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第4話 夢殿からの使者

 帝都政府の発表は、いつも美しい。


 それは、帝都エデンの空に浮かぶ魔導広告よりも整っていて、夢殿の白い塔よりも汚れがなく、ヴァルハラ宮殿の金色の尖塔よりも人々の目に優しい。


 嘘ではない。


 だが、真実でもない。


 帝都政府広報局は、その中間にある言葉を扱う技術に長けていた。


『昨夜、カミハラ区帝都大学構内において発生した機械人形制御異常について、帝都政府は、魔導炉出力調整に伴う軽微なゆらぎが原因である可能性を発表しました』


 ホウジュ区の雑貨店《時雨堂》の壁面モニターで、女性アナウンサーが穏やかに微笑んでいる。


『当該事案は大学関係者および帝都政府認可魔導士の迅速な対応により、すでに収束しています。市民の皆様に影響はありません』


 こたつに入ったシグレは、湯呑みを両手で包みながら、ぼんやりと画面を見ていた。


「影響、あったと思うんだけどなぁ」


 彼の足元には、開いたままの旧東京復刻地図。


 カウンターには、帝都大学第七封鎖研究棟の簡易報告書。


 棚の上には、女帝ヌルの小さな聖像と、魔導炉記念メダルと、呪われているかもしれない中古鏡。


 そして、店の中央には、マナとアリスがいた。


 マナは椅子に片膝を立て、魔導端末を三台並べている。机の上には、展開された魔導書、研究棟の内部図、昨日の機械人形暴走ログ、クレハから押しつけられた資料束。見るからに散らかっているが、本人の中では完璧に整理されているらしい。


 アリスは、その隣で背筋を伸ばして座っていた。


 白いワンピース。淡い髪。静かな瞳。

 人間の少女のように見えて、呼吸だけが少し浅い。


 彼女の手元には、ハルナが出してくれた茶菓子が一つ置かれていた。アリスはそれを食べるべきか、観察対象にすべきか、まだ決めかねているようだった。


「軽微なゆらぎ、ね」


 マナが端末を睨みながら言った。


「便利な言葉よね。軽微。ゆらぎ。調整。影響なし。全部くっつければ、何が起きても『よくわからないけど大丈夫そう』に聞こえるんだから」


「マナ、怒ってる?」


 シグレが聞く。


「怒ってるわよ」


「朝から元気だねぇ」


「あなたが元気なさすぎるの!」


「ボクは省エネ設計だから」


「設計者に文句言いたいわ」


「ボクも言いたい」


 言ってから、シグレは少しだけ黙った。


 設計者。


 その言葉が、昨日の会話を引っかけた。


 セーフィエル。


 アリスの設計者。

 夢殿関係者として記録に残る謎の魔女。

 帝都大学第七封鎖研究棟の機械人形群にも、同じ名前が刻まれていた。


 そして、シグレの中にある「ノイン」「シオン」という知らない名前の痛みもまた、夢殿の封印記録へつながっている。


 点は増えている。


 まだ線にはなりきらない。


 だが、帝都のどこかで、誰かがその線を隠そうとしている。


 マナは別の画面を空中に投影した。そこには、ホウジュ区内で報告された夢症状の一覧がある。


「死都東京の夢を見る市民。影の希薄化。鏡像遅延。旧東京の駅名への反応。昨日の機械人形暴走。セーフィエル系列信号。全部まとめて『魔導炉の軽微なゆらぎ』で済ませるのは無理がある」


