「回転の初動」
その場に残ったのは静寂ではなかった。正確には“静寂として認識できない空白”だった。さっきまでそこに存在していたはずの男の痕跡は、意味ごと削り取られている。倒れたという記録も、消えたという記録も曖昧で、周囲の誰もがそれを正確に説明できないまま立ち尽くしていた。ルクスだけが、その異常の中心にいた。
呼吸が少しだけ乱れている。だが恐怖ではない。身体が反応している理由が、自分でも分からない“内部の揺れ”だった。右手が熱い。いや熱いというより、何かが内側で回っている。一定ではない。暴走でもない。だが確実に“回転している”感覚がある。
「……何だ、これ」
声は小さい。だがその言葉を発した瞬間、空間が一瞬だけ遅れる。遅れたのは時間ではない。認識だ。周囲の人間が同時にルクスを見る。その視線にはさっきまでのような疑いはない。もっと曖昧なものだ。理解できないものを見たときの、処理不能な空白。
そのときだった。
崩れかけた通路の奥で、再び異常が起きる。だが今度は“霧の崩壊”ではない。誰かが誰かを押した。それだけのはずだった。だが接触した瞬間、その二人の動きが一瞬だけ“巻き戻る”。戻るのではない。回転するように、同じ動作がズレて繰り返される。
一歩。戻る。一歩。戻る。一歩。戻る。
現実が“繰り返しの構造”に変質している。
ルクスの呼吸が止まる。
「……回ってる?」
その言葉と同時に、右手が強く痙攣する。今までとは違う。霧のときのような外からの侵食ではない。これは内側だ。自分の中にある“何か”が、外の現象と同期している。
視界が揺れる。床が回転するように見える。だがそれは錯覚ではない。実際に空間の“認識軸”がずれている。
次の瞬間、誰かが叫ぶ。
「離れろ!あいつを中心におかしくなってる!」
その声で全員の視線がルクスに集まる。その瞬間だけはっきりする。今起きている異常の“中心”がルクスとして認識されている。
だがルクス自身は理解できない。
自分は何もしていない。
そう思った瞬間だった。
右手が“勝手に動く”。
意識していない。力を入れていない。ただ指先が空間をなぞるように動いた。その瞬間、世界が一段階ずれる。
音が遅れる。光が歪む。人の動きが一瞬だけ“輪のように繋がる”。
そして――回転する。
空間そのものが、中心を持って回り始める。
ルクスは目を見開く。
「違う……これは俺じゃない」
だが否定の言葉と同時に、現象はさらに強くなる。回転は外側へ広がっていくのではない。むしろ“内側へ収束している”。すべてが一点に向かって回っている。
その中心が、ルクスの右手だ。
周囲の人間が後退する。だが遅い。距離の概念が曖昧になっている。近づくでもなく、遠ざかるでもなく、ただ“巻き込まれる”。
「やめろ……!」
誰かの声。
だがその声すら回転に飲まれる。
次の瞬間、現実が一瞬だけ“折れる”。
通路がねじれる。壁が傾く。天井と床の区別が消える。人間の位置関係が崩れる。上下左右という概念が一瞬だけ消失する。
ルクスはその中心で立っている。
だが立っているという認識すら危うい。
「これが……俺の……?」
言いかけた瞬間、右手が強く光るように揺れる。
そして一気に収束する。
回転が“止まる”のではない。
消えるのでもない。
一瞬だけ“整列する”。
世界が静止したような錯覚。
その直後、現実が元に戻る。
通路は崩れていない。人も倒れていない。だが誰もが一歩引いた状態で立っている。さっきの異常だけが、記憶の中でズレている。
ルクスは息を荒くする。
「……何が起きた」
誰も答えない。
答えられない。
だが一つだけ確実なものがある。
全員が同じ結論に近い“恐怖”を抱いている。
(あれは霧じゃない)
(あれは世界の崩壊じゃない)
(あれは“現象そのものの操作”だ)
ルクスは右手を見る。
何もない。
だが確実に、何かが“動いた感覚”だけが残っている。
そのとき、遠くでまた崩壊音がする。
しかし今のルクスには、それが別の世界の出来事のように聞こえる。
自分が中心になってしまったという事実だけが、ゆっくりと沈んで
いく
ルクスは小さく呟く。
「……俺は、何をした?」
だがその問いに答えは返らない。
代わりに、視界の奥で“回転”がもう一度だけ走る。
さっきより静かに。
さっきより深く。
そして――止まらないものとして、そこに“定着”した。
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