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第8話 ヨムルンガルド結界

 帝都エデンは、ひとつの街ではなかった。


 ビルがあり、道路があり、駅があり、学校があり、病院があり、雑貨店があり、人々が暮らしている。朝になれば通勤客が空中歩道を渡り、昼には学生たちが魔導端末を片手に笑い、夜にはホウジュ区の看板が海のように輝く。


 誰もが、それを都市だと思っていた。


 実際、都市だった。


 だが、それだけではなかった。


 帝都エデンは、巨大な機械だった。


 神奈川全域を使って築かれた魔導回路。

 死都東京を封じる外殻。

 裁きの門を押さえる杭。

 タルタロスへ向かう封印圧を維持する炉。

 女帝ヌルが眠りながら支配する、光の檻。


 その真実を、シグレたちはこの夜、否応なく見ることになる。


 始まりは、シンのオフィスだった。


 ツインタワー、イーストビル四十九階。


 壁一面のモニターが、同時に赤く染まった。


『警告。ホウジュ区、死都残響値上昇』

『警告。カミハラ区、機械人形系統異常』

『警告。アツギ中枢区、結界圧不安定』

『警告。ヨムルンガルド外層、位相差拡大』

『警告。警告。警告』


 都市情報の海が、一瞬で悲鳴に変わった。


 シンは椅子ごと跳ね起きる。


「うわ」


 その声は、普段の軽さを少しだけ失っていた。


 シグレはこたつではなく、シンのオフィスのソファに座っていた。第九位ノイン――シオンの記録を見た直後で、まだ胸の奥に鈍い痛みが残っている。ムラサメの柄は膝の上。包帯を巻いた肩が、警告音に合わせるように疼いた。


「うわ、って何?」


「情報屋がうわって言う時は、だいたい都市規模で嫌なことが起きてる時」


「それは本当に嫌だねぇ」


 マナが端末を覗き込んだ。


「各区で同時に異常?」


「同時どころか、同期してる」


 シンの指が空中を走る。帝都エデンの立体地図が広がり、ホウジュ区、カミハラ区、アツギ中枢区、湾岸区、外縁境界、死都東京方面が次々と点滅する。


 赤い点。


 赤い線。


 赤い円。


 それらはばらばらに見えて、すぐにひとつの形を作った。


 蛇だった。


 都市を巻く巨大な蛇。


 自らの尾を噛む円環。


 ヨムルンガルド結界。


 アリスが立ち上がる。


「都市魔導場に大規模な位相変化を確認。通常の魔導炉出力変動ではありません」


 マナが顔をしかめる。


「アリス、今の見えるの?」


「はい。見える、というより、内部回路が応答しています」


「内部回路?」


「未登録領域です。私の意識制御領域外に、結界反応を記録する回路があります」


 クレハの目が鋭くなる。


「やはり、あったか」


「先生、知ってたの?」


「推測はしていた。セーフィエルがアリスを単なる機械人形として作るはずがない。第七封鎖研究棟の旧式群がアリスを上位個体として認識した時点で、封印機構と無関係ではないと考えるべきだった」


「考えるだけなら、先に言って!」


「言ったら不安になるだろう」


「今の方が不安よ!」


 シグレは地図を見つめていた。


 赤い線が、都市の下を走っている。


 それは道路ではない。

 水道でもない。

 鉄道でもない。


 けれど、すべてに重なっている。


 ホウジュ区の商業通り。

 カミハラ区の研究塔群。

 アツギ中枢区の夢殿。

 ヴァルハラ宮殿。

 魔導炉。

 死都東京の結界外縁。


 帝都の街そのものが、巨大な魔導陣になっていた。


「……これ」


 シグレの声が低くなる。


「街の地図じゃないね」


 シンが頷く。


「うん。封印図だ」


 マナが息を呑む。


「帝都全体が?」


「そう。ホウジュ区の道路も、カミハラ区の研究施設も、アツギ中枢区の行政塔も、全部がノード。地下鉄跡、魔導送電線、空中歩道の支柱、湾岸の防潮魔導壁、女帝信仰の祭壇配置まで、全部が結界の一部になってる」