「でも、市民は納得するよ」


 シグレはお茶を飲みながら言った。


「夢殿がそう言うなら、そうなんだって」


「あなたは納得するの?」


「ボクは納得する前に眠くなる」


「逃げた」


「省エネだよぉ」


「便利な言葉ね、それ」


 アリスが静かに手を上げた。


「質問があります」


「どうぞ、アリスちゃん」


「魔導炉の軽微なゆらぎとは、どの程度まで軽微であると定義されるのですか」


 シグレとマナは、顔を見合わせた。


 マナが答える。


「政府が大丈夫って言える範囲まで」


「では、被害の大小ではなく、発表可能性によって定義されるのですか」


「……アリス、あなた時々すごく核心を突くわね」


「ありがとうございます」


「褒めてるけど、ちょっと胃が痛い」


 アリスは真面目に頷いた。


「理解しました。帝都政府用語における『軽微』は、市民生活上の被害規模ではなく、統治上の不安抑制度を含む表現です」


「完璧」


 シグレが拍手した。


「アリスちゃん、帝都広報局で働けるよ」


「不適切です。私は虚偽発表に向いていません」


「さらに核心」


 マナが額を押さえた。


「アリス、そういうことは外で言わないでね」


「なぜですか」


「夢殿に怒られるから」


「夢殿は、怒るのですか」


 アリスの問いは、ただの確認だった。


 だが、その場の空気が少し変わった。


 夢殿。


 帝都政府の行政中枢。

 魔導炉制御施設。

 ヨムルンガルド結界の監視機構。

 女帝ヌルの眠る神殿。


 帝都市民は、その白い塔を毎日見ている。ニュースで見る。祈りの対象として見る。行政機関として見る。遠い神の住まう場所として見る。


 だが、シグレたちは今、その夢殿が何かを隠していることを知り始めていた。


 その時、店の外が静かになった。


 ホウジュ区の裏通りは、普段なら昼でもうるさい。魔導バスの低い駆動音。配送車の案内音声。観光客の笑い声。露店の呼び込み。空中歩道から落ちてくる広告音。


 それらが、すっと遠ざかった。


 まるで、街全体の音量が誰かに下げられたように。


 マナが顔を上げる。


「何?」


 アリスの瞳に、細い光が走った。


「外部魔導場に変化。認識誘導術式が展開されています」


「認識誘導?」


 シグレはこたつから出かけて、また戻ろうとした。


「テンチョ」


 奥から、ハルナの声が飛んでくる。


「戻らないでください」


「まだ何もしてないのに」


「こたつへ逃げる顔でした」


「ハルナちゃんは、ボクの顔に詳しすぎるねぇ」


 呼び鈴が鳴った。


 からん。


 いつもと同じ音のはずだった。


 だが、その響きだけが妙に澄んでいた。


 店の扉が開く。


 入ってきたのは、一人の女性だった。


 淡い金色の髪を整え、白と銀を基調とした礼装をまとっている。軍服にも、神官服にも、政府高官の制服にも見える服。胸元には、帝都政府の紋章と、ワルキューレの階位を示す細い徽章。


