「第二の災厄」
世界は混乱していた。
たった一晩だった。昨日まで平和だった世界が、一つの観測結果によってひっくり返されていた。各国の宇宙観測機関は同じ結論を出している。月軌道外側に正体不明の超巨大生命体を確認。全長は月に匹敵する規模。既存の生物学では説明不能。しかも進路は地球方向。最悪なのは、その存在が加速していることだった。
テレビもネットもその話題一色だった。専門家たちは必死に説明を試みる。隕石ではない。宇宙船でもない。自然現象でもない。では何なのか。その答えを持つ者は誰もいなかった。人々は恐怖した。だが恐怖しても現実は変わらない。赤い光は確実に近付いていた。
病院のテレビでもニュースが流れていた。だがレグルスは見ていない。ベッドに横になったまま天井を眺めていた。看護師が何度も話しかける。医者も来る。だが反応は薄い。生きているというより存在しているだけだった。胃の状態も悪化していた。まともに食べないせいで体重も落ちている。誰が見ても限界だった。
そんな中、一人の老人が病室へ入ってきた。見舞い客ではない。病院の患者でもない。レグルスは目だけ動かした。老人は静かに椅子へ座る。そしてしばらく何も言わなかった。
「世界がまた危ないらしいな」
レグルスは反応しない。
「だが不思議なものだ。人間というのは平和になるとすぐ忘れる」
老人は窓の外を見た。
「昨日まで英雄だ救世主だと言っていたのにな」
レグルスはゆっくり目を閉じた。
聞きたくなかった。
英雄。
その言葉が嫌いだった。
結局自分は誰も救えなかった。
ルカも。
自分自身も。
老人はそれ以上何も言わなかった。やがて立ち上がり部屋を出ていく。レグルスは再び静寂へ戻った。だが老人の言葉だけは頭の片隅に残っていた。
その頃、宇宙ではZティターンが進み続けていた。
巨大な肉体。
無数の眼球。
無数の口。
その姿を見た観測者は皆同じ感想を抱く。
理解できない。
ただそれだけだった。
Zティターンは何も考えていない。ただ本能だけで動いている。目標は地球。そこにいる知的生命体の絶望を食らうこと。それだけが存在理由だった。
そして最初の被害が発生した。
火星軌道付近に存在していた無人採掘基地。その周辺を通過した瞬間だった。Zティターンの口が開く。内部に赤い光が集まる。次の瞬間、巨大な火球が放たれた。
それは恒星の欠片のようだった。
火球は採掘基地へ直撃する。
基地は一瞬で蒸発した。
残骸すら残らない。
さらに背後の小惑星群まで吹き飛んだ。
観測映像を見ていた人々は言葉を失った。
兵器ではない。
災害だった。
地震や津波と同じ。
いや、それ以上だ。
国家ですら抗えない。
そんな存在だった。
緊急会議が各国で始まる。軍事衛星が向けられる。迎撃計画が立案される。だが結果は出ない。そもそも月サイズの敵を倒す方法が存在しない。核兵器を使う案も出た。しかし専門家は首を横に振った。仮に効かなかった場合、人類は逆に怒らせるだけになる。
恐怖は広がった。
SNSには終末論が溢れる。
宗教団体は世界の終わりを叫ぶ。
暴動も起き始めた。
人類はまだ戦われてもいない。
それなのに絶望していた。
そしてZティターンはその感情を吸収していた。
身体が少しずつ大きくなる。
目が増える。
口が増える。
黒い肉体が膨張する。
絶望が栄養だった。
恐怖が餌だった。
その事実を知る者はまだ誰もいない。
病院の夜は静かだった。
レグルスは眠れずにいた。目を閉じるとルカが浮かぶ。最後の瞬間が浮かぶ。何度も何度も思い出してしまう。助けられなかった。あの時もっと強ければ。もっと早ければ。そんな考えが止まらない。
そして気付けば朝になっていた。
窓から光が差し込む。
テレビでは相変わらず同じニュースが流れている。
『対象はさらに加速しています』
『到達予想時間は四十八時間』
『各国は非常事態宣言を発令』
世界が騒いでいる。
だがレグルスの心は動かない。
何も感じない。
そう思っていた。
その時だった。
病室の窓が赤く染まる。
看護師の悲鳴が聞こえる。
廊下が騒がしくなる。
レグルスはゆっくり身体を起こした。
久しぶりだった。
自分から起き上がったのは。
窓の外を見る。
空が赤い。
まるで夕焼けだった。
だが朝だ。
そんなはずがない。
レグルスは無意識に窓へ近付いた。
そして見た。
空の彼方。
雲の向こう。
巨大な赤い光。
月よりも大きく見える。
あり得ない。
それなのに存在していた。
病院の外では人々が空を見上げている。
誰もが立ち尽くしている。
絶望した顔だった。
レグルスはただ見つめる。
何故だろう。
胸の奥がざわついた。
長い間止まっていた心臓が少しだけ動いた気がした。
その瞬間だった。
空全体を揺らす咆哮が響く。
音ではない。
存在そのものによる叫び。
窓ガラスが割れる。
警報が鳴り響く。
人々が悲鳴を上げる。
そして宇宙から降り注ぐ。
巨大な赤い火球が。
地球へ向かって。
まっすぐに。
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