第5話 死都東京の夢
帝都エデンには、見てはいけない映像がある。
それは都市伝説ではない。
帝都大学の封鎖資料棟。
夢殿外郭記録室。
帝都政府広報統制局の非公開アーカイブ。
女帝信仰会の地下聖堂。
そして、かつて日本政府が神奈川を失う直前まで保持していた旧防衛記録。
それらの奥に、削除され、黒塗りにされ、閲覧権限を何重にも封じられた映像が眠っている。
トキオ聖戦直後の映像。
旧東京が死都となり、神奈川が帝都へ変わり、女帝ヌルが空から降り、ヨムルンガルド結界が世界を分けた日の記録。
帝都市民の多くは、その映像を見たことがない。
教科書には、整えられた写真だけが載っている。
避難する人々。
復興作業。
魔導炉建設。
女帝ヌルによる都市再生。
夢殿の白い塔。
ヴァルハラ宮殿の遠景。
結界の向こうに沈む旧東京。
それらは、歴史として安全に加工された過去だった。
本当の映像は、もっと乱れている。
光も、音も、叫びも、祈りも、死者の影も、すべてが混じっている。
その映像を、シグレたちは見ることになった。
帝都大学カミハラキャンパス、封鎖資料棟地下三階。
資料棟と呼ばれてはいるが、そこは図書館ではない。壁は白く、床は黒く、空気は低温保存のために薄く冷やされている。廊下の両側には、通常の棚ではなく、縦に並んだ保管棺があった。魔導災害記録、旧東京観測記録、封印術式試験映像、夢殿提供資料、帝都政府黒塗り文書。すべてが個別の結界に収められている。
ハルナが見たら「絶対に入ってはいけない場所です」と言いそうな場所だった。
実際、入ってはいけない。
少なくとも、シグレに正式な入室許可はない。
「クレハ」
シグレは白い息を吐きながら言った。
「これ、合法?」
「定義による」
クレハは白衣を揺らしながら先を歩いている。片手には端末。もう片手には、封鎖資料棟の入室カードらしきもの。
「帝都大学教授としての権限はある。封鎖資料閲覧権限も一部ある。同行者を連れてよいとは明記されていないが、禁止とも明記されていない」
「それ、怒られるやつじゃない?」
「怒られてから考える」
「研究者って強いねぇ」
「君もトラブルシューターだろう」
「ボクは怒られたくないトラブルシューターだよ」
マナが後ろから呆れた声を出した。
「怒られたくない人は、死都東京とノインの記録なんて探さないの」
「探したくて探してるわけじゃないんだけどなぁ」
「でも来た」
「来ない方が面倒になりそうだったし」
「その判断は正しいけど、言い方がゆるい」
マナは魔導士用コートの前を押さえながら、周囲を見回していた。彼女の足元には複数の感知術式が浮かんでいる。資料棟の結界に触れないよう、慎重に歩いているのがわかる。
その隣を、アリスが歩いていた。
白いワンピースではなく、今日はマナが用意した淡い灰色の外套を羽織っている。封鎖資料棟の低温環境に合わせたものだが、アリス自身は体温調整機能を持っているため、寒さを感じているわけではない。
それでも、彼女は外套の襟を両手で軽く押さえていた。
人間の真似なのか。
それとも、マナが「寒い場所ではそうするもの」と教えたからなのか。
「アリスちゃん、寒い?」
シグレが聞く。
「環境温度は低いですが、私の動作には支障ありません」
「じゃあ、外套は?」
「マナ様が、寒そうに見えると寒くなる、と仰いました」
「視覚的な寒さ対策だねぇ」
「はい。私は現在、寒そうに見えないでしょうか」
「うん。かわいい」
アリスは瞬きした。
「かわいい、は寒さ評価ではありません」
「でも大事」
「マナ様も同じことを言います」
「マナは正しいねぇ」
「珍しく褒めたわね」
マナが横から言う。
「珍しくってひどいなぁ」
「あなた、だいたい適当に褒めるじゃない」
「本気で適当に褒めてる」
「もっと悪い」
そんな軽口の中でも、全員が緊張していた。
理由は明白だった。
数時間前、クレハが新しい断片を見つけた。
古い映像記録。
