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第7話 ワルキューレ第九位

 ワルキューレ第九位は、存在しない。


 帝都政府の公式記録には、そう書かれている。


 第一位アイン。

 第二位ツヴァイ。

 第三位ドライ。

 第四位フィーア。

 第五位フュンフ。

 第六位ゼクス。

 第七位ズィーベン。

 第八位アハト。


 帝都エデンの子どもなら、女帝ヌルの名と同じくらい聞いたことのある序列だ。


 女帝直属の戦乙女。

 夢殿とヴァルハラ宮殿に仕える神の剣。

 死都東京を見張り、魔導炉を守り、帝都の秩序を維持する者たち。


 市民向けパンフレットでは、彼女たちは白い翼を持つ守護者のように描かれる。女帝信仰会の聖画では、ヌルの玉座を囲む八人の戦乙女として描かれる。帝都政府の公式サイトでも、ワルキューレは八名と説明されている。


 第一から第八まで。


 その次はない。


 九という数字だけが、きれいに存在しない。


 だが、シグレはその名を聞いた。


 ノイン。


 死都東京由来の怪異の残滓から。

 夢殿の警告から。

 死都東京の映像記録から。

 タルタロスの暗闇で、鎖につながれた少女から。

 そして、ワルキューレ第一位アインの口から。


 その剣筋……ノイン。


 その一言が、まだ耳の奥に残っている。


 旧月相観測塔での戦闘から、一夜が明けた。


 ホウジュ区の雑貨店《時雨堂》は、朝から閉店していた。


 正確には、看板は開店状態のまま、入口にはハルナの手書きで《本日、店長負傷につき不定休です》と貼られている。


 不定休とは何か。


 それはハルナが怒りながら考えた結果、「休むと言い切るとテンチョが勝手に仕事へ行くので、曖昧にした方が拘束力がある」と判断した言葉だった。


 店内。


 シグレはこたつに入っていた。


 右肩に包帯。左腕にも包帯。頬には小さな絆創膏。黒いロングコートは椅子の背にかけられ、裂けた部分にハルナが応急補修の布を当てている。


 彼の前には、湯呑み。

 隣には、ムラサメの柄。

 さらにその隣には、ハルナが置いた《今日は絶対安静》と書かれた紙。


 シグレはそれを眺めていた。


「絶対って、強い言葉だねぇ」


「強い言葉にしないと、テンチョは聞きません」


 ハルナは店の奥から救急箱を抱えて戻ってくる。


「昨夜も『ちょっと話し合いに行くだけ』って言って、ワルキューレ第一位と斬り合って帰ってきたじゃないですか」


「斬り合ったというか、斬られそうになったというか」


「同じです」


「セーフィエルもいたし、マナもいたし、アリスちゃんもいたし、クレハもいたから、ボク一人が悪いわけじゃないよ」


「全員まとめて悪いです」


「大きく出た」


「特にクレハ先生です」


「それはそう」


 カウンターの向こうで、クレハが茶菓子をつまんでいた。


「私が悪いというのは心外だな」


「だいたい先生が悪いです」


 ハルナが即答する。


「封鎖資料棟にテンチョを連れて行って、危険な映像を見せて、セーフィエルに接触されて、ワルキューレが出てきて、旧月相観測塔が半壊しました」


「半壊ではない。構造上は四割損傷だ」


「ほぼ半壊です!」


 クレハは悪びれない。


「だが、収穫はあった」


「テンチョの傷と引き換えですか」


「学術的には」


「クレハ」


 シグレがのんびり遮る。


「今それ言うと、ハルナちゃんに茶菓子没収されるよ」


 クレハは無言で皿を引き寄せた。


 店の中央では、マナが端末を並べていた。


 昨夜の戦闘で彼女も軽い擦り傷を負っていたが、本人は気にしていない。むしろ気にしていなさすぎて、アリスに三回ほど処置を促されていた。


 アリスはマナの隣に座っている。


 白い服ではなく、今日は薄い青のワンピース。ハルナが「包帯だらけのテンチョの横で白い服は病院感が増すので」と言って着せ替えたものだ。


 アリスはその理由を完全には理解していなかったが、マナが「似合う」と言ったので記録上は良好な選択になっている。


 マナが端末画面を指で払った。


「公的記録、全部駄目」


 空中に複数の資料が浮かぶ。