 穏やかな微笑み。


 優しい声を出しそうな唇。


 人前に立つことに慣れた姿勢。


 だが、彼女が一歩店へ入っただけで、棚の上の呪われているかもしれない鏡が震え、ムラサメの柄がカウンターの下でかすかに鳴った。


 シグレは目を細める。


 マナは立ち上がった。


 アリスは姿勢を正した。


 女性は、丁寧に一礼した。


「突然の訪問、失礼いたします」


 声は柔らかい。


 だが、その柔らかさが、逆に隙のなさを感じさせる。


「帝都政府広報統制局、およびワルキューレ第四位、フィーアと申します」


 ワルキューレ。


 その言葉が、店の中の空気を一段冷やした。


 女帝ヌル直属の戦乙女。


 夢殿とヴァルハラ宮殿に仕え、帝都政府、魔導炉、死都東京、裁きの門、タルタロス封印に関わる最高権限を持つ者たち。


 市民から見れば、女帝に仕える天の使い。

 帝都警察から見れば、頭上を通り越して命令を下す上位組織。

 裏社会から見れば、関わった時点で逃げ場のない災厄。


 その第四位が、ホウジュ区の小さな雑貨店に立っていた。


 シグレは、いつもの眠そうな顔で言った。


「いらっしゃいませ。聖像なら、家庭祭壇用と携帯用があります」


 マナが小声で怒る。


「ちょっと、相手ワルキューレよ」


「お客さんかもしれないし」


 フィーアは微笑みを崩さない。


「残念ながら、本日は買い物ではありません」


「じゃあ、売り込み?」


「公務です」


「いちばん嫌なやつだねぇ」


 フィーアは店内を見回した。


 女帝ヌルの聖像。旧東京地図。魔導炉記念メダル。呪われた鏡。こたつ。ハルナが奥から警戒している気配。マナの展開した資料群。アリス。


 最後に、シグレへ視線を戻す。


「シグレ様。お噂は、かねがね」


「様はいらないよぉ。店長さんでいい」


「では、シグレ店長」


「それはそれで変だなぁ」


「帝都の天使、とお呼びした方がよろしいでしょうか」


「やめてくれると嬉しいなぁ」


「失礼しました」


 フィーアは謝る。


 完璧な謝罪だった。


 だが、謝っているようには見えなかった。


 マナが一歩前に出る。


「ワルキューレ第四位が、雑貨店に何の用ですか」


「鳴海マナ様ですね。帝都大学特別研究員。高位魔導士。昨日の第七封鎖研究棟事案において、現場対応を担当」


「私の経歴紹介は不要です」


「失礼。癖のようなものです」


「広報の?」


「統治の、です」


 マナの眉が上がる。


 フィーアはその反応すら織り込み済みのように、穏やかに続けた。


「本日は、最近ホウジュ区およびカミハラ区周辺で確認されている一連の魔導事案について、帝都政府の公式見解をお伝えに参りました」


「公式見解なら、ニュースで見ました」


 マナが言う。


「魔導炉の軽微なゆらぎ、でしたっけ」


「はい」


「機械人形二十六体が暴走して、死都東京の夢を見る市民が増えて、影が薄くなって、旧東京の駅名を口にして、セーフィエルの名が夢殿関係者として出てきても、軽微?」


 フィーアの笑みは変わらない。


「正確には、魔導炉出力調整に伴う都市魔導場の局所的偏りです」


「言い換えただけじゃない」


「言葉は、混乱を抑えるためにあります」


「真実を隠すためじゃなくて?」


「真実は、時に市民の生活を不必要に傷つけます」


 マナが黙った。


 フィーアの声は、正論に似ていた。


 いや、正論の形をしているからこそ厄介だった。


 大規模な不安は暴動を生む。

 暴動は都市機能を止める。

 都市機能が止まれば、魔導炉と結界にも影響が出る。

 帝都政府はそれを恐れる。


 つまり、彼女たちは嘘をついているのではない。


 秩序を守るために、真実の順番を決めている。


 シグレは湯呑みを置いた。


「で、フィーアさん」


「はい」