名称は黒塗り。
登録分類は《死都東京形成期・非公開一次映像》。
関連語句は、トキオ聖戦、厚木基地、女帝ヌル、結界展開、ワルキューレ第九位。
第九位。
ノイン。
その名を見た瞬間、シグレのムラサメが反応した。
反応した以上、放っておけない。
シグレ自身は、できれば放っておきたかった。
だが、ノインという名は、すでに彼の中で眠らせておける音ではなくなっていた。
クレハが足を止める。
「ここだ」
地下三階最奥。
黒い扉。
扉には、帝都大学の印ではなく、夢殿由来の封印印が刻まれていた。白い円環。蛇のように自らの尾を噛む紋様。その中心に、女帝ヌルの光を示す小さな点。
ヨムルンガルド結界を象った印だった。
マナが顔をしかめる。
「夢殿の封印印じゃない」
「そうだ」
「大学の資料棟なのに?」
「だから面白い」
「先生の面白いは、大抵危ない」
「その通りだ」
クレハは当然のようにカードを差し込んだ。
端末が赤く光る。
《閲覧権限不足》
「だろうな」
クレハはもう一枚、黒い細片を取り出した。
マナが目を細める。
「それ、何?」
「鍵だ」
「正規の?」
「昔は正規だったかもしれない」
「それ、違法って言うのよ」
「歴史的再利用だ」
「言葉でごまかさない!」
シグレが小さく笑った。
「今日のマナ、ハルナちゃんみたい」
「それ褒めてる?」
「ボクを叱る才能があるって意味では」
「褒めてないわね」
クレハが黒い細片を端末に差し込む。
扉の封印印が、ゆっくりと回転した。
白い円環がほどけ、蛇が尾を離す。
扉が開いた。
中は、小さな映像室だった。
古い映画館のようでもあり、軍の作戦室のようでもあり、神殿の告解室のようでもあった。中央には四つの椅子。正面には黒いスクリーン。壁面には魔導記録媒体を読み取るための装置が並んでいる。
空気が、さらに冷たい。
アリスが小さく呟いた。
「記録密度が高いです」
「わかるの?」
シグレが聞く。
「はい。この部屋には、映像だけではなく、感情残留、魔導場変化、音響記録、霊的圧力が保存されています」
「映画館としては最悪だねぇ」
「はい。観賞には適しません」
マナが眉を寄せる。
「これ、見るだけで汚染される可能性ある?」
「ある」
クレハは即答した。
「言い切らないでほしかった」
「だが、対策はしている。浅層視聴、感情遮断フィルター、死都魔気吸着符、強制覚醒符、アリスの記録補助。できる限りの準備はした」
「できる限り、ね」
マナはシグレを見る。
「本当に見るの?」
シグレはスクリーンを見た。
黒い画面。
何も映っていない。
だが、そこにすでに何かがいるような気がした。
死都東京。
遠い過去ではなく、結界の向こうで今も息をしている場所。
そして、ノイン。
知らないはずなのに、胸が痛む名。
「見るよ」
シグレは言った。
「ここまで来て、やっぱり帰るって言ったら、クレハが怒るし」
「怒りはしない。気絶させて椅子に固定するだけだ」
「ほら、見るしかない」
「先生、そういう冗談やめてください。冗談に聞こえないから」
「冗談ではない」
「もっと悪い!」
アリスが手を上げた。
「質問があります」
「どうぞ、アリス」
「映像記録にセーフィエルの情報が含まれる可能性はありますか」
クレハは一瞬だけ考えた。
「ある。少なくとも、夢殿関係者としての彼女が、この時期の封印構築に関わっていた可能性は高い」
「私は、それを見てもよいのでしょうか」
マナの表情が変わった。
「アリス」
「マナ様。私は自分の設計者に関する情報を求めています。しかし、記録欠損によって参照できません。この映像が、その欠損と関係する可能性があります」
「それは、そうだけど」
「見たいです」
アリスの声は静かだった。
けれど、はっきりしていた。
マナはすぐに止めようとして、言葉を飲み込んだ。
あなたはアリス。誰かの道具じゃない。誰かの代わりじゃない。
そう言ったのは、マナ自身だ。