 帝都政府公式ワルキューレ紹介。

 女帝信仰会監修聖画解説。

 帝都大学政治魔導史講義資料。

 帝都警察高位権限者一覧。

 魔導炉防衛組織系統図。


 どれも同じだった。


 第一位から第八位まで。


 第九位の項目はない。


 欠番とも書かれていない。


 削除された跡すらない。


 まるで、最初から八人だったかのように。


「きれいすぎる」


 マナが苛立ったように言う。


「記録が残ってないんじゃない。消した痕跡まで整えられてる。普通に削除したなら、空白や番号飛びが残る。でも、ここには番号飛びすらない」


「なら、ノインは都市伝説?」


 シグレが言う。


 マナは即座に睨んだ。


「アインがあなたの剣を見て、ノインって言ったのよ」


「うん」


「映像にも出ていた」


「うん」


「タルタロスで会ったんでしょう」


「たぶん」


「その『たぶん』禁止」


「じゃあ、会った」


 シグレは湯呑みを見つめる。


 茶の水面に、自分の顔が歪んで映っていた。


「鎖につながれてた。白い服で、剣を持ってないのに、剣士みたいで。ボクを見て、あなたはわたしじゃないって言った」


 店内が静かになる。


 ハルナは、手を止めてシグレを見ていた。


 彼女は世界の真相を知らない。


 死都東京も、裁きの門も、ノインも、タルタロスも、まだ断片しか知らない。


 けれど、シグレが苦しそうな顔をしていることだけは、誰よりもわかっていた。


「テンチョ」


「うん」


「その人、怖かったですか?」


 シグレは少し考えた。


「怖くなかった」


「じゃあ?」


「痛そうだった」


 それは、答えというより感想だった。


 ハルナは何も言えなかった。


 アリスが静かに言う。


「私は、ノインという人物の顔をまだ知りません」


「映像、見られなかったもんね」


 シグレが言う。


「はい。記録映像はシグレの意識落下と同時に切断されました」


「見たい?」


 アリスはまた少し考えた。


「見たいです。ですが、見た場合、私の内部記録に異常干渉が発生する可能性があります」


「怖い?」


「はい」


「それでも?」


「はい」


 マナが小さく息を吐く。


「アリス、あなた最近、自分の怖いを言えるようになったわね」


「マナ様が、言えと命じたためです」


「命じたわけじゃないけど、まあ、うん。よし」


「よし、ですか」


「よし」


 シグレは二人を見て、少し笑った。


 その時、時雨堂の古い黒電話が鳴った。


 今どき黒電話。


 しかも線はつながっていない。


 店の棚に置かれた、誰も買わない呪物風アンティークだった。


 じりりりりん。


 全員の視線がそこへ向く。


 ハルナが小さく悲鳴を上げた。


「テンチョ! あれ、線つながってませんよね!?」


「つながってないねぇ」


 じりりりりん。


「呪いですか!?」


「売り物にするにはちょうどいいかも」


「そういう問題じゃありません!」


 クレハが興味深そうに電話へ近づく。


「通信術式だな。物理回線ではなく、都市情報網経由でこの器物を鳴らしている」


「誰が?」


 マナが聞く。


 黒電話が、ひとりでに受話器を跳ね上げた。


 そこから、軽い男の声が聞こえた。


『やっほー、ホウジュ区の寝ぼけ天使。生きてる?』


 シグレは半眼になった。


「シン」


『正解。君の大好きな情報屋さんだよ』


「大好きだったかなぁ」


『高額請求にも文句を言いながら払ってくれるところを見るに、愛はあるよね』


「それは脅されてるだけじゃない?」


『情報社会では、需要と供給と弱みが愛なんだよ』


 ハルナが眉をひそめる。


「テンチョのお知り合いですか?」


「帝都有数の情報屋。だいぶ変な人」


『聞こえてるよ、メイドちゃん。初対面の相手に変な人扱いは失礼だな。まあ事実だけど』


 受話器の向こうで笑い声がする。


 シン。


 ツインタワーのイーストビルにオフィスを構える情報屋。帝都中のネットワーク、監視カメラ、裏掲示板、古い政府端末、魔導通信の隙間、果ては自動販売機の在庫記録にまで潜り込む奇人である。


