「離れていく背中」
退院の日は晴れていた。
数日前まで降り続いていた雨が嘘のように空は青く、窓から差し込む光が病室を明るく照らしていた。だがレグルスの気持ちは晴れなかった。右腕にはまだ固定具が残っている。肋骨も完全には治っていない。医者からは無理をするなと何度も言われた。けれど身体の傷よりも気になることがあった。
ルカだった。
結局、一度も来なかった。
三日間眠っていた間も、その後の入院期間も、一度も姿を見せなかった。
レグルスは病院の玄関を出ると足を止めた。街はいつも通りだった。車が走り、人が歩き、子供達が笑っている。だが自分だけが取り残されたような感覚があった。
ポケットから携帯端末を取り出す。
メッセージ履歴を開く。
最後のやり取りは事故の数日前だった。
『話がある』
それに対する返信はない。
レグルスは小さく息を吐いた。
「何やってるんだよ……」
怒っているわけではない。
ただ心配だった。
あの日、ルカの顔色は本当に酷かった。今思い返しても異常だった。あれは疲労とか寝不足とか、そんなレベルではなかった。
まるで何かに命を削られているような顔だった。
その日の夜。
ルカは眠れずにいた。
ベッドに横になっても目を閉じることができない。
閉じれば思い出す。
病院の廊下。
吹き飛ぶレグルス。
血。
悲鳴。
泣き声。
全部が脳裏に焼き付いていた。
ルカは起き上がる。
時計を見る。
深夜二時。
眠気はない。
胸の奥が重い。
最近ずっとそうだった。
身体が重い。
息苦しい。
立ち上がるだけで疲れる。
だが力だけは増えている。
それが余計に気味が悪かった。
机の上にはインペリアルレリックが置かれていた。
黒い装甲。
禍々しい意匠。
初めて見た時は神秘的に思えた。
今は違う。
時々、本当に生きているように見える。
ルカは目を逸らした。
だがその瞬間だった。
黒い装甲が微かに脈打つ。
ドクン。
心臓のような音。
ルカは凍り付いた。
気のせいではない。
今確かに動いた。
ドクン。
再び音が響く。
そして頭の奥で声がした。
――もっと強くなれる。
ルカは立ち上がる。
「うるさい」
思わず叫んでいた。
誰もいない部屋。
だが確かに聞こえた。
――もっと強くなれる。
――もっと。
――もっと。
「黙れ!」
部屋の壁を殴る。
呼吸が荒くなる。
額に汗が滲む。
何なんだ。
何が起きている。
その時、机の上の写真立てが目に入った。
幼い頃の自分とレグルスだった。
病院の中庭で撮った写真。
二人とも痩せていて、今よりずっと小さい。
だけど笑っていた。
ルカは写真を見つめる。
レグルスは昔から変わらなかった。
弱いくせに誰かを助けようとする。
泣き虫なくせに前に出る。
馬鹿みたいに優しい。
だから。
だからこそ。
思い出してしまう。
『僕はお前に消えてほしくない』
あの言葉を。
ルカは顔を覆った。
震える。
会いに行きたい。
謝りたい。
本当は今すぐ病院へ行きたい。
けれど行けない。
自分が傷付けた。
もしまた暴発したら。
もし次は本当に取り返しがつかなかったら。
その恐怖が足を止める。
翌日。
レグルスは学校へ向かった。
久しぶりの登校だった。
教室へ入ると皆が心配そうな顔を向けてくる。
怪我の理由を聞かれる。
階段から落ちたと誤魔化す。
誰も深く追及しなかった。
だが一つだけ違和感があった。
ルカの席が空いている。
一日中。
最後まで。
誰も座らなかった。
放課後になり、レグルスは教師へ尋ねた。
「ルカは?」
教師は少し困った顔をする。
「最近ずっと休んでいる」
その答えに嫌な予感がした。
レグルスは帰り道を急いだ。
ルカの家へ向かう。
何度も通った道だった。
だが。
家の前まで来て足が止まる。
玄関に明かりがない。
インターホンを押す。
反応はない。
もう一度押す。やはり返事はない。
近所の人が教えてくれた。
「最近見ないねえ」
その言葉に胸がざわつく。
どこへ行った。
何をしている。
ルカ。
お前は今どこにいる。
同じ頃。
街から遠く離れた山奥。
ルカは一人だった。
荒れ果てた廃施設の中。
誰もいない場所。
人が来ない場所。
そこで暮らしていた。誰も傷付けないために。
誰にも近付かないために。
だが孤独は容赦なく心を削る。
インペリアルレリックは静かに脈打っていた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
まるでルカの命を数えるように。
そしてその奥深く。
誰にも聞こえない場所で。
何かが目を開く。
まだ小さい。まだ微弱。
だが確実に存在している。
十年前に滅んだはずの悪意。
ゼルクロノスの残滓が。
静かに目覚め始めていた。
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