ならば、アリスが自分の過去を知りたいと言う時、ただ危ないからと閉じ込めることはできない。
マナは深く息を吐いた。
「……無理だと思ったら、すぐに接続を切る」
「はい」
「怖かったら、言う」
「はい」
「怖いかどうかわからなかったら、それも言う」
「了解しました」
「よし」
マナはアリスの手を握った。
「一緒に見る」
「はい、マナ様」
シグレは二人を見て、少しだけ目を細めた。
アリスには、マナがいる。
それが少し羨ましいのか、安心なのか、自分でもよくわからなかった。
クレハが装置を起動する。
部屋の照明が落ちた。
黒いスクリーンに、ノイズが走る。
ざざっ。
古い映像特有の揺れ。
だが、そこに混じっているのは電気的ノイズだけではなかった。
死者の声。
魔導炉の始動音。
遠い祈り。
瓦礫が崩れる音。
誰かが誰かを呼ぶ声。
映像が始まった。
最初に映ったのは、空だった。
赤い空。
夕焼けではない。
炎と魔導光と、異界から漏れ出した黒い粒子が混ざった空だった。
画面下部に、壊れたテロップが浮かぶ。
《旧東京湾岸・記録部隊視点》
《トキオ聖戦後、第■■日》
《音声欠損あり》
《死都化進行中》
映像が揺れる。
カメラを持つ者が走っている。
瓦礫の街。
折れた高速道路。
倒壊したビル。
水に沈んだ地下入口。
焦げた街路樹。
無人のコンビニ。
割れた駅の案内板。
道路に乗り捨てられた車の列。
遠くで、何か巨大なものが吠えた。
映像の端を、黒い影が横切る。
マナが小さく息を呑む。
「これが……東京」
教科書の写真ではない。
観光用復刻地図の上の地名ではない。
人が暮らしていた場所が、そのまま死にかけている映像だった。
避難民が映る。
小さな子どもを抱えた母親。
血まみれのスーツ姿の男。
リュックを背負った学生。
杖をつく老人。
警察官。
自衛隊員。
魔導士。
泣く者。
祈る者。
振り返る者。
誰もが、東京を捨てようとしていた。
いや、捨てたかったわけではない。
追い出されていた。
背後から迫る黒い霧に。
地面の下から聞こえる声に。
空の裂け目から落ちてくる光に。
死都化と呼ばれる、不可逆の変化に。
画面の中で、避難誘導の声が飛ぶ。
『神奈川方面へ! 結界敷設予定区域外へ退避してください! 繰り返します、神奈川方面へ――』
音声が途切れる。
ノイズ。
次の映像へ切り替わる。
《旧首都機能移転記録》
《神奈川臨時行政区》
《厚木方面》
そこには、今の帝都エデンの原型が映っていた。
仮設庁舎。
避難キャンプ。
魔導炉建設予定地。
軍用車両。
人々の長い列。
旧日本政府と米軍の臨時司令部。
そして、空に浮かぶ巨大な光。
マナが呟く。
「首都機能が、こっちへ……」
「教科書だと三行で終わるところだねぇ」
シグレの声は低かった。
画面の中では、行政機能が移されている。書類箱。サーバー。記録媒体。避難者名簿。医療物資。通貨管理。戸籍記録。企業サーバー。学校の臨時登録。
東京が死に、神奈川が新しい中心へ作り替えられていく。
その過程には、無数の人間の生活があった。
引っ越しではない。
遷都でもない。
避難であり、喪失であり、上書きだった。
アリスが静かに言う。
「帝都エデンは、最初から都市として存在したのではないのですね」
「そうだな」
クレハが答える。
「死にかけた東京の機能を、神奈川へ移植した。そこへ女帝ヌルと夢殿の魔導科学が重なり、今の帝都になった」
「移植」
アリスはその言葉を繰り返した。
「では、帝都は誰かの代わりとして作られた都市でもあるのですね」
その一言に、誰もすぐには返事をしなかった。
シグレはアリスを見た。
アリスも、自分で言った言葉の重さを測っているようだった。
誰かの代わり。
アリス。
シグレ。
帝都エデン。
この街そのものが、失われた東京の代替物として生まれたのだとすれば。
それは、あまりにも大きな代用品だった。
映像がまた切り替わる。
今度は、戦場だった。
《厚木基地跡地周辺》
《交戦記録》