 クレハとは別方向で、帝都に置いておくには危ない人物だった。


 マナが腕を組む。


「あなたがシン? 名前は聞いたことある。料金が高いって」


『腕も高いよ』


「倫理は?」


『在庫切れ』


「ろくでもないわね」


『褒め言葉として受け取っておく』


「褒めてない」


『みんなそう言う』


 シグレは受話器を持ち上げた。


「で、何? 情報屋が勝手に電話を鳴らす時って、だいたい嫌な話だよね」


『大当たり。夢殿の監視が君たちに寄ってる』


 空気が変わった。


 シンの声は軽いまま続く。


『昨日の旧月相観測塔の戦闘、帝都政府は表向き「観測施設の設備故障」扱いで処理中。でも裏では、ワルキューレ第一位アインの出動記録、セーフィエル干渉記録、シグレのムラサメ共鳴値、アリスちゃんのセーフィエル系列反応、ぜーんぶ夢殿内部で回ってる』


 マナが短く言う。


「盗み見たの?」


『やだなぁ。情報が勝手に僕のところへ流れてくるんだよ』


「嘘ね」


『そうだね』


 シンは悪びれない。


『で、君たち、ノインを調べたいんでしょ』


 シグレの手が止まる。


 黒電話の受話器から、軽い声が落ちる。


『ワルキューレ第九位。公的記録から完全削除。夢殿内部でも通常検索不可。女帝信仰会の聖画には影もなし。帝都大学の旧資料は黒塗り。アインは覚えてる。フィーアは口にしない。ズィーベンは観測してる。ヌルはたぶん、知ってるどころか中心にいる』


