第6話 セーフィエル
月が出ていた。
帝都エデンの夜空に浮かぶ月は、いつも少し遠い。
魔導光に満ちた街の上では、星はあまり見えない。高層ビル群の硝子壁、空中歩道の案内灯、魔導炉から供給される青白いライン、夢殿の塔から夜でも滲み出す白い光。人が作った光が多すぎて、本来そこにあるはずの夜は薄くなる。
それでも月だけは、消えない。
死都東京の結界の上にも、ホウジュ区の雑貨店の窓にも、帝都大学の封鎖資料棟にも、ヴァルハラ宮殿の尖塔にも、同じ月がかかっている。
セーフィエルは、その月の下から現れた。
帝都大学封鎖資料棟地下三階。
シグレたちが死都東京の映像記録を見た映像室では、まだ焦げた魔導媒体の匂いが残っていた。
黒いスクリーンには何も映っていない。
だが、そこに白い月光の残滓だけが薄く貼りついている。
セーフィエル。
アリスの設計者。
夢殿の古い記録に名を残す魔女。
帝都政府が追っている危険人物。
そして、ノインを――シオンを、娘と呼んだ女。
彼女の投影が消えた後も、誰もすぐには動けなかった。
マナはアリスを抱えるように立っている。アリスの瞳は閉じられ、内部記録の整合を確認しているのか、胸元の魔導核が小さく明滅していた。
クレハは焼けた記録媒体を透明ケースに封じ込めながら、珍しく無言だった。普段なら「興味深い」「危険だ」「面白い」と言いそうな場面で黙っているのだから、事態はかなり悪い。
シグレは、椅子に座ったままスクリーンを見ていた。
彼の中には、まだタルタロスの暗闇が残っている。
鎖につながれた少女。
ノイン。
シオン。
彼女が言った言葉。
――あなたは、わたしではないのね。
その言葉は、シグレを救ったのかもしれない。
だが同時に、彼をもっと深い場所へ落とした。
自分はノインではない。
ならば、自分の中にあるこの痛みは何なのか。
「シグレ」
マナの声で、シグレは瞬きをした。
「聞こえてる?」
「うん」
「顔色、悪いわよ」
「元から白いから」
「冗談言えるなら大丈夫、って言いたいけど、今は大丈夫じゃなさそう」
「マナ、優しいねぇ」
「茶化さない」
マナは短杖を握ったまま、スクリーンを睨む。
「セーフィエルは、まだ近くにいる?」
クレハが端末を操作する。
「魔導的痕跡は残っている。月相系の転移術式、夢層を経由しない遠隔投影、アリスの内部記録への表層照合。どれも高位魔導士の技術だ。しかも帝都式ではない」
「捕捉できる?」
「通常なら無理だな」
「通常じゃない方法は?」
クレハは口の端を上げた。
「ある」
「聞く前から嫌な予感しかしない」
「正確には、捕捉ではなく誘導された。セーフィエルは逃げているのではない。こちらに来いと言っている」
シグレが顔を上げる。
「どこへ?」
クレハは端末画面を空中に展開した。
帝都大学カミハラキャンパスの立体地図。
その片隅、現在は使われていない旧月相観測塔に、白い光点が浮かんでいる。
「旧月相観測塔。トキオ聖戦以前からあった天文施設を、帝都大学が魔導観測用に改修したものだ。現在は閉鎖中」
「また閉鎖施設」
シグレはため息をついた。
「帝都大学って、閉鎖してる場所多すぎない?」
「研究とは、開くべき扉と閉じるべき扉を増やす営みだ」
「いいこと言ってるようで、全然よくない」
マナがアリスの顔を覗き込む。
「アリス、動ける?」
アリスは目を開けた。
「はい。内部記録の異常照合は収束しました。軽度の記録揺らぎがありますが、動作に支障はありません」
「無理してない?」
「無理、の定義が必要です」
「そう言う時は、だいたい無理してるのよ」
「マナ様も、無理をしている時に同じことを仰います」
「アリス、そういう学習はしなくていい」
アリスは首を少し傾げた。
「セーフィエルに会うのですか」
その問いに、マナの表情が硬くなる。
「会いたい?」
アリスはすぐには答えなかった。