《対高次存在戦闘》
画面の中央に、厚木基地が映っている。
まだ夢殿もヴァルハラ宮殿もない。滑走路。格納庫。管制塔。戦闘車両。対空兵器。日米の兵士たち。
その上空に、光が降りた。
最初は、小さな星のようだった。
次の瞬間、空が白く裂ける。
巨大な翼状兵装。
円環の光輪。
戦闘用外殻。
人型の中心核。
魔導炉に似た高出力の光。
それは少女の形をしていた。
けれど、人間の少女ではなかった。
闘神ヌル。
破壊神ヌル。
女帝ヌルの戦闘義体。
画面越しでも、部屋の温度が変わった気がした。
人間の兵器が一斉に火を噴く。ミサイル、魔導砲、対空弾、結界榴弾。厚木基地の全火力が空の少女へ向かう。
闘神ヌルは、避けなかった。
光輪が回転する。
放たれた弾頭が、空中で停止した。
時間が止まったように。
次に、すべてが白い光に飲まれた。
音声はなかった。
あるいは、大きすぎて記録できなかった。
映像が復旧した時、基地の滑走路は沈黙していた。
兵器は溶け、管制塔は半分消え、格納庫の屋根が吹き飛んでいる。
だが、闘神ヌルは空にいた。
無傷だった。
マナが唇を噛む。
「これが……女帝ヌル」
「市民向け映像では、もう少し神々しい光に加工されている」
クレハが言う。
「本物は、兵器だな」
「兵器というより、災害よ」
マナの声は固い。
「人間側、勝てるわけがない」
「だから、帝都エデンが成立した」
クレハは淡々と言った。
「人間側は神奈川を完全には取り戻せず、女帝側は帝都を築いた。以後、冷戦状態。市民向けには復興と救済の物語が語られ、軍事記録には制圧と敗北が残った」
シグレは闘神ヌルの姿を見ていた。
女帝ヌル。
ニュースで見る小柄な少女の義体。
信徒たちが祈る聖像。
フィーアが仕える主。
夢殿で眠る本体。
そして、この映像の中で基地を沈黙させた破壊神。
同じ存在なのか。
そう思うこと自体が、すでに人間の尺度なのかもしれない。
アリスが小さく言った。
「怖い、に該当する反応があります」
マナがアリスの手を握る。
「うん。私も怖い」
アリスはマナを見る。
「マナ様も怖いのですか」
「当たり前でしょ。あんなの見て怖くない方がおかしいわ」
「シグレは?」
シグレは、少しだけ考えた。
「怖いよ」
「ですが、表情変化が小さいです」
「怖い時ほど、眠そうな顔になるのかも」
「便利な表情ですね」
「そうでもないよぉ」
映像はさらに進む。
神奈川の制圧。
仮設行政機能と女帝側の交渉。
魔導炉建設。
夢殿の基礎。
ヴァルハラ宮殿の外郭。
女帝信仰の発生。
祈る人々。
抗議する人々。
沈黙する軍隊。
死都東京から漏れ出す黒い霧。
そして、結界展開の日。
《死都東京外縁部》
《ヨムルンガルド結界初期展開記録》
《映像汚染注意》
スクリーンに映ったのは、東京を囲む巨大な魔導陣だった。
地上に引かれた光の線。
空中に浮かぶ円環。
海上へ伸びる封印杭。
地下へ沈む結界柱。
魔導炉から送られる膨大なエネルギー。
夢殿から発せられる女帝ヌルの命令。
ワルキューレたちの儀式陣。
結界は、壁ではなかった。
巨大な蛇だった。
帝都と死都を、世界そのものを巻き込むように円環を作り、自らの尾を噛む封印。
ヨムルンガルド結界。
その光が空へ伸び、東京を覆っていく。
黒い霧が押し返される。
死者の声が遠ざかる。
異形の影が、結界の内側へ封じられる。
人々が、歓声を上げる。
祈る。
泣く。
その光景は、救済のように見えた。
同時に、巨大な棺に蓋をする瞬間のようにも見えた。
シグレは、胸を押さえた。
ムラサメが震えている。
映像室の低温とは違う冷たさが、背骨に沿って上がってくる。
クレハが端末を確認する。
「シグレ、反応が上がっている。大丈夫か」
「たぶん」
「その『たぶん』は信用できない」
「よく言われる」
マナが身を乗り出す。
「きついなら止めるわよ」
「まだ……大丈夫」
スクリーンの中で、結界儀式が最終段階へ入る。