「どこまで知ってるの」


 シグレの声が少し低くなる。


『まだ表面。だから潜る』


「頼んでないけど」


『頼むでしょ?』


 シグレはため息をついた。


「料金は?」


『今回ばかりは後払いでいいよ』


「怖いなぁ」


『怖いねぇ。夢殿内部資料に触るっていうのは、そういう仕事だ』


 シンの声から、ほんの少し軽さが消えた。


『僕のオフィスに来て。ここからなら、夢殿の外郭情報層へ薄く触れる。ノインの削除記録を追える可能性がある』


 クレハが目を細めた。


「危険度は?」


『高いね。夢殿の監視網に見つかれば、ドライ系列の影が来るか、フィーアの認識誘導が来るか、最悪アインが扉を斬る』


「扉だけで済む?」


『済まないだろうね』


 マナが低く言う。


「それでもやる価値はある」


『さすが凄腕魔導士。話が早い』


「褒めても料金は下がらない?」


『上がる』


「最悪」


 アリスが手を上げた。


「質問があります」


『どうぞ、アリスちゃん。君とは一度、直接会ってみたかった。夢殿とセーフィエルの両方に引っかかる機械人形なんて、情報屋の夢だよ』


「私は夢ではありません」


『訂正。情報屋の胃痛だ』


「質問です。私の内部記録は、ノインの削除記録を探す鍵になりますか」


 沈黙。


 初めて、シンがすぐに答えなかった。


『なる可能性はある。ただし、君を夢殿側へ晒すことにもなる』


「危険ですね」


『うん。危険』


「必要ですか」


『たぶん』


 アリスはシグレを見た。


「シグレの言い方に似ています」


「それは困るなぁ」


『僕も困るなぁ。一緒にしないでほしい』


 マナがアリスの肩に手を置く。


「無理しなくていい」


「マナ様」


「本当に必要になったら、相談して決める。勝手には使わせない」


「はい」


 シグレは受話器を握り直した。


「わかった。行くよ」


『場所はわかるね? ツインタワー、イーストビル、四十九階。エレベーターは三台目だけ使って。二台目は監視されてる。四台目は昨日から機嫌が悪い』


「エレベーターに機嫌があるの?」


『帝都の機械にはだいたいあるよ』


「嫌な都市だなぁ」


『今さら?』


 黒電話は、ぷつりと切れた。


 受話器から、ただの無音が流れる。


 ハルナがシグレを見る。


「行くんですね」


「うん」


「絶対安静って書いたんですけど」


「見たよ。字が上手だった」


「褒めても駄目です」


「でも、行かないともっと面倒になる」


 ハルナは、しばらく何かを言いたそうにしていた。


 それから、奥へ行き、黒いマフラーを持って戻ってきた。


 何も言わず、シグレの首に巻く。


「ハルナちゃん」


「帰ってきてください」


「うん」


「シオンさんのことを知っても、テンチョはテンチョです」


 シグレは言葉を失った。


 ハルナは、まっすぐ彼を見る。


「わたしは、ノインさんを知りません。シオンさんも知りません。ワルキューレも、夢殿も、怖いです。でも、テンチョがテンチョじゃなくなるのは、もっと嫌です」


 店内が静かになる。


 シグレは、少しだけ笑った。


 いつものような軽い笑いではない。


 胸の奥を押さえるような笑みだった。


「ただいまの予約、しておくね」


「はい。予約、受け付けました」


 ツインタワーは、ホウジュ区とカミハラ区の境界に立っている。


 イーストビルとウェストビル。


 二本の高層塔が、魔導光の橋でつながれ、帝都の夜景を映す巨大な硝子柱のように空へ伸びていた。表向きには企業オフィス、研究ベンチャー、情報通信会社、都市データ管理企業が入る商業ビルである。


 裏では、帝都の情報の半分くらいがそこを通ると言われている。


 その四十九階。


 シンのオフィスは、オフィスと呼ぶには奇妙すぎた。


 壁一面にモニター。

 床を這うケーブル。

 天井から吊るされた魔導端末。

 古いキーボード。

 最新式の都市接続脳波装置。

 情報札。

 紙の資料。

 女帝ヌルの広報ポスターに落書きしたもの。

 なぜか巨大なぬいぐるみ。

 空中には常に数百のウィンドウが開き、帝都の交通、気象、魔導炉出力、警察無線、裏掲示板、株価、女帝信仰会の祈祷スケジュール、ラーメン屋の混雑状況まで流れている。


 その中心に、シンがいた。


 年齢不詳。


 細身で、髪は乱れ、目元には薄い隈。椅子に座っているというより、端末と椅子と自分の区別が曖昧になっているような姿。首元から伸びる接続コードが、背後の機械へつながっている。