「公式見解を伝えるだけなら、壁面モニターで十分だよね。わざわざワルキューレ第四位が来る必要、ある?」


「ございます」


「どうして?」


「あなた方が、公式見解では満足しない方々だからです」


 フィーアは、静かに笑った。


「そして、満足しない方々が、とても危険な名前に近づきつつあるからです」


 アリスの指先が、わずかに動いた。


 マナが警戒する。


 シグレは眠そうなまま、目だけを細めた。


「危険な名前?」


「死都東京」


 フィーアの声は、やわらかい。


「裁きの門」


 棚の上の中古鏡に、細い亀裂が入った。


「ノイン」


 シグレの胸が、刺された。


 ムラサメの柄が、カウンターの下で青白く光る。


 アリスが、その反応を見た。


 マナも見た。


 フィーアも、もちろん見ていた。


「……ノイン?」


 シグレは、あえて首を傾げた。


「初めて聞く名前だねぇ」


「そうでしょうか」


「うん。帝都の新しいスイーツ店?」


「シグレ」


 マナが低く言う。


「冗談でごまかせる相手じゃない」


「ごまかしてないよ。ボク、甘いものは好きだし」


 フィーアはくすりと笑った。


「お上手ですね」


「褒められた?」


「ええ。とても人間らしい」


 その言葉の温度が、少しだけ下がった。


 人間らしい。


 それは褒め言葉ではなかった。


 観察結果だった。


 フィーアは一歩、シグレへ近づく。


 マナが即座に短杖へ手をかけた。


 アリスの瞳に細い光が走る。


 だが、フィーアは攻撃しなかった。


 ただ、シグレを見る。


 その瞳の奥に、淡い光がある。


 声に魔導が乗っていた。


 市民向け会見で群衆の不安を鎮めるための、認識誘導。

 反女帝派の記者会見を穏便に終わらせるための、感情調整。

 暴徒を暴徒になる前に沈静化させるための、都市統治の声。


 フィーアは、剣で斬るワルキューレではない。


 声で場を支配するワルキューレだった。


「シグレ様」


「様はいらないってば」


「あなたは、ご自分が何に近づいているのか、まだ理解していません」


「近づいてるつもりはないよ」


「では、引き寄せられている」


「不運体質だからねぇ」


「不運ではありません」


 フィーアの声が、さらに静かになる。


「残響です」


 シグレの呼吸が止まった。


 その一語は、前にも聞いた。


 夢殿の奥。


 ズィーベンが呟いた名。


 ノインの残響。


「あなたの内側には、帝都の秩序に関わる古い響きがあります。死都東京に近づけば、それは反応する。裁きの門に近づけば、さらに強くなる。ノインの名に触れれば――あなた自身の輪郭にも影響が出るでしょう」


「……ずいぶん詳しいねぇ」


「夢殿は、帝都の異常を観測しています」


「ボクも異常扱い?」


「現時点では、観測対象です」


「出世したなぁ」


 シグレは笑った。


 笑おうとした。


 けれど、声の奥がわずかに乾いた。


 フィーアは見逃さない。


「警告いたします」


 彼女は、ゆっくりと言った。


「死都東京について調べないでください。裁きの門について調べないでください。ノインについて調べないでください。セーフィエルの名を追うことも、お勧めしません」


 マナが怒りを露わにした。


「それは命令?」


「忠告です」


「ワルキューレ第四位が、認識誘導術式を張った上で雑貨店に来て、個人名を出して調査をやめろと言う。それを忠告って呼ぶの?」


「はい」


「便利な言葉ね」


「秩序を維持するための言葉です」


「本当に秩序を守っているなら、なぜ隠す必要があるの?」


 マナの声が鋭くなる。


「死都東京の夢。影が薄くなる市民。機械人形の暴走。アリスを見て停止した旧式群。セーフィエルの名。夢殿関係者。削除されたワルキューレ第九位。全部つながっているんでしょう」


