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「崩れる個」

視界が戻った瞬間、ルクスはすぐに気づいた。さっきまでとは空気が違う。地底都市の喧騒は同じはずなのに、その一つ一つの“意味”が変わっている。叫び声はただの混乱ではない。恐怖でもない。もっと深いところで、何かが噛み合わなくなっている音だった。


ルクスは拳を握ったまま立ち尽くしていた。さっき見た“星全体に広がる歪み”が頭から離れない。それは理解ではなかった。確信でもない。ただ“見えてしまった”という事実だけが残っている。


「俺は……」


言葉が続かない。今まで自分はただ感じているだけだった。異常を観測しているだけだった。それが正しい立ち位置だと思っていた。だが今は違う。あの一瞬で、それは壊れた。


これはもう外側の出来事ではない。


自分がその中にいる。


そのとき、遠くで悲鳴が上がった。


今までの騒ぎとは違う。もっと鋭く、もっと切実な声だった。ルクスは反射的にそちらへ向かう。通路の先、人だかりができている。だがその中心にあるものを見た瞬間、足が止まった。


一人の男がいた。


さっきまで普通に歩いていたはずの男だ。だが今は違う。目の焦点が合っていない。口がわずかに震えている。そして何より、“自分がどこにいるのか分かっていない”ような顔をしている。


周囲の人間が距離を取っている。


「おい……大丈夫か」


誰かが声をかける。

だがその瞬間だった。

男の目が一瞬だけ“理解”の形を取り戻す。

そして次の瞬間、それが壊れた。

「違う……違う違う違う違う」

意味のない言葉が連続する。声は震えているのに、その震え方が異常に均一だった。まるで壊れることを前提にしたような動き。


ルクスは息を止める。

その男の中に、また“流れ”が見える。

疑いでも恐怖でもない。

もっと根本。

「自分の思考が信用できない」

その一点だけが増幅している。

男は突然、自分の頭を押さえた。

「俺じゃない……俺じゃない……!」


叫びは助けを求めるものではない。否定だ。自分自身の存在を否定している。


ルクスの胸の奥が冷たくなる。

その瞬間、周囲の人間が一歩下がる。

「離れろ」

「やばい」

「何か感染してる」

その言葉が出た瞬間、ルクスは気づく。


違う。

これは感染じゃない。

だが、その“誤解”が現象を加速させている。

男の目が周囲を見た瞬間、さらに崩れる。

「違う……お前らが……」

視線が合っただけで、意味が変わる。

ルクスは理解する。

これは会話ではない。

認識の接触そのものが崩壊を引き起こしている。

男が一歩踏み出した。

それだけで周囲が一斉に反応する。

「来るぞ!」

その叫びを合図に、誰かが手を伸ばす。止めるためか、避けるためか、それすらも曖昧な動き。

その瞬間、男が崩れた。

物理的な意味ではない。

“思考が崩れた”。


「やめろ……やめろやめろやめろ」


言葉が途中で途切れ、意味を持たなくなる。視線が泳ぎ、焦点が消え、最後にはただ口だけが動いている状態になる。


ルクスはその光景を見ながら、初めてはっきりと理解する。

これは戦いではない。

人間の壊れ方だ。

そのとき、男が急に笑った。


笑いというより、音だった。


「……ああ、そうか」

その一言だけが、異様に静かだった。

そして次の瞬間。

男の中の“個”が完全に崩れた。

目の奥にあったものが消える。意思が消える。疑いすら消える。ただ空白だけが残る。

その空白が周囲の空気をさらに歪ませる。

ルクスは息を飲む。

「これが……霧の本質か」

その言葉は誰にも届かない。

だがその瞬間、ルクスの中で“ルール”が形になる。

霧は、殺さない。

ただ、“個”を成立させなくなる。

そして壊れた思考は、自分自身と周囲を巻き込む。

感染ではない。

伝播でもない。

“認識の崩壊連鎖”。

ルクスは拳を強く握る。

さっき見た男はもう人ではない。生きているのに、“自分”が存在していない。

その事実が、静かにルクスの中に刺さる。

(これが、地球全体に広がっている)

そう考えた瞬間、胸の奥が重くなる。

今までの異常は他人事だった。

だが今は違う。

この星のどこかで、同じように崩れている人間がいる。

そしてそれは、もう止められないかもしれない。

そのとき、遠くで再び悲鳴が上がった。

だがルクスはすぐには動かなかった。

動く前に、一つだけ確認するように目を閉じる。

「俺は……まだ壊れてない」

その言葉は祈りではない。

宣言でもない。

ただの事実確認だった。

そして目を開く。

その瞬間、ルクスの中で“もう一つの変化”が始まっていることに、彼自身はまだ気づいていない。

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