 シンは笑おうとしたが、失敗した。


「帝都エデンは、都市として作られたんじゃない。いや、都市としても作られた。でも、その下にもう一つの設計思想がある」


 クレハが引き継ぐ。


「死都東京を封じるための巨大封印都市。魔導炉は単なるエネルギー施設ではない。帝都に電力と魔導力を供給しながら、同時にヨムルンガルド結界へ封印圧を送り続けている」


「じゃあ」


 マナの声がかすれる。


「私たちが毎日使ってる魔導端末も、電車も、照明も、全部、その封印の余剰で動いてるってこと?」


「逆だ」


 クレハは言った。


「市民生活こそが、封印維持の安定装置でもある。都市が動く。人が暮らす。魔導炉が一定出力で回る。信仰場が祈りを集める。交通網が魔導線を循環させる。それらすべてが、結界の呼吸になっている」


 沈黙。


 帝都の夜景を映す窓の外で、遠くの空が揺れた。


 ホウジュ区方面で、黒い柱のような影が一瞬だけ立ち上がる。


 次に、カミハラ区の研究塔群から青白い火花が散った。


 さらに遠く、アツギ中枢区の夢殿の光が、いつもより強く瞬く。


 シンのモニターが、各地の映像を拾い始めた。


 ホウジュ区。


 商業通りの真ん中で、買い物客の影だけが立ち上がっていた。足元から剥がれた黒い影が、人の形になり、古い駅名を呟きながら歩き出す。店員が悲鳴を上げる。女帝ヌルの聖像を抱いた少女が母親に引かれて逃げる。空中歩道の案内表示には、存在しない旧東京の駅名が一瞬だけ混じった。


 カミハラ区。


 帝都大学の研究棟で、保管されていた魔導機械が同時に誤作動している。機械人形ではない。実験用の自動腕、魔導観測機、封印サンプル保管槽。だが、それらの動きは同じ方向を向いていた。夢殿ではなく、死都東京の方角へ。


 アツギ中枢区。


 夢殿へ向かう大通りで、市民たちが足を止めている。空に巨大な白い円環が浮かび、一瞬だけ蛇の輪郭を取る。女帝信仰の信徒たちが膝をつき、祈り始める。その祈りの声に混じって、どこからか低い唸りが聞こえていた。


 湾岸区。


 海面が黒く盛り上がる。水ではない。海に映った死都の影が、波として押し寄せている。防潮魔導壁が起動し、青い光でそれを押し返す。


 帝都全域で、異常が起きていた。


「これ、もう隠せないでしょ」


 マナが言う。


 その時、すべてのモニターが一斉に切り替わった。


 帝都政府の紋章。


 白と金の光。


 そして、ワルキューレ第四位フィーアの姿。


 彼女は夢殿前の会見場に立っていた。背後では、白い塔がいつもより強く輝いている。フィーアは穏やかな微笑みを浮かべていた。だが、その目の奥には、わずかな緊張がある。


『帝都の民の皆様へ』


 その声が、帝都全域へ流れた。


 壁面モニター。

 空中広告。

 魔導端末。

 駅の案内表示。

 女帝信仰会の祭壇。

 シンの違法接続端末にまで。


『現在、帝都各区において、ヨムルンガルド結界の定期調整に伴う魔導場の揺らぎが観測されています』


 マナが拳を握った。


「定期調整?」


 シンが乾いた笑いを漏らす。


「便利な言葉ランキング上位だね」


『一部地域では、影像遅延、魔導機器の誤作動、旧東京関連の幻視、軽微な怪異反応が確認されていますが、夢殿およびワルキューレが対応にあたっています。市民の皆様は、慌てず、屋内退避の指示に従ってください』