 彼は片手を上げた。


「ようこそ、帝都の情報の排水溝へ」


 マナが顔をしかめる。


「もう少しいい言い方なかったの?」


「情報の大聖堂?」


「それも嫌」


 シンは笑う。


「シグレ、相変わらず美人だね。傷だらけだけど」


「君も相変わらず不健康そうだね」


「健康は外注してる」


「できるんだ」


「できない」


 アリスが周囲を見回していた。


「情報密度が非常に高いです。ノイズも多いです」


「正解。帝都はノイズでできてる。政府発表、噂、祈り、嘘、企業秘密、恋文、購買履歴、死都東京の夢。全部まとめて流れる。そこから意味を拾うのが僕の仕事」


 クレハが興味深そうに端末を覗き込む。


「夢殿外郭層へ本当に接続できるのか」


「薄くね。触るだけ。深く入ったら、僕の脳がフィーアの演説で洗われるか、ドライに記憶を編み直されるか、アインが物理的に来る」


「物理的に来るのは嫌だなぁ」


 シグレが言う。


「昨日で十分」


「昨日の戦闘ログ、見たよ。シグレ、君、アインの剣を逸らしたんだって?」


「たぶん、ボクじゃない」


「じゃあ、誰?」


 シグレは答えなかった。


 シンはそれ以上聞かない。


 代わりに椅子を回し、空中ウィンドウを一斉に閉じた。


 オフィスの明かりが落ちる。


 中央に、帝都エデンの立体地図が浮かび上がった。


 ホウジュ区。

 カミハラ区。

 アツギ中枢区。

 夢殿。

 ヴァルハラ宮殿。

 魔導炉。

 死都東京の結界境界。


 そして、地図全体を巻くように、淡い蛇のような円環が走っている。


 ヨムルンガルド結界。


「まず、結論からいこう」


 シンの声が低くなる。


「ワルキューレ第九位は、存在した」


 空中に、古い記録断片が浮かぶ。


《ワルキューレ階位記録・旧形式》

《第一位:アイン》

《第二位:ツヴァイ》

《第三位:ドライ》

《第四位:フィーア》

《第五位:フュンフ》

《第六位:ゼクス》

《第七位:ズィーベン》

《第八位:アハト》

《第九位:――》


 最後だけ、黒く塗りつぶされている。


 シンが指を動かす。


 黒塗り部分に、無数のノイズが走る。


「公的記録は、ここを消したんじゃない。第九位を含む古い階位構造そのものを再構成して、第八位で完結するように上書きした。だから、普通に検索しても出ない」


「どうやって残ってたの?」


 マナが聞く。


「夢殿は完璧に消したつもりだった。けど、完璧に消すための処理ログが、さらに別の封印管理ログに残った。都市規模の記録は大きすぎる。どれだけ掃除しても、埃は残る」


「その埃を拾ったってこと?」


「そう。僕は埃が好きなんだ」


「変な趣味」


「情報屋の基本だよ」


 シンはさらに深く接続する。


 彼の首元のコードが青く光り、空中の地図が歪む。


 クレハが警戒する。


「夢殿側の監視反応がある」


「わかってる。三秒だけ窓を開ける。マナ、外部魔導ノイズを作って。クレハ教授、旧大学認証キーを噛ませて。アリスちゃん、君はまだ何もしないで。シグレは」


「ボクは?」


「変な名前に反応したら教えて」


「役職が変わらない」


 マナは即座に術式を展開した。金色の文字が空中で弾け、通信層に偽装ノイズを流す。クレハが非公式の認証キーを差し込み、夢殿外郭記録への古い閲覧要求を偽装する。


 シンが笑った。


「行くよ。三、二、一」


 空中の黒塗りが剥がれた。


 文字が浮かぶ。


《ワルキューレ第九位》

《コードネーム:ノイン》

《本名:シオン》

《母系登録:セーフィエル》

《所属:女帝直属封印戦乙女》

《封印適性:極大》

《裁きの門座標固定補助権限》

《タルタロス接続承認》

《邪柩封印連動》

《処置:永久欠番》

《記録:削除》

《状態:人柱》


 誰も喋らなかった。


 言葉が、すべて遅れて届いた。


 シオン。


 セーフィエルの娘。

 ワルキューレ第九位。

 タルタロス封印の楔。

 永久欠番。

 人柱。


 シグレは、その文字を見ていた。


 胸が痛む。


 けれど、今度の痛みは曖昧ではなかった。


 彼女が、そこにいる。


 鎖につながれた少女。

 顔を覚えていてほしいと言った少女。

 あなたは、わたしではないと言った少女。


 その彼女の名前が、記録の中にあった。


 黒塗りではなく。


 削除痕ではなく。


 確かに、文字として。


「シオン」


 シグレが呟く。


 ムラサメが青白く光った。


 アリスが静かに言う。


「この記録は、存在証明です」


「うん」


 シグレは頷いた。


「彼女は、いた」


 マナは画面を睨んでいた。


 怒りと困惑が、同じくらい混じっている。


「人柱って……どういうこと」


 シンが別の断片を開く。


 そこには図があった。


 死都東京。

 裁きの門。

 タルタロス。

 邪柩。

 ヨムルンガルド結界。

 魔導炉。

 夢殿。

 そして、その中心を貫く一本の線。


 その線に、名前がついている。


 ノイン。


「死都東京は、ただ結界で覆われているだけじゃない」


 シンの声は低い。


「死都の中心には裁きの門がある。門の向こうにはタルタロス。さらに奥には邪柩。そこに封じられているのが、闇の子」


「闇の子……」


 マナが繰り返す。


 シンは頷く。


「女帝ヌルの半身、あるいは対になる存在。詳細は黒塗りだけど、封印対象としては帝都最大級。ヨムルンガルド結界は、その全部をまとめて封じている。帝都、死都、門、タルタロス、邪柩。その封印を維持するために、楔が必要だった」