機械人形である彼女にとって、沈黙は処理時間のようでもあり、迷いのようでもあった。
「わかりません」
「怖い?」
「はい」
「懐かしい?」
「はい」
「会いたくない?」
「はい」
「会いたい?」
「……はい」
マナは唇を噛んだ。
「全部あるのね」
「はい。矛盾しています」
「矛盾してていいの」
「よいのですか」
「人間はだいたい矛盾してる。あなたも、たぶんそれでいい」
アリスは、自分の胸元に手を当てた。
「了解しました。私は、矛盾したまま会います」
シグレはその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
「いいねぇ。ボクも、だいたい矛盾したまま生きてる」
「シグレの場合は、もう少し整理した方がいいわ」
マナがすぐに突っ込む。
「厳しい」
「あなた、放っておくと全部『たぶん』で流すでしょ」
「たぶんねぇ」
「ほら」
クレハが映像室の扉へ向かう。
「行くぞ。セーフィエルが自分から接触機会を作った以上、逃す手はない」
「罠の可能性は?」
マナが問う。
「高い」
「先生、即答しないで」
「だが、罠でなければ罠以上に危険だ。あの魔女が本当に何の下心もなく会話だけしたいと言うなら、その方が怖い」
「同感」
シグレは立ち上がった。
足元が少し揺れる。
タルタロスで見た鎖の感覚が、まだ膝の奥に残っている。
それでも、動ける。
まだ、シグレはここにいる。
自分はノインではない。
シオンではない。
でも、知らなければならない。
なぜ自分が呼ばれるのか。
なぜ胸が痛むのか。
なぜセーフィエルが、自分の中にいる誰かを返せと言うのか。
旧月相観測塔は、カミハラキャンパスの外れに立っていた。
かつては天文台だったという。トキオ聖戦以前、東京の光害がまだ今ほど狂っていなかった時代、学生たちはここから月や星を見ていた。帝都大学に再編された後は、月相魔導、夢層干渉、死都東京上空の結界潮汐を観測する施設として使われた。
だが、数年前から閉鎖されている。
理由は「設備老朽化」。
帝都でこの言葉が出る時は、たいてい別の理由がある。
観測塔の外壁は、古い白い石材と新しい魔導金属が不自然に継ぎ合わされていた。ドーム状の屋根にはひびが入り、そこから月光が薄く漏れている。入口には封鎖符が貼られていたが、すでに破られていた。
風が冷たい。
塔の周囲だけ、カミハラ区の都市音が遠い。
アリスが言った。
「月相魔導場が濃いです」
「セーフィエルの術式?」
マナが聞く。
「可能性が高いです。私の内部記録が、断片的に反応しています」
「気分は?」
「不明です」
「怖い時は怖いって言って」
「怖いです」
マナはアリスの手を握った。
「よし」
「よし、なのですか」
「言えたからよし」
シグレはムラサメの柄に触れた。
まだ光刃は出していない。
だが、柄の内側で何かが眠れずにいるようだった。
塔の中へ入る。
螺旋階段を上る。
壁には古い星図が残っていた。星座の名、月相の計算式、魔導潮汐の観測記録。その上から、帝都政府の封印符が貼られている。ところどころ剥がれ、下の古い文字が見えていた。
最上階。
月を観測するための円形ホール。
天井のドームは開いていた。
夜空が見える。
星は少ない。
月だけが、あまりにも近い。
ホールの中央に、セーフィエルが立っていた。
投影ではない。
月光をまとい、白い指を軽く重ね、まるで最初からそこにいたかのように静かに立っている。
長い髪が、風もないのに揺れていた。
シグレの胸が痛む。
アリスが小さく息を吸った。
マナが短杖を構える。
クレハは端末を起動しつつ、セーフィエルから目を離さない。
「来てくれたのね」
セーフィエルは微笑んだ。
「招待状が不気味だったからねぇ」
シグレが言う。
「普通のお茶会なら、もう少し明るい場所にしてほしかったなぁ」
「あなた、こういう場所の方が似合うわ」
