「揺らぎの始まり」
ルクスは歩き出した。その一歩に意味があったわけではない。だが確かに、今までと同じ場所へ戻るための動きではなかった。坑道の空気はいつも通り冷たく、湿っていて、人工照明が一定のリズムで明滅している。変わらないはずの空間の中で、ただ一つだけ違っていたのは、自分の中に残り続けている“違和感”だった。
「……さっきのは、なんだ」
声には出さないつもりだった言葉が、無意識に漏れそうになる。だが誰も気づかない。周囲の作業員はいつも通りの速度で動き、いつも通りの沈黙を維持している。そこには何の異常もないように見える。それが逆に不自然だった。
ルクスは立ち止まり、周囲を見渡す。さっきの“夢”はすでに消えている。あの瞬間だけ、明らかに何かが壊れていた。恐怖そのものが流れ込んでくるような感覚。映像でも音でもない、ただ“崩壊している精神”だけが直接入ってくる感覚。それは今まで一度もなかった。
「夢が……壊れた?」
その言葉は自分でも意味が分からなかった。夢はいつも曖昧で、静かで、流れるだけのものだった。それが“壊れる”という概念自体が成立していないはずだった。だが確かにあれは正常ではなかった。
そのときだった。
再び、流れ込む。
今度は近くの作業員ではない。もっと遠く、複数の“何か”が一気に重なったような感覚だった。
怒り。恐怖。疑念。混乱。そして断絶。
個別の感情ではない。それらが混ざり合い、制御不能になっている“精神の崩壊状態”だけが流れ込んでくる。
ルクスは思わず壁に手をついた。
「……誰だ」
誰に向けた言葉でもない。ただ確認したかった。しかし返答はない。代わりに、さらに強く流れ込んでくる。
見知らぬ誰かが誰かを疑っている。
誰かが誰かを殺そうとしている。
理由がないまま恐怖だけが増幅している。
そこには明確な原因がない。なのに確実に“壊れている”。
ルクスは初めて理解しかけていた。これは個人の問題ではない。もっと広い。もっと大きい。何かが“全体”に起きている。
「これ……一人じゃない」
その瞬間、感覚が途切れた。まるで切断されたように静かになる。周囲の空気は元に戻り、いつもの坑道の沈黙が戻ってくる。
だがルクスの中だけは戻っていなかった。
胸の奥に、確かな違和感が残っている。さっきのは錯覚ではない。少なくとも自分にとっては現実だった。
ルクスは歩き出す。今度は自然と、坑道の出口へ向かっていた。理由はない。ただここに留まっているべきではないという感覚だけがあった。
地上へ続く通路に近づくにつれ、空気が少しずつ変わっていく。温度が変わる。光の質が変わる。だがそれ以上に変わっていたのは、“人の気配”だった。
地底都市の入口付近に出ると、そこにはいつも通り人がいるはずだった。だが今日は違った。
誰もが少しだけ落ち着かない動きをしている。視線が定まっていない。会話が短い。必要以上に距離を取っている。明確な混乱ではない。だが確実に“揺れている”。
ルクスは足を止めた。
「ここでも……同じか」
小さな声だったが、はっきりとそう思った。
そしてその瞬間、また流れ込む。
今度は近い。すぐ隣の人間のものだ。
だが内容は異常だった。
さっきまで普通に話していた男が、今は明らかに誰かを“疑っている”。しかもその疑いには理由がない。根拠もない。ただ「何かがおかしい」という感覚だけで成立している。
ルクスはその感情を受け取った瞬間、背筋が冷えた。
「違う……これは」
ただの不安ではない。単なる疑心暗鬼でもない。もっと深い。もっと根本的な“認識の歪み”だった。
ルクスは確信に近いものを持つ。
これは個人ではない。環境でもない。偶然でもない。
何かが“世界そのものに触れている”。
そのときだった。
宇宙のどこかで、ザレジェンドはその星を見ていた。
霧の分布が確定する。最後の観測対象が安定する。すべての条件が揃う。
「やはりここか」
その声は誰にも届かない。
地球は完全に“観測対象”となった。
そしてその瞬間、ルクスははっきりと理解する。
これは“始まり”ではない。
すでに“進行している現象”だ。
ルクスは拳を握る。
「……確かめるしかない」
その言葉は決意ではない。確認だった。
そしてその一歩が、世界の歯車を確実に動かし始めていた。もう、戻れない。
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