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「歪む日常」

その一歩を踏み出した瞬間から、ルクスはもう以前の場所には戻れなくなっていた。自覚はない。だが確かに世界の見え方がわずかに変わっている。坑道を出て地底都市の通路を歩くだけのことなのに、空気の密度が違って感じられた。


人が多い場所ほど、それは顕著だった。


地底都市の中心部に近づくにつれ、人の流れは増えていくはずだった。しかし今日に限っては、その流れに“乱れ”がある。歩く速度が一定ではない。視線が合わない。誰もが微妙に他人を避けている。それは明確な争いではない。だが確実に“崩れ始めている前兆”だった。


ルクスは立ち止まることなく歩き続ける。ただ、耳ではなく“感覚”が勝手に拾ってしまう。


誰かの感情が流れ込む。


最初は小さかった。だが今は違う。


「信用できない」


「さっきの視線は何だ」


「こいつは敵じゃないのか」


断片的な思考が、意味を持つ前に壊れていく。ひとつの感情が生まれる前に別の感情に塗りつぶされていく。普通なら繋がるはずの思考が、途中で断裂しているような感覚だった。


ルクスは無意識に拳を握った。


「……さっきより酷い」


それは比較ではなかった。確信だった。


坑道の中ではまだ“異常の始まり”だったものが、ここではすでに“進行している現象”になっている。時間ではない。距離でもない。ただ単純に、広がっている。


広場に出ると、それはさらに明確になった。


人が集まる場所は本来なら安定しているはずだった。会話があり、秩序があり、役割がある。だがそこにあるのは秩序ではなかった。


小さな集団が分断されている。


視線が鋭い。


誰かが誰かを避けている。


明確な理由はない。ただ“違和感”だけで関係が壊れかけている。


ルクスはその中心に立っているわけではない。だが、確かにその“波”の中にいる。


また、流れ込む。


今度は強かった。


怒りではない。恐怖でもない。もっと曖昧で、もっと厄介なもの。


「何かがおかしい」


それだけが全体に広がっている。


理由がないまま疑念だけが増幅している。


ルクスは息を止めた。


「これ……感染してるのか?」


言葉にした瞬間、自分でもその表現が正しいのか分からなかった。だが他に言いようがなかった。これは個人の異常ではない。思考そのものの伝播だ。


そのとき、後ろから声がした。


「おい」


ルクスは振り返る。


そこにいたのは地底都市の監視役の男だった。表情は硬い。だがその目の奥に、明確な“疑い”があった。


「お前、さっきから何をしてる」


その声には理由があるようで、ない。問いかけの形をしているが、すでに答えは決まっているような響きだった。


ルクスは一瞬だけ黙る。


「何もしてない」


それは事実だった。

だが男はそれを受け取らなかった。


「本当にか?」


その瞬間、また流れ込む。

男の中の感情。

“こいつは何かを知っているのではないか”という、根拠のない確信。

ルクスは一歩下がる。


「違う」


短く言う。

だがその否定すら意味を持たない。

男の中ではすでに“疑い”が成立していた。

ルクスは理解する。

これは会話ではない。


認識のズレだ。

そのとき遠くで小さな騒ぎが起きた。

誰かが誰かを押した。

それだけだった。

それだけのはずだった。

だがその瞬間、空気が変わる。


一気に“疑い”が連鎖する。


「やっぱり」


「今の見ただろ」


「始まってる」


意味のない言葉が連鎖していく。


ルクスはその光景を見ながら、確信に近いものを得る。

これは偶然ではない。

誰かが引き起こしている。


もしくは、世界そのものが変質している。

そのとき、ルクスの中に再び流れ込む。

さっきよりも深い。


さっきよりも歪んでいる。

恐怖が恐怖を呼び、疑念が疑念を増幅している“構造”そのもの。

ルクスは顔をしかめる。


「これが……霧か?」

その言葉は誰にも届かない。

だがその瞬間、遠く宇宙のどこかでザレジェンドは小さく頷いた。


観測が一致する。

地球はすでに“変質段階”に入った。

ルクスは拳を握る。


目の前で崩れていく人間関係。理由のない断絶。広がる不信。


それを見ながら、彼は初めて“確かめるべきものの重さ”を理解し始めていた。

そして次の瞬間、誰かが突然隣の人に手をかけた。

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