「褒め言葉?」
「いいえ。残念なことに」
セーフィエルの視線が、シグレからアリスへ移る。
「アリス」
その呼び方だけ、少し違った。
魔女でも、敵でも、研究者でもなく。
母親のように聞こえた。
アリスは、マナの手を握ったまま答える。
「はい」
「怖がらせてしまったわね」
「はい」
「正直でよろしい」
「マナ様に、怖い時は怖いと言うよう教えられました」
セーフィエルはマナを見る。
「よい教え方ね」
「あなたに褒められても嬉しくない」
マナは短杖を構えたまま言い返す。
「アリスに近づかないで」
「あら。近づく許可もいただけないの?」
「当然でしょ。あなたはアリスの設計者で、帝都政府が追う危険魔導士で、夢殿の記録から消された人間で、昨日は勝手にアリスへ干渉した」
「正確には、照合しただけよ」
「同じことよ」
「違うわ。干渉するなら、もっと深く触れる」
マナの目が鋭くなる。
「やっぱり危険人物じゃない」
「否定はしないわ」
セーフィエルは少し笑った。
その余裕が、マナをさらに苛立たせる。
シグレは一歩前に出た。
「セーフィエル」
「ええ」
「聞きたいことがある」
「でしょうね」
「ノインって誰?」
セーフィエルは目を細めた。
月光が彼女の睫毛にかかる。
「あなたはもう会ったのでしょう」
「会った。でも、知らない」
「何を知りたいの」
「全部」
「欲張りね」
「胸が痛い理由くらい、知る権利はあると思うんだけどなぁ」
セーフィエルの笑みが、少し薄くなる。
シグレは続ける。
「ボクはノインじゃない。本人にそう言われた。シオンでもない。でも、君はボクに『その子を返して』って言った」
ムラサメの柄が、かすかに震える。
「ボクの中に、何があるの」
セーフィエルは答えなかった。
ただ、シグレを見ていた。
その視線の中には、いくつもの感情があった。
懐かしさ。
痛み。
執着。
後悔。
計算。
そして、救えなかったものを見つめる母の目。
「あなたの中には、あの子の残響がある」
「それは聞いた」
「魂の欠片、と言えばわかりやすいかしら。けれど、単純な転生ではない。あの子そのものでもない。あの子の記憶、痛み、役目、未練、封印の楔として削られ続けた響き。その一部が、あなたという器に触れている」
「器って言い方、好きじゃないなぁ」
「ごめんなさい」
セーフィエルは素直に謝った。
それが、逆にシグレを戸惑わせる。
「では、言い換えるわ。あなたという人間の中に、あの子が残した歌が響いている」
「歌?」
「あの子は、剣の子だったから」
セーフィエルの声が柔らかくなる。
「痛みも、祈りも、怒りも、すべて剣に乗せてしまう子だった」
マナが低く言う。
「シオンのこと?」
セーフィエルの視線が、マナへ向く。
冷たい。
けれど、怒りではない。
「その名を、簡単に呼ばないで」
「だったら教えて」
「今はまだ駄目」
「またそれ?」
「ええ。またそれ」
マナは歯を食いしばる。
「あなたもフィーアも同じね。みんな『まだ早い』『調べるな』『言えない』ばっかり。こっちはもう巻き込まれてるのに!」
「巻き込まれたからこそ、順番があるのよ」
「誰が決めた順番?」
「死なせたくない者が決めた順番」
その言葉だけは、セーフィエルの本音に聞こえた。
マナが言葉を失う。
シグレは、セーフィエルを見た。
「君は、ボクたちを死なせたくないの?」
「ええ」
「でも、利用する気はある?」
「あるわ」
「正直だねぇ」
「嘘をついた方がよかった?」
「どうせバレると思う」
「そうね」
セーフィエルは微笑んだ。
「私は、あなたを傷つけたくない。けれど、あの子を救うためなら、あなたに頼ることになる。あなたを利用することにもなる」
「ひどい話だねぇ」
「ええ。ひどい話よ」
「君は悪い魔女?」
「帝都政府の資料には、そう書かれているでしょうね」
「自分では?」
セーフィエルは月を見上げた。
「母親よ」