「それが、シオン」


 クレハが言った。


「そう」


 シンは画面を指す。


「ワルキューレ第九位ノイン。本名シオン。セーフィエルの娘。彼女は、闇の子を封じるためにタルタロスへ接続された。肉体も魂も、封印機構の一部にされた」


 マナの顔色が変わる。


「そんなの」


 言葉が続かない。


 アリスは画面を見つめていた。


「人間を、装置として使用したのですか」


 その問いは静かだった。


 だからこそ、重かった。


 クレハが答える。


「そういうことになる」


「本人の同意は?」


 シンが沈黙する。


 空中の記録が乱れる。


《同意確認:■■■■》

《緊急封印措置》

《女帝承認》

《ワルキューレ上位権限承認》

《セーフィエル異議記録:削除》

《処置続行》


 アリスの瞳が小さく揺れた。


「セーフィエルは、反対したのですね」


「記録上は、そう読める」


 シンが言う。


「ただし、削除されてる。詳細はまだ見えない」


 マナが拳を握る。


「女帝ヌルは、帝都を守るためにシオンを人柱にした」


 誰も否定しなかった。


 シグレは画面を見ていた。


 シオンの名前。

 人柱。

 封印の楔。

 残響。


 彼の中で、いくつもの言葉がつながっていく。


 自分はシオンではない。


 でも、シオンの魂の残響を受け継いでいる。


 それは比喩ではない。


 夢でもない。


 記録として、そこにあった。


「ボクの中にあるのは」


 シグレは、自分の胸に手を当てた。


「シオンの魂の残り香、みたいなもの?」


 シンが慎重に答える。


「この記録上は、残響と呼ばれている。完全な転生ではない。本人でもない。封印機構から漏れ出した魂の断片、役目、記憶の圧力、そういうものが君という個体に結びついている」


「個体って言い方、好きじゃないなぁ」


「ごめん。夢殿資料を読んでると、言葉が冷たくなる」


「うん」


 シグレは苦く笑った。


「わかる」


 彼は、アリスを見る。


 誰かの再現として作られたかもしれない機械人形。


 アリスも、シグレを見ていた。


「あなたは、シオンではありません」


 アリスが言った。


「うん」


「ですが、シオンの記録を持っています」


「そうみたい」


「私は、誰かの再現として作られた可能性があります」


「うん」


「ですが、マナ様は、私はアリスだと言います」


「うん」


「では、シグレも、シオンではなくシグレです」


 その言葉は、単純だった。


 けれど、誰よりもアリスが言うからこそ、シグレの胸に届いた。


 シグレは少しだけ笑う。


「ありがとう、アリスちゃん」


「事実確認です」


「うん。助かる事実確認だねぇ」


 その時、オフィスの空気が変わった。


 月光が差し込んだ。


 窓は閉まっている。

 ここはツインタワー四十九階。

 外には帝都の夜景が広がっているが、月はビルの反対側にあるはずだった。


 それでも、白い光が床に伸びる。


 マナが短杖を構える。


 クレハが端末を閉じる。


 シンが低く呟く。


「来たね」


 白い月光の中に、セーフィエルが立っていた。


 今回は投影ではない。


 空間転移でもない。


 まるで、最初からそこにいた記録が、今になって再生されたかのような現れ方だった。


 長い髪。

 白い指。

 柔らかな微笑み。

 月の光をまとった魔女。


 マナがアリスの前に出る。


「また勝手に入ってきた」


「招かれてはいないけれど、呼ばれてはいたわ」


 セーフィエルはシグレを見た。


「見たのね」


「うん」


「シオンの名を」


「うん」


「人柱の記録も」


「見た」


 セーフィエルは目を伏せた。


 その顔には、勝ち誇った様子はない。


 むしろ、傷口を他人に見られた人の顔だった。


「シグレ」


「なに?」


「あなたは、あの子ではない」


「それは、知ってる」


「けれど、あの子の痛みを知ることはできる」


「それも、たぶん」


「その『たぶん』でいいわ」


 セーフィエルは静かに笑った。


「確信なんて、持たない方がいい。確信した者ほど、人を道具にする」


 マナが言う。


「あなたは、シオンの母親なの?」


「ええ」


 セーフィエルは、今度は逃げなかった。


「シオンは、私の娘よ」


 その言葉が、オフィスの中に落ちた。


 シンすら黙る。


 セーフィエルは続ける。


「あの子は、ワルキューレ第九位ノインとして女帝ヌルに仕えていた。剣に優れ、封印適性が高く、誇り高く、愚かなほど真っ直ぐだった」


 彼女の声には、母の誇りと、母の後悔が混じっていた。


「闇の子の封印が崩れかけた時、夢殿は楔を必要とした。死都東京、裁きの門、タルタロス、邪柩。そのすべてをつなぎ止める魂を」


「それがシオンだった」


 シグレが言う。


「ええ」


「本人は、望んだの?」


 セーフィエルの表情が止まった。


 月光が冷える。


「望んだ、という記録にされたわ」


 誰も、すぐには言葉を出せなかった。


「シオンは、帝都を守ろうとした。闇の子を地上へ出してはいけないと理解していた。ワルキューレとしての責務も、剣を持つ者の誇りもあった。だから、最後に逃げなかった」


「じゃあ、自分で選んだんじゃないの」


 マナの声は鋭いが、そこには迷いもある。


 セーフィエルは首を振った。


「選択肢がない場所で頷かせることを、選択とは呼ばない」


 マナは黙った。


「女帝ヌルは、帝都を守るためにシオンを楔にした。神の視点では合理的だったのでしょう。闇の子が解放されれば、帝都だけでは済まない。リンボ全体が揺らぐ。死都東京から漏れ出すものを止めるには、それしかなかったのかもしれない」