「軽微な怪異反応って何よ!」


 マナが怒鳴る。


 シグレは画面の中のフィーアを見ていた。


 フィーアの声には、認識誘導術式が乗っている。


 不安を抑える声。

 市民の呼吸を整える声。

 恐怖を、管理可能な範囲へ押し込める声。


 それは嘘ではない。


 けれど、真実ではない。


『夢殿は揺らいでおりません。ヴァルハラの光は消えません。女帝ヌル陛下の秩序は、帝都を守り続けています』


 その言葉に合わせて、画面が切り替わる。


 女帝ヌルの義体が映った。


 小柄な少女の姿。

 白と金の女帝装束。

 静かな瞳。


 彼女は市民に向けて、神託のように告げた。


『帝都の民よ、恐れる必要はない。死都の門は閉じている。汝らは屋内に留まり、昨日と同じ明日を迎えるがよい』


 声は穏やかだった。


 だが、その奥にある力は、人間の声ではなかった。


 シンの端末のいくつかが、声だけで焼けた。


「うわ、強制安定波まで乗せてる。これ、普通の端末で聞いたら安心しちゃうやつだ」


「実際、安心するなら市民には必要でしょう」


 アリスが言った。


「恐慌を抑えることは、封印維持にも有効です」


 マナがアリスを見る。


「アリス?」


「……今の発言は、私の未登録回路からの補助判断を含みます」


 アリス自身が驚いているようだった。


 胸元の魔導核に、細い円環が浮かび上がっている。


 蛇のような紋様。


 ヨムルンガルド結界と同じ形。


「アリス、胸」


 マナが顔色を変える。


 アリスは自分の胸元に手を当てる。


「内部未登録回路、起動中。外部結界位相を受信しています」


「止められる?」


「試行します」


 アリスの瞳が青白く光る。


 次の瞬間、シンのオフィス中央に浮かんでいた結界図が変形した。


 帝都の蛇の円環。

 夢殿。

 魔導炉。

 死都東京。

 裁きの門。

 タルタロス。


 それらをつなぐ線の中に、これまで存在しなかった細い補助線が現れた。


 その線は、アリスから伸びていた。


 シンが椅子から落ちかけた。


「ちょっと待って。アリスちゃん、君、今どこに接続した?」


「不明です。私が接続したのではありません。結界側が、私を参照しています」


「参照?」


「はい。私を、代替楔候補として照合しています」


 マナの顔から血の気が引いた。


「楔って」


 その言葉は、もう全員が知っている。


 シオンがされたこと。


 ノインが今も背負っている役目。


 タルタロス封印の人柱。


 アリスは静かに続けた。


「私は、人柱ではありません」


「当たり前でしょ!」


 マナの声が震える。


「あなたをそんなものにさせない」


「はい。マナ様の意向を記録しています」


「意向じゃなくて約束!」


「約束、再確認しました」


 シグレはアリスの胸の紋様を見ていた。


 アリスが単なる機械人形ではないことはわかっていた。


 セーフィエルが未練だけで作ったのではないことも、薄々感じていた。


 だが、これほど直接的に封印システムへ接続するとは思っていなかった。


「セーフィエルは」


 シグレが呟く。


「アリスちゃんを、シオンの代わりにするつもりだった?」


 アリスがシグレを見る。


 マナが即座に否定する。


「違う。違うわ。そんなふうに決めつけないで」


「決めつけてないよ」


「でも、言った」


「うん」


 マナは唇を噛む。


 アリスは静かに言った。


「私は、シオンではありません」


「うん」


「私は、ノインでもありません」


「うん」


「しかし、私は封印システムの一部として設計された可能性があります」


 その声は平坦だった。


 平坦であるほど、マナには痛かった。


「アリス」


「怖いです」


 アリスは胸元を押さえたまま言った。


「今、私は怖いです。自分の内部に、自分の知らない目的があることが怖いです」


 マナはアリスを抱きしめた。


「言えてえらい」


「えらい、ですか」


「えらい」


「では、私はえらいまま、怖いです」


「うん。怖いままでいい」


 シグレは二人から視線を外し、地図を見た。