その言葉に、アリスが小さく震えた。
セーフィエルはそれに気づき、視線を戻す。
「アリス」
マナが即座に前へ出る。
「近づかないで」
「マナ」
アリスが言った。
「私は、話したいです」
「アリス」
「怖いです。ですが、話したいです」
マナは止められなかった。
彼女は短杖を下ろさないまま、半歩だけ退いた。
「何かしたら、燃やす」
「よい保護者ね」
「黙って」
セーフィエルは、ゆっくりアリスへ近づいた。
一歩。
二歩。
アリスは逃げない。
だが、マナの手は離さない。
セーフィエルはアリスの前に立ち、少し身を屈めた。
白い指が、アリスの頬へ伸びる。
マナの短杖が光る。
セーフィエルはそのまま、アリスの頬に触れた。
何も起こらない。
いや、起こっていた。
アリスの瞳の奥に、月光のような断片が流れる。
白い部屋。
硝子の棺。
幼い歌。
誰かの髪を梳く手。
泣いている女。
眠っている少女。
機械部品。
魔導回路。
名前。
アリス。
彼女はその名を与えられた時の記録を、ほんの少し思い出した。
「あなたは」
アリスの声が揺れる。
「私を作りました」
「ええ」
「なぜですか」
セーフィエルの指が、アリスの髪を撫でる。
とても優しい手つきだった。
優しすぎて、怖いほどだった。
「失ったものがあったから」
「私は、何かの代替品ですか」
その問いに、シグレの胸も痛んだ。
セーフィエルは、すぐには答えなかった。
長い沈黙。
月光だけが、二人を照らしている。
やがて、セーフィエルは静かに言った。
「あなたは失敗作じゃない」
アリスの瞳が揺れる。
「けれど、あの子でもない」
シグレは、息を止めた。
あの子。
それが誰を指すのか、セーフィエルは言わない。
シオンなのか。
別の誰かなのか。
アリスの元になった失われた者なのか。
けれど、その言葉はシグレ自身にも突き刺さった。
あなたは失敗作じゃない。
けれど、あの子でもない。
ノインではない。
シオンではない。
でも、彼女の残響がある。
ならば、自分は何なのか。
アリスはセーフィエルを見上げた。
「では、私は何ですか」
セーフィエルの顔に、痛みが走った。
マナが思わず一歩踏み出す。
だが、セーフィエルは答えた。
「あなたは、アリス」
その声は、マナがいつも言う言葉と同じだった。
けれど、同じではなかった。
マナの言葉は、アリスを今ここにつなぎ止めるもの。
セーフィエルの言葉は、失われた何かを認めるために絞り出されたもの。
アリスは、静かに目を伏せた。
「記録しました」
「忘れてもいいわ」
「忘れたくありません」
「そう」
セーフィエルは微笑む。
「それでいい」
その瞬間、ホール全体が白く光った。
月光ではない。
もっと硬い光。
空間そのものが、剣で切り開かれた。
クレハが叫ぶ。
「転移門! 夢殿系列、いや、ヴァルハラ宮殿直通だ!」
マナがアリスを引き寄せる。
シグレはムラサメを抜いた。
光の中から、一人の女が現れた。
白銀の甲冑。
青いマント。
背に負う剣。
まっすぐな姿勢。
余計な装飾のない、研ぎ澄まされた存在感。
ワルキューレ第一位、アイン。
女帝ヌルの最強の剣。
彼女が現れた瞬間、空気が戦場に変わった。
フィーアのような言葉の圧力ではない。
アインは、そこに立つだけで、剣を抜く前から斬撃だった。
「セーフィエル」
アインの声は低い。
「帝都政府特級封印違反、夢殿記録への不正干渉、未登録機械人形への接触、ノイン関連封印への干渉容疑により、貴様を排除する」
セーフィエルは、困ったように笑った。
「久しぶりね、アイン」
「馴れ馴れしく呼ぶな」
「相変わらず硬いわ」
「貴様は相変わらず、帝都を危険にさらす」
「帝都が先に、私から奪ったのよ」
その一言で、アインの目がわずかに鋭くなった。
だが、彼女は感情を表に出さない。
「問答は不要」
アインの剣が抜かれた。
光ではない。