ワルキューレたちが映る。
第一位らしき剣士。
第二位の重装兵装。
第四位の声による統制。
第七位の護衛結界。
第八位の観測陣。
映像は古く、乱れている。
多くの部分が黒塗りのようにノイズで潰れている。
だが、その中で、一人だけ異様に鮮明な少女がいた。
剣を持っている。
白い装束。
短く揺れる髪。
細い身体。
まっすぐな背筋。
顔は横顔だけ。
彼女は、結界陣の中心ではなく、少し外れた場所に立っていた。
だが、なぜか視線がそこへ吸い寄せられる。
彼女の周囲だけ、時間が静かだった。
シグレの呼吸が止まる。
少女が、振り向いた。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、彼女の顔が映った。
強い瞳。
悲しそうな口元。
誰かを守ろうとする顔。
そして、どこかで見たような、見てはいけないような懐かしさ。
画面下部に、壊れた字幕が走る。
《ワルキューレ第九位》
《個体識別:ノイン》
《本名:■■■■》
《封印適性:極大》
《タルタロス接続承認》
シグレの中で、何かが切れた。
「――」
声は出なかった。
ムラサメの柄が、青白く燃えるように光る。
スクリーンの中の少女が、こちらを見た。
映像のはずだった。
過去の記録のはずだった。
だが、彼女は確かにシグレを見た。
ノイン。
その名が、胸の奥で鳴る。
次の瞬間、映像室の床が消えた。
シグレは落ちた。
音もなく。
光もなく。
こたつも、ハルナも、時雨堂も、カミハラ区も、帝都エデンの魔導光も、すべてが遠ざかる。
落ちていく。
死都東京より深く。
夢より暗く。
結界の下へ。
門の向こうへ。
タルタロス。
そう呼ばれる場所へ。
そこには、空がなかった。
大地も、海も、正しい形をしていなかった。
黒い岩盤が浮かび、硫酸のような海が下で泡立ち、遠くの山は溶岩を吐きながら凍っている。熱いのか寒いのか、明るいのか暗いのか、感覚が定まらない。風が吹くたび、死者の声のようなものが混じる。
ここは世界ではない。
牢獄だった。
誰かを閉じ込めるためだけに作られた、ひどく大きな牢獄。
シグレはその暗闇の中に立っていた。
足元はある。
だが、地面ではない。
巨大な鎖の上だった。
鎖は遠くまで伸びている。何本も、何百本も、空間そのものを縫うように張り巡らされている。
その先に、少女がいた。
映像で見た少女。
剣を持っていた少女。
ワルキューレ第九位ノイン。
だが、今の彼女は剣を持っていない。
両手、両足、胸、喉、背中。あらゆる場所に鎖が絡みつき、彼女を宙に縫い止めていた。白い装束は汚れ、髪は静かに揺れ、目は閉じられている。
眠っている。
いや、眠らされている。
彼女の周囲には、巨大な棺のような影があった。
黒い棺。
邪な柩。
その奥で、何かが息をしている。
シグレは一歩、近づこうとした。
鎖が鳴る。
少女が、目を開けた。
その瞳は、映像で見た時よりもずっと近かった。
青とも銀ともつかない光。
シグレを見て、彼女は少しだけ目を細めた。
「……あなた」
声は、かすれていた。
長い眠りの底から、ようやく水面へ届いたような声だった。
「来てしまったのね」
シグレは返事ができなかった。
何を言えばいいのかわからない。
君は誰。
ここはどこ。
ボクはなぜここにいる。
ノインなのか。
シオンなのか。
問いはたくさんあるのに、口が動かない。
少女は、シグレをじっと見た。
そして、かすかに笑った。
悲しい笑みだった。
「違う」
シグレの胸が痛む。
「あなたは、わたしではないのね」
その言葉は、刃ではなかった。
むしろ、包帯のようだった。
けれど、触れた場所が痛かった。
「ボクは……」
ようやく声が出た。
「シグレ」
少女は頷いた。
「シグレ」
その名を、彼女は初めて聞いたはずなのに、どこか大事そうに呼んだ。
「いい名前」
「君は」
シグレは喉を鳴らす。
「ノイン?」
