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「崩れ落ちる現実」

ルクスは、その光景を理解できなかった。さっきまで会話していたはずの人間が、今は床に倒れている。何が起きたのか分からない。いや、見ていたはずなのに、脳がそれを“出来事”として認識することを拒んでいた。倒れている男の周囲には数人が立っている。だがその誰もが、今起きたことを正確に説明できていない。ただ空気だけが異様に重く、張り詰めている。


「今……何をした」


誰かの声が聞こえた。だがそれは問いではなかった。すでに答えを決めた言葉だった。ルクスはその場から動けないまま、倒れた男と、立っている人間たちを交互に見る。殴られた形跡はある。だがそれが“なぜ起きたか”が欠落している。


直前までの記憶を必死にたどる。確かに会話はあった。小さな言い争い程度のものだった。だがそれは衝突と呼べるほどのものではない。少なくとも、暴力に至る理由にはならないはずだった。


なのに、結果だけがそこにある。


ルクスの胸の奥で、またあの感覚が動く。流れ込む“夢”ではない。もっと濁ったものだ。さっきよりも近い。さっきよりも人間に寄っている。


怒り。恐怖。疑念。そして“自分は悪くない”という防衛の感情。それらが混ざり合い、誰のものとも判別できないまま増幅している。


ルクスは一歩後退する。


「違う……これは違う」


誰に向けた言葉でもない。だがそれでも言葉にしないと、自分の中で何かが崩れそうだった。


倒れている男の周囲で、ざわめきが広がる。


「急に殴りかかった」


「いや、あいつが先に」


「違う、今のは」


意見が割れているのではない。すでに“事実の共有”が崩れている。見ていたはずのものが、人によって違う形で記憶されている。


ルクスはその異常さに気づき始める。


「見えているものが違う」


呟いた瞬間、背筋に冷たいものが走る。


視覚の問題ではない。物理の問題でもない。もっと根本だ。認識そのものがずれている。現実が一つではなくなっているような感覚。


そのとき、また流れ込む。


今度は“誰かの記憶”ではない。


空間そのものの歪みのようなものだった。


同じ出来事を違う形で受け取る複数の意識。そこに共通点はない。ただ“疑い”だけが共通している。


ルクスは息を詰める。


「これが……さっきのやつの正体か」


霧。


そう呼んだもの。


だがまだ確信ではない。ただの仮説だ。だがその仮説が、現実に追いつき始めている。


倒れていた男が微かに動いた。その瞬間、周囲の空気がさらに緊張する。


「動いたぞ」


「まだやる気か」


「いや、違うだろ」


誰もが違うことを言っているのに、全員が同じ“恐怖”を共有している。それがさらに状況を悪化させている。


ルクスは気づく。


それが何なのか、ルクスにはまだ言葉にできなかった。


そのとき、また誰かが叫ぶ。


「離れろ!」


その声を合図にしたかのように、別の人間が動いた。


そして次の瞬間だった。


今度は明確な衝突ではなかった。ただ“拒絶”だった。


相手を避けようとした動きが、偶然ぶつかる。その一瞬の接触が、さらに大きな誤解を生む。


「やっぱり敵だろ!」


その叫びと同時に、場は一気に崩れた。


ルクスはその中心から少し離れた位置にいた。だがそれでも分かる。これはもう止まらない。


誰かが誰かを突き飛ばす。誰かが誰かを掴む。その一つ一つに理由はあるようで、ない。ただ“疑い”が先にあり、その後に行動が生まれている。


ルクスは動けなかった。


止めるべきなのか分からなかった。


止めても意味があるのか分からなかった。


そのとき、また流れ込む。


今度ははっきりしている。


“怖いから先にやるしかない”


その一点だけで世界が動いている。


ルクスは理解する。


これは戦いではない。


崩壊だ。


人間同士が争っているのではなく、人間の“判断そのもの”が壊れている。


その瞬間、遠くから警報のような音が鳴った。


しかしそれすらも意味を持たない。


すでに秩序は機能していない。


ルクスは小さく息を吐く。


「ここまで……来てるのか」


その言葉は誰にも届かない。


だがそのとき、ルクスの中で一つだけはっきりする。


これは偶然でも事故でもない。


“何か”が確実にこの世界を変えている。


そしてそれはすでに、止められる段階を越えているかもしれない。


それでもルクスは目を逸らさなかった。


崩れていく現実の中心で、ただ一つの事実だけを見つめる。


確かめなければならない。


霧とは何なのか。


そしてこの世界は、まだ戻れるのか。


それでもルクスは目を逸らさなかった。

だが、理解できる範囲をすでに超えていた。

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