 帝都全域の赤い点は増え続けている。


 ホウジュ区の雑貨店。

 ハルナ。


 胸が冷える。


「シン、ホウジュ区の時雨堂は?」


「見てる」


 シンが画面を切り替える。


 時雨堂の外部カメラ映像。


 店の前の通りで、黒い影が数体、壁から剥がれていた。死都東京の夢から出てきたような、駅員の形をした怪異。顔のない乗客。切符を握ったまま歩く影。


 その店の入口に、ハルナが立っていた。


 メイド服の上に防寒用のカーディガン。手には、なぜか店の掃除用モップ。腰にはシグレが置いていった護符袋。


「ハルナちゃん!?」


 シグレが叫ぶ。


 映像の中で、ハルナは怪異に向かって何かを叫んでいる。


 音声が入る。


『ここは閉店中です! 切符も旧東京地図も売ってません! あと、テンチョは不在です!』


 マナが一瞬、言葉を失った。


「強いわね、あの子」


「強いけど無茶だよ!」


 シグレが立ち上がる。


 肩の傷が痛む。


 だが、それどころではない。


「行く」


「シグレ、待って」


 クレハが制止する。


「今、君が動けば結界反応がさらに強まる可能性がある」


「ハルナちゃんがいる」


「わかっている」


「じゃあ行く」


 シグレの声は低かった。


 その瞬間、ムラサメが強く光る。


 オフィス内の結界図が揺れた。


 シンが叫ぶ。


「待って、本当に反応してる! シグレ、君の残響値が上がると、ヨムルンガルド外層が共鳴する!」


「知らないよ」


「知らないで済まないやつ!」


「でも、ハルナちゃんを放っておく方がもっと嫌だ」


 アリスが顔を上げた。


「シグレの発言を記録しています」


「今?」


「はい。放っておく方がもっと嫌、という判断は、現在の私にも有効です」


 アリスの胸元の円環が強く光る。


 結界図の補助線が、ホウジュ区へ伸びた。


 マナが叫ぶ。


「アリス、無理しない!」


「無理をしています」


「自白が早い!」


「しかし、可能です。私はホウジュ区方面の局所結界を一時安定できます。ただし、シグレが現地で死都残響を斬る必要があります」


 クレハが端末を覗く。


「理論上は成立する。アリスが補助線を作り、シグレのムラサメが残響核を断つ。マナ、君が転移補助と防御。私は結界演算を支援する。シンは都市情報網で避難誘導」


「勝手に決めるなと言いたいけど、これしかないわね」


 マナは短杖を握る。


「シグレ、動ける?」


「たぶん」


「禁止って言ったでしょ」


「動ける」


「よし」


 シンが転送可能なルートを開く。


「ホウジュ区時雨堂前、直接転移は結界ノイズが強すぎる。三十メートル手前の路地に落とす。落下姿勢は自己責任」


「着地は得意だよぉ」


「肩、怪我してるでしょ」


「じゃあ、少し苦手」


 マナがシグレの腕を掴む。


「行くわよ」


 アリスも手を伸ばす。


「私も行きます」


「駄目」


 マナが即答する。


「アリスはここで結界補助」


「現地の方が制御精度は上がります」


「危険も上がる」


「はい」


「はいじゃない!」


 アリスはマナを見上げた。


「マナ様。私は怖いです」


「うん」


「ですが、私も放っておく方がもっと嫌です」


 マナは、言葉を失った。


 シグレが小さく笑う。


「教えた覚えはないんだけどなぁ」


「シグレから学習しました」


「責任重大だねぇ」


 マナは深く息を吐いた。


「わかった。でも、私の後ろ。絶対に前に出ない」


「了解しました」


「絶対よ」


「絶対、記録しました」


 転移術式が起動する。


 白い光ではなく、シンの情報網を経由した青い魔導光。


 次の瞬間、シグレたちはホウジュ区の路地に落ちた。


 着地と同時に、死都の匂いがした。


 焦げた雨。

 古い地下鉄。

 誰も帰ってこない駅。


 時雨堂の前では、ハルナがモップを構えていた。


 店の入口には護符が何枚も貼られ、棚から持ち出した女帝ヌルの聖像が簡易結界の中心に置かれている。聖像の周りには、魔導炉記念メダル、呪われているかもしれない鏡、旧東京地図、蛇型風鈴が並べられていた。