 フィーアは、マナを見る。


 初めて、笑みが少しだけ薄くなった。


「鳴海マナ様。あなたは優秀な魔導士です」


「ありがとう。褒められても引かないわよ」


「だからこそ、申し上げます。優秀な人間ほど、見てはならないものを見てしまう」


「見られたくないものがある側の理屈ね」


「都市には、見せてはならないものがあります」


「市民のため?」


「帝都のためです」


 その言葉は重かった。


 帝都のため。


 それは、市民のためと似ているようで、違う。


 帝都という都市機構。

 魔導炉。

 夢殿。

 ヴァルハラ宮殿。

 ヨムルンガルド結界。

 死都東京を覆う封印。

 タルタロスへ続く何か。

 女帝ヌルが維持する秩序。


 そのすべてを含んだ言葉だった。


 アリスが静かに言う。


「質問があります」


 フィーアの視線が、アリスへ向いた。


 その瞬間、空気がさらに冷える。


 フィーアの目に、警戒が宿った。


「どうぞ、アリス様」


「私にも様が付くのですね」


「あなたは、単なる機械人形ではありませんので」


 マナがアリスの前に半歩出た。


「アリスに何を知っているの」


「公式には、未登録高性能機械人形。非公式には、セーフィエル系列個体」


 アリスは瞬きした。


「私は、セーフィエルをほとんど覚えていません」


「存じています」


「なぜですか」


「記録が欠損しているからです」


「誰が欠損させたのですか」


 フィーアは答えなかった。


 アリスは続ける。


「夢殿ですか」


 沈黙。


 それは肯定ではない。


 だが、否定でもなかった。


 マナの拳が強く握られる。


「……やっぱり、何か知ってるのね」


 フィーアは、ゆっくりと息を吐いた。


「知っていることと、語ることは違います」


「語れない理由は?」


「帝都の秩序です」


「またそれ」


「ええ。またそれです」


 フィーアの声には、揺らぎがなかった。


 彼女は本当に、そう信じている。


 個人の疑問より、都市の安定。

 失われた名前より、現在の秩序。

 誰かの痛みより、帝都全体の継続。


 それがワルキューレ第四位フィーアの立場だった。


 シグレは、こたつ布団から完全に出た。


 黒いコートを肩にかける。


 ムラサメの柄を手に取るわけではない。ただ、立つ。


「フィーアさん」


「はい」


「ボクからも質問」


「どうぞ」


「ノインって、誰?」


 店内が静まり返った。


 マナがシグレを見る。


 アリスも見る。


 奥で、ハルナが息を止める気配がした。


 フィーアは、微笑みを保ったままだった。


 だが、その目の奥だけが、わずかに変わる。


 それは、警戒ではない。


 追悼にも似ていた。


「その名は、口にしない方がよろしいでしょう」


「知らない名前なのに?」


「知らないなら、なおさらです」


「ボクが知ってたら?」


「忘れてください」


「忘れられなかったら?」


「夢殿が忘れさせます」


 その瞬間、マナが短杖を抜いた。


 シグレは片手でそれを制した。


「マナ」


「今のは脅しよ」


「うん」


「うん、じゃない!」


「でも、ここで撃ったら店が壊れる」


「そこ!?」


「ハルナちゃんに怒られる」


 奥から、ハルナの声が飛んだ。


「もう怒ってます!」


「ほら」


「ほらじゃない!」


 シグレはフィーアへ向き直った。


 いつもの眠そうな目。


 だが、声だけが少し低い。


「夢殿が忘れさせるって、便利だねぇ」


「必要な処置です」


「誰にとって?」


「帝都にとって」


「ノインって名前も、帝都にとって邪魔だった?」


 フィーアの笑みが、初めて完全に消えた。


 空気が重くなる。


 店の棚に置かれた女帝ヌルの聖像が、わずかに光を帯びた。フィーアの魔導場に反応しているのか、それとも夢殿側の遠隔認証なのかはわからない。


「シグレ様」


 今度の「様」は、敬称ではなかった。


 封印物へ貼られる札のような響きだった。


「あなたは、自分が何者であるかを知る前に、その問いの重さを知るべきです」


「ボクはただの雑貨店店長だよ」


「いいえ」


 フィーアは即答した。


「あなたは、ただの雑貨店店長ではありません」


「帝都の天使?」


「いいえ」


「トラブルシューター?」


「いいえ」


「じゃあ、なに?」


 フィーアは一拍置いた。


「今は、まだ申し上げられません」


「また便利な言葉」


「便利ではありません。限界です」


 その声には、ほんのわずかに本音が混じっていた。


 フィーア自身も、すべてを語る権限は持っていない。


 ワルキューレ第四位であっても、ノインの名は軽く扱えない。


 夢殿の奥。

 ヴァルハラ宮殿。

 女帝ヌル。

 眠る本体。

 永久欠番。


 そこに触れるには、彼女ですら許可が足りない。


 シグレはそれを感じ取った。


「フィーアさんも、大変だねぇ」


「同情ですか」


「少し」


「不要です」


「そっか」


「ですが」


 フィーアは再び微笑んだ。


 公的な顔に戻る。


「お気遣いには、感謝いたします」


「やっぱり広報の人だねぇ」


「よく言われます」


 彼女は一歩下がった。


 店内の認識誘導術式が、少しだけ緩む。


 外の音が戻ってきた。配送車の案内音声。子どもの声。空中歩道を行き交う群衆。ホウジュ区の日常。


 まるで、今の会話などなかったかのように。


 フィーアは扉の前で振り返った。


「最後に、帝都政府からの正式なお願いです」


「お願いで済む?」


「今は」


 フィーアの視線が、シグレ、マナ、アリスを順に見る。


「死都東京方面への独自調査を中止してください。帝都大学封印資料への不正アクセスを停止してください。セーフィエル、ノイン、裁きの門に関する情報を第三者へ拡散しないでください。アリス様については、夢殿への登録手続きを推奨いたします」