白銀の刃。
だが、その刃の周囲だけ空間が震えている。刀身が現実の固定を超えているかのように、輪郭がわずかに遅れる。
マナが低く呟いた。
「まずい」
「まずい?」
シグレが聞く。
「本当にまずい。あれ、私たちがどうこうできる相手じゃない」
クレハも珍しく同意した。
「ワルキューレ第一位。記録上、単独で中型結界都市の防衛戦力に匹敵する。人間相手に出す剣ではない」
「じゃあ、なんで出てきたの」
「セーフィエルがいるからだ」
アリスがマナの腕を握る。
「マナ様」
「大丈夫。後ろにいて」
「マナ様の心拍が上昇しています」
「怖いからよ!」
「私も怖いです」
「うん。じゃあ一緒に怖がって、でも動くわよ」
「了解しました」
アインが踏み込んだ。
速い、という言葉では足りない。
彼女の姿が消えた次の瞬間、セーフィエルの立っていた場所に白銀の線が走った。
セーフィエルは月光の膜で受け流す。
ホールの床が斜めに裂けた。
観測塔全体が軋む。
「古い施設なんだから壊さないでほしいなぁ!」
シグレが叫ぶ。
アインは答えない。
二撃目。
セーフィエルの周囲に月の鏡が三枚展開される。刃はその一枚を割り、反射し、方向を変えて床へ抜けた。
床の魔導回路が焼ける。
クレハが端末を抱えて後退する。
「素晴らしい。最悪だ。観測塔がもたん」
「先生、感想と危機感が混ざってます!」
マナが防御結界を張る。
しかし、アインの斬撃の余波だけで結界が震えた。
「重い……!」
「マナ、下がって」
シグレはムラサメを起動する。
青白い光刃が伸びる。
アインの視線が一瞬だけ動いた。
シグレを見た。
その目に警戒が宿る。
「シグレ。貴様は下がれ」
「そうしたいのは山々なんだけど、後ろに友達がいるんだよねぇ」
「貴様の立場を理解していないのか」
「最近、みんなそれ言う」
「貴様は封印に関わる危険要素だ。無自覚に動けば、帝都を揺らす」
「ボクが揺らしてるんじゃなくて、帝都が最初から揺れやすいだけじゃない?」
アインの目が冷たくなる。
「口を慎め」
「怒った?」
「警告だ」
「ワルキューレはみんな警告が好きだねぇ」
セーフィエルが笑った。
「シグレ、下がりなさい。アインは冗談が通じないわ」
「あなたが言うの?」
「私は冗談を言うけれど、剣は冗談で振らないもの」
「ますます嫌だなぁ」
アインが再び踏み込む。
狙いはセーフィエル。
だが、その斬線上に、アリスとマナがいた。
セーフィエルは月鏡を展開する。
マナも防御術式を重ねる。
それでも間に合わない。
シグレは、考えるより先に動いた。
ムラサメを上げる。
アインの剣が迫る。
受けられるはずがない。
そう頭ではわかっていた。
だが、身体が別の答えを知っていた。
足の置き方が変わる。
肩の力が抜ける。
視界が細くなる。
アインの刃が描く線が、月光の中に浮かぶ。
そこへ、ムラサメを置く。
弾くのではない。
受けるのでもない。
刃の意味をずらす。
白銀の剣と青白い魔導刀が触れた。
音は、しなかった。
代わりに、ホールの月光が一瞬だけ裂けた。
アインの剣が、ほんのわずかに逸れる。
斬撃はシグレの肩先をかすめ、後方の柱を切断した。
マナが息を呑む。
クレハの目が見開かれる。
セーフィエルが、初めて笑みを消した。
シグレ自身も、自分が何をしたのかわからなかった。
身体が熱い。
胸が痛い。
頭の奥で、知らない誰かが剣を握っている。
違う。
握っていたのは自分だ。
けれど、その剣筋は自分のものではない。
アインが動きを止めた。
彼女はシグレを見ていた。
驚きではない。
怒りでもない。
もっと古い記憶に触れたような顔。
彼女の剣先が、わずかに下がる。
「その剣筋……」
アインの声が低く落ちた。
月光が、観測塔の床に散っている。
シグレは息を荒げながら、ムラサメを握っていた。
アインは、彼の中にいる誰かの名を呟いた。
「ノイン」