少女の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「そう呼ばれていたこともあるわ」
「じゃあ、シオン?」
鎖が鳴った。
タルタロスの奥で、何かが蠢く。
少女は目を伏せた。
「その名は、もう長いあいだ、誰にも呼ばれていない」
「ボクが夢で聞いた」
「そう」
「知らない名前なのに、胸が痛い」
「あなたのせいではないわ」
少女は静かに言った。
「わたしの痛みが、あなたに触れているだけ」
「どうして?」
「わからない?」
「わからないよ」
シグレは、少しだけ怒っていた。
誰に対して怒っているのか、自分でもわからない。
夢殿か。
女帝ヌルか。
セーフィエルか。
この少女を縛る鎖か。
それとも、何も知らない自分自身か。
「ノインって呼ばれるたびに、胸が痛い。シオンって言ったら、知らないはずなのに泣きそうになる。ムラサメは勝手に反応する。夢殿は調べるなって言う。フィーアはボクをただの雑貨店店長じゃないって言った」
シグレは拳を握る。
「ボクは、何なの」
少女は答えなかった。
ただ、シグレを見ていた。
その視線には、憐れみも、期待も、利用しようとする意志もない。
ただ、確認している。
あなたは、わたしではない。
そのことを、大事に確かめている。
「シグレ」
彼女は言った。
「あなたは、わたしではない」
「でも、関係あるんでしょ」
「あるわ」
「ボクの中に、君がいる?」
「残響がある」
その言葉は、フィーアも使った。
ノインの残響。
「わたしの魂の欠片。痛み。役目。未練。そういうものが、あなたに触れている」
「じゃあ、ボクは君の代わり?」
アリスの問いが蘇る。
あなたも、誰かの代わりなのですか。
少女は、はっきりと首を振った。
「違う」
その否定は、優しかった。
「あなたは、わたしの代わりではない」
「でも、夢殿はそう見てる」
「でしょうね」
「セーフィエルって人も?」
少女の顔が変わった。
ほんの一瞬。
鎖に縛られた少女ではなく、誰かの娘の顔になった。
「……母さん」
その呟きは、風に消えそうだった。
だが、シグレには聞こえた。
「セーフィエルは、君の」
言いかけた瞬間、タルタロスが揺れた。
黒い棺の奥から、ノイズ混じりの声が漏れる。
『ノ……イ……ン』
『シ……オ……ン』
『かえ……せ』
『ひとつ……に』
少女の身体が、鎖に引かれる。
「っ……!」
「ノイン!」
シグレは駆け寄ろうとした。
だが、足元の鎖が彼を阻む。
少女は苦しげに目を閉じ、それでもシグレへ向かって叫んだ。
「来ないで!」
「でも」
「まだ来てはいけない!」
彼女の声が、初めて強くなった。
映像の中で見た剣士の声だった。
「ここは、あなたの眠る場所じゃない」
「君は」
「わたしは、ここにいるしかない」
「そんなの」
「でも、あなたは違う」
鎖がさらに鳴る。
タルタロスの闇が濃くなる。
少女の姿が遠ざかる。
「シグレ」
彼女は、もう一度彼の名を呼んだ。
「覚えていて」
「何を」
「わたしの顔を」
シグレは息を呑んだ。
「名前ではなく、役目ではなく、欠番ではなく」
少女は、少しだけ笑った。
「わたしが、ここにいたことを」
黒い闇が、すべてを飲み込んだ。
シグレは目を覚ました。
最初に聞こえたのは、マナの声だった。
「シグレ! シグレ、聞こえる!?」
次に、アリスの声。
「心拍変動、異常値から回復中。魔導汚染、浅層に留まっています。ただし魂反応が不安定です」
それから、クレハの声。
「強制覚醒は成功した。だが、記録媒体が焼けている。映像を途中で切断された」
シグレは、椅子に座っていた。
映像室。
黒いスクリーン。
低温の空気。
手元にはムラサメの柄。
その柄が、まだ青白く光っている。
マナが彼の肩を掴んでいる。
アリスは真正面に立ち、瞳に解析光を宿している。
クレハは端末を片手に、珍しく焦った顔をしていた。
「……ただいま?」
シグレがかすれた声で言うと、マナの眉がつり上がった。