「却下」


 マナが即答した。


「アリスは夢殿に渡さない」


「登録は保護のためです」


「支配のためでしょ」


「保護と管理は、時に同義です」


「私は違うと思う」


「その違いを主張できるのが、人間の美点であり、危険性です」


 アリスは、静かにフィーアを見ていた。


「フィーア様」


「何でしょう」


「夢殿に登録された場合、私は私でいられますか」


 フィーアはすぐには答えなかった。


 完璧な広報官が、答えを選べなかった。


 それだけで、答えになっていた。


 アリスは小さく頷く。


「理解しました」


 マナの表情が険しくなる。


 シグレは、アリスの肩越しにフィーアを見た。


「ボクからも、最後にひとつ」


「はい」


「夢殿がボクたちを見てるなら、伝えておいて」


「何をでしょう」


「ボク、面倒ごとは嫌いなんだ」


「存じています」


「でも、知り合いが怖がってたり、誰かが消されそうだったり、アリスちゃんが自分じゃなくされそうだったりしたら、たぶん放っておけない」


 フィーアは静かに聞いている。


「だから、隠したいなら、もう少し上手に隠してほしいなぁ」


「それは忠告ですか」


「お願い」


「承りました」


 フィーアは礼をした。


「それでは、シグレ様。鳴海マナ様。アリス様」


 扉が開く。


 ホウジュ区の昼の光が差し込む。


「次にお会いする時も、会話で済むことを願っております」


 呼び鈴が鳴った。


 からん。


 フィーアは店を出ていった。


 その瞬間、外の人々がふっと動き出したように見えた。まるで一時停止していた映像が再生されたかのように。


 マナは短杖を握ったまま、深く息を吐いた。


「……最悪」


「美人だったねぇ」


「感想そこ?」


「怖い人ほど綺麗に笑うよね」


「それは同意する」


 アリスが自分の胸元に手を当てた。


「夢殿に登録された場合、私は私でいられない可能性があります」


「登録しない」


 マナは即座に言った。


「何があっても、あなたを渡さない」


「マナ様」


「約束したでしょ。あなたはアリス。誰かの道具じゃない」


 アリスは静かに頷いた。


「約束、再確認しました」


 シグレは棚の上の女帝ヌル聖像を見た。


 小さな少女の神は、相変わらず穏やかな顔をしている。


 だが、今日のシグレには、その小さな像の視線が少しだけ冷たく見えた。


 マナが言う。


「これで確定ね」


「何が?」


「帝都政府は、隠してる」


「うん」


「死都東京、裁きの門、ノイン、セーフィエル、アリス。全部、夢殿が把握してる」


「たぶんね」


「それでも調べる?」


 シグレはこたつを見た。


 温かい場所。

 眠れる場所。

 帰れる場所。


 できれば、そこにいたい。


 けれど、もう無理なのだろう。


 フィーアは言った。


 あなたは、ただの雑貨店店長ではない。


 そんなことは、知りたくなかった。


 シグレは、ゆっくり肩をすくめる。


「調べない方が面倒になりそうだしねぇ」


「よし」


 マナは端末を再起動した。


「じゃあ、まずは帝都大学の封印資料をもっと掘る。クレハ先生にも連絡。あと、アリスの内部記録と夢殿関係の欠損を照合する」


「ボクの予定は?」


「前衛兼、変な名前に反応する係」


「ひどい役職」


「適任でしょ」


「否定できないなぁ」


 アリスが手を上げた。


「私の役職は何でしょうか」


「保護対象兼、重要参考人兼、かわいい後輩」


 マナが答える。


「後半は主観ではありませんか」


「大事な主観よ」


「記録しました」


 シグレは笑った。


 ほんの少しだけ、店内の空気が戻る。


 けれど、完全には戻らない。


 フィーアが残した言葉は、店の床に薄い影のように残っていた。


 死都東京。

 裁きの門。

 ノイン。


 調べるな。


 その言葉は、警告であると同時に、そこに真実があるという証明でもあった。