 どう見ても寄せ集めだった。


 だが、効いていた。


 怪異たちは、店の入口から先へ踏み込めずにいる。


「ハルナちゃん!」


 シグレが叫ぶ。


 ハルナが振り向いた。


「テンチョ! 絶対安静は!?」


「ごめん、破った」


「知ってました!」


 怒りながら、彼女の目には明らかに安堵が浮かんでいた。


 マナが走り寄る。


「怪我は?」


「わたしは大丈夫です! でも、この人たち、ずっと駅を探してて!」


 顔のない怪異たちが、一斉にシグレを向いた。


『次は――』

『東京――』

『帰れない――』

『改札が――』

『門が――』


 声が重なる。


 その中に、別の声が混じっていた。


 低く、遠く、ノイズ混じりの声。


 まだ意味にならない。


 だが、確かに何かがこちらへ届こうとしている。


 シグレはムラサメを起動した。


 青白い刃が伸びる。


 怪異たちの影が震える。


 同時に、アリスが胸元に手を当て、結界補助を開始した。


「局所結界、仮固定。ホウジュ区時雨堂前、封印圧を一時的に安定します」


 アリスの背後に、淡い蛇の円環が浮かんだ。


 マナが防御術式を重ねる。


「シグレ、中心核を斬って! 影の足元、駅名が出るところ!」


「了解」


 シグレは踏み込んだ。


 一体目。


 旧駅員のような影が、切符鋏を振るう。シグレは刃を逸らし、足元に浮かんだ潰れた駅名を斬る。


 影がほどける。


 二体目。


 乗客の影が、黒い鞄から無数の腕を伸ばす。マナの拘束術式がそれを押さえ、シグレのムラサメが胸の奥にある改札の幻を断つ。


 三体目。


 子どもの影が泣いていた。


 シグレは一瞬だけ止まる。


 その影は、怪物というより迷子だった。


『おかあさん』


 シグレの胸が痛む。


 アリスが静かに言う。


「シグレ。解放は、破壊と同義ではありません」


「うん」


 シグレは膝をつき、ムラサメの刃を低く構えた。


「ごめんね。ここは、君の駅じゃない」


 足元の黒い切符を斬る。


 子どもの影は、泣きながら薄れていった。


 ハルナが口元を押さえる。


 怪異たちは次々と消えていく。


 だが、消えるたびに、シグレの胸の奥で何かが強く響いた。


 ノインの残響。


 シオンの痛み。


 そして、そのさらに奥。


 もっと深い場所から、何かが耳を澄ましている。


 アリスの結界円環が揺れる。


「異常。タルタロス方向から、微弱思念波を受信」


 マナが叫ぶ。


「切って!」


「切断を試行。失敗。対象は私ではなく、シグレへ接続しています」


 シグレは最後の怪異を斬った。


 その瞬間、ホウジュ区の夜が消えた。


 いや、意識だけが沈んだ。


 街の音が遠ざかる。


 ハルナの声。

 マナの声。

 アリスの警告。

 シンの通信。

 フィーアの広報音声。

 女帝ヌルの光。


 すべてが遠くなる。


 代わりに、暗い声が届いた。


『……聞こえた』


 シグレは息を止めた。


 それは、これまでの死都残響とは違った。


 駅の夢でもない。

 シオンの声でもない。

 セーフィエルでもない。


 もっと深い。


 タルタロスの底。

 邪柩の奥。

 闇の中で眠っている何か。


 ノイズ混じりの声が、途切れ途切れに笑った。


『やっと……聞こえた』


 シグレは声を出そうとした。


 出してはいけない。


 わかっている。


 夢で学んだ。

 返事をしてはいけない。

 電波の悪い声に返事をすれば、変なところにつながる。


 けれど、その声はもう、こちらを見つけていた。


『ノ……イン?』


 違う。


 そう言いたくなった。


 だが、声は続いた。


『ちがう……?』

『でも……ひびき……ある』

『門……遠い』

『光……邪魔』

『ヌル……眠る』

『シオン……痛い』


 シグレの胸が引き裂かれるように痛んだ。


 その声は、シオンの痛みを知っていた。


 ヌルの名を知っていた。


 タルタロスの闇の奥から、封印のこちら側へ手を伸ばしていた。


『聞こえた』


 闇の子の思念が、初めてシグレに届いた。


『やっと、聞こえた』


 次の瞬間、シグレは現実へ引き戻された。


 ホウジュ区の路地。


 時雨堂の前。


 ハルナが叫んでいる。


「テンチョ!」


 マナがシグレの肩を掴み、アリスが胸元の円環を必死に抑えている。クレハの声が通信越しに飛び、シンが都市情報網を遮断している。


 怪異は消えていた。


 だが、夜空には、巨大な蛇の円環がまだ薄く浮かんでいる。


 そして、死都東京の方角で、空が一瞬だけ黒く脈打った。


 シグレは膝をついたまま、震える息を吐く。


 マナが顔を近づける。


「何が聞こえたの」


 シグレは答えようとした。


 だが、その名をまだ知らない。


 だから、彼はただ、闇の奥から届いた声を繰り返すしかなかった。


「……聞こえたって」


「誰が?」


 シグレは、死都東京の方角を見た。


 そこにあるはずのない闇が、こちらを見ている気がした。


「やっと、聞こえたって」


 帝都エデンの夜に、魔導光が戻っていく。


 フィーアの広報は、まだ市民に安心を告げている。


 夢殿の白い塔は、まだ揺らいでいないように見える。


 女帝ヌルの秩序は、まだ帝都を覆っている。


 けれど、シグレだけは知ってしまった。


 封印の向こう側にいるものが、こちらの声を聞いた。


 そして、こちらもまた、その声を聞いてしまったのだと。

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