 セーフィエルの声が震えた。


「でも、母親の視点では違う」


 アリスが静かに聞いている。


 シグレも、動けない。


「私には、娘を奪われただけだった」


 セーフィエルは、月光の中で笑った。


 泣いてはいなかった。


 だが、その笑みは泣くより痛かった。


「だから、私は取り戻す」


「裁きの門を開いて?」


 シグレが問う。


「ええ」


「門を開いたら、何が起きる」


「死都東京の封印が揺らぐ。タルタロスへの道が開く。闇の子の眠りも浅くなる。帝都政府は非常事態を宣言するでしょう。ワルキューレは総動員され、ヌルは私を殺そうとする」


「帝都は?」


「危険にさらされる」


 マナが叫ぶ。


「わかってるなら、どうして!」


「娘が、まだあそこにいるから」


 その一言だけで、セーフィエルはすべてを押し切った。


 善悪ではない。


 正義でもない。


 世界征服でも、破壊衝動でも、闇の子信仰でもない。


 娘を救いたい。


 それだけだった。


 けれど、その一つの願いが、帝都エデン全体を危険にさらす。


 シグレは、初めてセーフィエルの本当の怖さを理解した。


 狂っているのではない。


 むしろ、彼女はあまりにも正気だった。


「セーフィエル」


 シグレは静かに言う。


「君の気持ちは、少しだけわかる」


 マナがシグレを見る。


 セーフィエルも見る。


「でも、帝都には人が住んでる」


「ええ」


「ハルナがいる。ホウジュ区の店がある。女帝様に祈る子がいる。死都東京の夢を見て怖がってる人たちもいる。みんな、ただ明日を迎えたいだけだ」


「知っているわ」


「知ってて危険にさらす?」


「ええ」


 セーフィエルは迷わず答えた。


「私は、聖人ではないもの」


 シグレは、言葉を失った。


 セーフィエルは続ける。


「世界を救うために娘を見捨てられる母親なら、こんなところにいない。帝都の秩序を尊重できる魔女なら、夢殿から追われていない。私は、娘を救うために世界を揺らす。そういう母親よ」


