だけ歪む。床が回転したように見える錯覚。しかし錯覚として処理するには明確すぎる違和感だった。


ルクスは反射的に手を引く。


「今のは……」


声が途中で止まる。男が一歩踏み出したからだ。その動きは確かに人間のものだが、人間の理由を持っていない。そこには意志の連続性がない。ただ“動いた結果だけが存在している”。


その瞬間、周囲の空気が変わった。


今までのような疑いの連鎖ではない。もっと根本的な崩壊が始まっている。誰もが同じ場所を見ているのに、見えているものが一致しない。


「動いたぞ」


「いや、最初から止まってる」


「何を言ってる?」


声が割れているのではない。現実の基準そのものが複数存在しているような感覚だった。ルクスはその異常を理解し始める。これは霧の延長ではない。霧は思考を壊すものだった。しかし今起きているのは“認識の成立そのものの崩壊”だった。


男の視線が再びルクスに向く。その瞬間、わずかに“戻り”が起きる。一瞬だけだが、目の奥に意味が宿る。


「……あれ?」


その一言は小さい。だが確かにそこに“人間の反応”があった。次の瞬間、それは崩れる。倒れるのではない。存在の整合性が解けるように、輪郭が曖昧になっていく。そこにいるはずなのに、そこにいない扱いになる。物理ではなく“意味”が消えている。


ルクスは息を詰める。


「霧じゃない……」


その瞬間、右手の中で再び異常が走る。今度は明確だった。何かが内側で回転している。回っているのではない。世界の“見え方”そのものがずれていく。視界の奥で他人の思考の断片が逆流する。


「お前は誰だ」


「ここはどこだ」


「俺は……俺は……」


だがそれは他人の声ではない。ルクス自身の中に混ざっている。自分と他者の境界が一瞬だけ崩れる。意識が混線するような感覚。ルクスは強く拳を握ることでそれを押し戻す。


「今のは……違う」


声は震えていない。だが確実に何かが変わっている。霧ではない。霧は外側の崩壊だった。しかし今のは内側からの干渉だった。


そのとき遠くで別の崩壊音が響く。だがルクスの意識はそこに向かない。目の前の異常の方がはるかに深い。


男だったものはもう動かない。だが死んでいるわけでもない。ただ“成立していない”。存在の条件から外れている。


ルクスはゆっくりと息を吐く。


(これは……同じ現象じゃない)


霧は疑いを増幅し、空白を生む。だが今のは違う。因果そのものを壊している。見る、認識する、理解する。その過程が成立していない。


ルクスは初めて確信に近い感覚を持つ。


霧のさらに外側に、もう一つ何かがある。


そのとき、視界の端でまた“回転”が走る。今度は消えない。ほんの一瞬だけ、世界が確かにずれている。ルクスはそれを見逃さない。


「……確かめる」


その言葉は今までと違う。観測ではない。決意でもない。もっと静かな“接触”だった。


その瞬間、男だったものが完全に消える。崩壊ではない。そこに“あったという記録”だけが抜け落ちるように消失する。


ルクスはその場に立ったまま動かない。


だが理解している。


今見たものは偶然ではない。


そしてこの世界は、まだ“崩壊の途中”ですらない可能性がある。


その思考の奥で、また小さな回転が走る。


今度は止まらない。


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