「ただいまじゃない! あなた、いきなり意識落ちたのよ! 瞳孔開いたまま、変な言葉呟いて、ムラサメが発光して、映像室の結界が三枚割れて、アリスが泣きそうな顔になって」
「マナ様。私は泣きそうな顔をしていましたか」
「してた!」
「記録にありません」
「私が見た!」
「では、後で表情ログを確認します」
「確認しなくていい!」
シグレはゆっくり息を吐いた。
胸が痛い。
だが、さっきまでの痛みとは違う。
輪郭がある。
顔がある。
白い装束。
剣を持っていた少女。
鎖に繋がれていた少女。
強い瞳。
悲しい笑み。
ノイン。
いや。
シオン。
その顔を、シグレは初めて覚えていた。
名前だけではない。
役目だけではない。
欠番ではない。
一人の少女として。
「見たんだね」
クレハが低く言った。
シグレは頷いた。
「タルタロスみたいな場所」
「みたい、ではなく、接続していた可能性が高い」
「鎖につながれた子がいた」
「ノインか」
「うん」
シグレは目を伏せた。
「彼女は言った。ボクは、彼女じゃないって」
マナが黙る。
アリスも黙った。
クレハの目が細くなる。
「それは重要だ」
「うん」
「夢殿やワルキューレが君をノインの残響として見る以上、君自身がノイン本人ではないと確認したことには意味がある」
「でも、関係はある」
「だろうな」
シグレはムラサメの柄を見た。
「彼女は、ここにいたことを覚えていてって言った」
映像室が静かになる。
その言葉は、研究資料よりも重かった。
アリスがそっと言う。
「それは、記録を求める言葉ですか」
「たぶん」
「では、私も覚えます」
シグレはアリスを見る。
「アリスちゃんが?」
「はい。私は記録機能を持っています。ノインという方の顔を、あなたが覚えているなら、私はその証言を記録できます」
「でも、危ないかも」
「危険度は高いです。しかし、忘れさせられるよりは適切だと判断します」
マナは何も言わなかった。
言えなかった。
アリスが自分で選んだ言葉だったからだ。
クレハは壊れかけた記録媒体を取り出した。
黒い結晶状の媒体は、半分ほど焼け焦げている。
「映像は途中で切断された。だが、ノインが映った直前までの記録は保存できている。問題は、その先だ」
「その先?」
マナが聞く。
クレハは端末画面を見せた。
黒いノイズの中に、ひとつだけ識別名が浮かんでいる。
《外部干渉》
《封印映像への不正接続》
《月相系魔導》
《識別候補:セーフィエル》
アリスの瞳が揺れた。
「セーフィエル」
その名を口にした瞬間、映像室の温度が変わった。
冷たいのではない。
月光のように、静かで、白く、肌に触れる温度。
スクリーンに、ノイズが走る。
装置は停止しているはずだった。
記録媒体も焼けている。
それでも、黒いスクリーンに白い光が浮かび上がった。
マナが短杖を構える。
「誰!」
クレハが端末を叩く。
「外部から割り込まれている。映像回線ではない。夢層でもない。これは――」
彼女の声が途切れた。
スクリーンの中に、女が立っていた。
月の光をまとったような姿。
長い髪。
白い指。
柔らかな微笑み。
優雅で、妖艶で、どこか芝居がかった佇まい。
だが、その瞳だけが冷たい。
アリスが一歩、後ずさる。
マナが即座にアリスの前に出た。
「あなたが、セーフィエル?」
女は微笑んだ。
「初めまして、と言うべきかしら。鳴海マナ。アリスを大切にしてくれているようね」
マナの手に力が入る。
「アリスに何をしたの」
「名前をあげたわ」
「それだけ?」
「それだけではないけれど、今語るには早いわね」
セーフィエルの視線が、アリスへ向かう。
アリスは、マナの背後から彼女を見ていた。
怖れている。
だが、目を逸らさない。
「アリス」
セーフィエルの声は、母のようにも、製作者のようにも、研究者のようにも聞こえた。
「少し大きくなったのね」
「私は成長機能を限定的にしか持ちません」
「そういうところは変わらないわ」