「ひどいねぇ」


「ええ」


「でも、悪いだけじゃない」


「それが一番厄介でしょう」


 セーフィエルは微笑む。


 シグレは、その笑みが嫌だった。


 嫌なのに、完全には否定できない自分がもっと嫌だった。


 アリスが一歩前に出る。


「セーフィエル」


「なに、アリス」


「私は、あなたの娘ではありませんね」


 セーフィエルの表情が、わずかに揺れる。


「ええ」


「私は、シオンではありませんね」


「違うわ」


「では、私は何のために作られたのですか」


 セーフィエルはすぐには答えない。


 長い沈黙。


 マナがアリスの肩に手を置いた。


 アリスは逃げない。


 セーフィエルは、静かに言った。


「最初は、失ったものを形にしようとした」


 アリスの瞳が揺れる。


「けれど、あなたはあの子ではなかった」


「失敗ですか」


「違う」


 セーフィエルの声が強くなる。


「あなたは失敗作ではない」


 それは前にも言われた言葉だった。


「あなたは、私の未練から生まれた。けれど、未練そのものではない。あなたは、アリス」


 マナが小さく息を吐く。


 セーフィエルのその言葉だけは、嘘ではないとわかった。


 アリスは、静かに頷く。


「記録しました」


「忘れてもいいわ」


「忘れません」


「そう」


 セーフィエルは少しだけ笑った。


「それでいい」


 その瞬間、シンの端末が赤く点滅した。


『警告。夢殿外郭監視、強制接続』


 シンの顔色が変わる。


「まずい。見つかった」


 空中の帝都地図が白く染まる。


 夢殿から伸びる光の線が、ツインタワーへ向かっている。


 クレハが端末を叩く。


「切断しろ!」


「やってる! でも向こうが速い!」


 マナが防御術式を展開する。


 アリスの瞳が解析光を宿す。


 セーフィエルは月光をまとい、静かに後退した。


「時間切れね」


「待って」


 シグレが言う。


「裁きの門を開くには、何が必要なの」


 セーフィエルは足を止めた。


 シグレは彼女を見る。


「君一人じゃ開けないんでしょ。だから、ボクが必要なんだ」


 セーフィエルの表情が、わずかに変わる。


「鋭いわね」


「褒められても嬉しくないなぁ」


「裁きの門を現世に固定するには、ワルキューレ系統の座標権が必要。門を開くには、セーフィエルの血筋が必要」


「つまり」


「あなたの中にあるノインの残響は、門を呼ぶ鍵になる」


 シグレの背筋が冷えた。


「君は、それを使うつもりなんだね」


「ええ」


「ボクが嫌だって言ったら?」


 セーフィエルは悲しそうに笑った。


「説得するわ」


「説得で済まなかったら?」


「その時は、母親として最低のことをする」


 マナが短杖を向ける。


「アリスだけじゃなく、シグレまで道具にする気?」


「ええ」


 セーフィエルは、はっきりと言った。


「その罪も持っていく」


 白い光が強くなる。


 夢殿の監視が、ツインタワーのオフィスを包もうとしていた。


 シンが叫ぶ。


「全員、目を閉じるな! 認識層に介入される!」


 次の瞬間、オフィスの中央に巨大な女帝紋が浮かび上がった。


 白と金の光。


 夢殿からの強制監査。


 その光の中で、セーフィエルの姿が薄れていく。


「シグレ」


「なに」


「あなたはシオンではない」


「知ってる」


「でも、あの子の痛みを知ってしまった」


「うん」


「なら、いつか聞かせて」


 セーフィエルの声が、遠ざかる。


「あなたは、あの子を見捨てられるのか」


 月光が消えた。


 セーフィエルの姿も消えた。


 同時に、シンが全端末を叩き落とすように切断した。


 オフィスの光が戻る。


 誰もすぐには動けない。


 シグレは、立ったまま胸を押さえていた。


 問われた言葉が、消えない。


 あの子を見捨てられるのか。


 見捨てる。


 その言葉は重すぎた。


 助ける。


 その言葉は危険すぎた。


 帝都を守るのか。

 シオンを救うのか。

 セーフィエルを止めるのか。

 ヌルの秩序を認めるのか。


 答えはまだ出ない。


 ただ、シグレはもう知らないふりができなかった。


 シオン=ノインはいた。


 今も、タルタロスの底にいる。


 そして、自分の中には、その残響がある。


 夢殿。


 最深部。


 眠りの座。


 女帝ヌルの本体は、巨大な花のような装置の中心で眠っていた。


 白い肌。

 閉じた瞳。

 人間の少女のような姿。

 だが、その身体から伸びる無数の魔導管は、夢殿、ヴァルハラ宮殿、魔導炉、ヨムルンガルド結界、死都東京観測層へ接続されている。


 眠れる神。


 その周囲で、結界観測装置が低く鳴った。


 ズィーベンが立っている。


 彼女は観測盤を見つめ、静かに目を細めた。


「ノイン記録層への外部接触。セーフィエル反応。シグレ残響値、上昇」


 眠りの座の中で、ヌル本体の指先が、ほんの少し動いた。


 同時に、ヴァルハラ宮殿の女帝義体が目を開く。


 玉座の上。


 小柄な少女の姿をした女帝は、退屈そうな顔ではなかった。


 どこか懐かしく、どこか苛立たしげに、遠い月を見る。


 そばに控えるズィーベンの投影が、頭を垂れた。


「陛下」


 ヌルは、ゆっくりと息を吐いた。


「セーフィエルが、また娘を取り戻しに来たか」


 その声は、神のものだった。


 だが、ほんのわずかに、古い罪を思い出した者の響きが混じっていた。


 夢殿の奥で、封印の蛇が静かに身じろぎする。


 死都東京の向こう側で、門の影が揺れた。


 そして、タルタロスの底で。


 鎖につながれた少女が、誰にも聞こえない声で、シグレの名を呼んだ。

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