「私は、あなたをほとんど覚えていません」
「ええ。覚えていないでしょうね」
セーフィエルは寂しそうに笑った。
その寂しさが本物なのか、演技なのか、シグレにはわからなかった。
ただ、その視線が自分へ向いた瞬間、胸がまた痛んだ。
セーフィエルは、シグレを見た。
優しく。
痛ましく。
そして、何かを取り戻そうとするように。
「あなたが、シグレ」
「そうだけど」
「会いたかったわ」
「ボクは、初対面の人にそう言われると少し困るタイプで」
「でしょうね」
セーフィエルは笑う。
「あなたは、あの子ではないもの」
シグレの呼吸が止まる。
「君は、ノインを知ってるんだね」
「ノイン」
セーフィエルは、その名を口にした。
フィーアや夢殿の記録とは違う。
禁忌としてではなく、懐かしい傷として。
「ええ。知っているわ」
「シオンも?」
その瞬間、セーフィエルの瞳の奥が揺れた。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
「……その名を」
彼女の声が低くなる。
「どこで聞いたの」
「夢で」
「会ったのね」
シグレは答えなかった。
答えなくても、セーフィエルにはわかったらしい。
彼女は目を閉じる。
長い長い時間、探していたものの手がかりに触れたような顔だった。
「そう」
セーフィエルは囁いた。
「あの子は、まだ自分の顔を覚えていてほしかったのね」
マナが叫ぶ。
「あなた、何を知ってるの! シオンって誰? ノインって何? アリスと何の関係があるの!」
「質問が多いわね、魔導士マナ」
「答えなさい!」
「まだ早い」
「みんなそればっかり!」
「本当に早いのよ」
セーフィエルの声は柔らかい。
だが、そこに揺るぎはない。
「夢殿が見ている。ワルキューレが動く。ヌルも、もう気づいている。今ここで全部を語れば、あなたたちは帰れなくなる」
「脅し?」
「警告」
「フィーアと同じことを言うのね」
「同じではないわ」
セーフィエルは、静かに微笑んだ。
「フィーアは、帝都を守るために黙れと言う。私は、あなたたちをまだ壊したくないから黙る」
「信用できない」
「正しい判断ね」
その素直さが、かえって不気味だった。
セーフィエルは再びシグレを見る。
その瞳には、はっきりとした執着があった。
シグレ自身へではない。
シグレの中にある何かへ。
ノインの残響。
シオンの痛み。
彼女の失われたもの。
「シグレ」
「なに?」
「あなたは、あの子ではない」
「うん。本人にもそう言われた」
「でも」
セーフィエルの声が、わずかに震えた。
「あなたの中には、あの子の痛みがある」
シグレは黙る。
「その子を返してもらうわ。シグレ」
映像室の照明が、一斉に点滅した。
アリスが胸を押さえる。
「内部記録に、強制照合が発生しています」
「アリス!」
マナが支える。
クレハが端末を操作する。
「セーフィエル、アリスに干渉しているのか!」
「まだよ」
セーフィエルは微笑む。
「今日は挨拶だけ」
「信じられると思う?」
「思わないわ。でも、覚えておいて」
スクリーンの白い光が薄れていく。
「夢殿は、シオンをノインと呼んだ。女帝は、あの子を楔にした。ワルキューレは、欠番にした」
セーフィエルの顔が、ノイズに揺れる。
「でも、私は」
その声だけは、はっきり届いた。
「あの子を、娘と呼ぶ」
白い光が消えた。
映像室には、冷たい沈黙だけが残った。
マナはアリスを抱き支えたまま、息を荒げている。
クレハは黒くなった端末を見つめている。
アリスは目を閉じ、自分の内部記録を確認しているようだった。
シグレは、スクリーンを見ていた。
もう何も映っていない。
だが、彼の中には顔が残っている。
鎖に繋がれた少女。
剣を持っていた少女。
ノイン。
シオン。
そして、月光のような魔女。
セーフィエル。
帝都エデンの光の下で、消された名前たちが、少しずつ目を覚まし始めていた。