 同じ頃。


 アツギ中枢区、ヴァルハラ宮殿。


 帝都エデンの行政中枢である夢殿と並び立つ、女帝ヌルの居城。旧厚木基地跡地に築かれたその宮殿は、軍事施設の骨格と神殿の装飾を併せ持っていた。


 白い外壁。

 金色の尖塔。

 地下へ伸びる旧軍事格納庫。

 そのさらに奥へ続く、天界由来の魔導回路。


 宮殿の中央広間には、光が降っていた。


 天井からではない。

 空間そのものから、淡い光が滲み出している。


 その光の下に、少女が座っていた。


 小柄な身体。

 白と金の簡素なドレス。

 年若い顔立ち。

 けれど、その瞳には、人間の時間では測れない古さがある。


 女帝ヌル。


 市民がニュースや儀礼で目にする、女帝義体。


 夢殿の最深部で眠る本体から思念を飛ばし、動かされる統治用の器。


 彼女は、玉座に頬杖をつき、退屈そうに笑っていた。


「フィーア、上手に喋ったね」


 広間の片隅に、フィーアの投影が跪いている。


 実体ではない。

 遠隔報告用の魔導投影だ。


「陛下のご意向に沿うよう努めました」


「でも、あの子たち、やめないよ」


「その可能性が高いと判断します」


「うん。だろうね」


 ヌルは小さく笑った。


 子どものような笑み。


 だが、広間の空気が震える。


「人の子って、ほんと懲りない」


 玉座のそばに、ズィーベンが控えていた。


 ワルキューレ第七位。女帝の側近。長い髪を静かに垂らし、女帝を神ではなく主として見る数少ない者。


 彼女は静かに言う。


「シグレの反応は、前回より明瞭でした」


「ノインの名に?」


「はい。ムラサメも共鳴しています」


「ふぅん」


 ヌルは、退屈そうに足を揺らした。


 その仕草だけなら、年若い少女のものだった。


 しかし、次に口にした言葉は、帝都の神のものだった。


「殺す?」


 フィーアの投影が、わずかに伏せたまま動かない。


 ズィーベンも表情を変えない。


 だが、広間の光が一瞬だけ硬くなる。


 ヌルは微笑んだ。


「冗談だよ。半分くらいは」


「陛下」


 ズィーベンが静かに諫める。


 ヌルは肩をすくめた。


「わかってる。シグレを殺すには、まだ早い」


 その声には、怒りも悲しみもなかった。


 ただ、計算があった。


「あの子の中には、ノインの残響がある。消せば封印に何が起きるかわからない。かといって放置すれば、セーフィエルが嗅ぎつける。アリスもいる。マナも動く。クレハは余計な扉を開ける」


「監視を強化しますか」


「うん。でも、締めつけすぎないで。人の子は、檻を見ると壊したがるから」


「承知しました」


 ヌルは、ホウジュ区の方角を見た。


 宮殿の壁は厚く、距離も遠い。


 だが、女帝義体の視線は都市の魔導回路を通じて、帝都全域へ届く。


「見ていよう」


 彼女は、退屈そうに、しかしどこか楽しそうに言った。


「シグレが、どこまで自分でいられるのか」


 その時だった。


 広間の奥で、結界観測装置が鳴った。


 鋭い音ではない。


 低く、重い鐘のような音。


 ズィーベンの表情が変わる。


「死都東京方面、外層結界に異常」


 フィーアの投影が顔を上げる。


 ヌルの瞳から、退屈が消えた。


 空中に帝都全域の結界図が展開される。ヨムルンガルド結界を示す巨大な円環。その東側、死都東京を覆う境界面に、細い赤い線が走っていた。


 亀裂。


 初めて、明確に視認できる形で現れた結界の損傷。


 それはすぐに塞がった。


 だが、見えた。


 確かに、走った。


 ヌルは玉座の肘掛けに指を置く。


 軽く、規則正しく、叩く。


 一度。

 二度。

 三度。


「……まだ、早いよ」


 その声は、誰に向けたものでもなかった。


 死都東京か。

 タルタロスか。

 セーフィエルか。

 ノインか。

 それとも、自分の半身である闇の子か。


 ズィーベンは頭を垂れた。


「陛下。アハトへ死都観測強化を命じます」


「うん」


「アインへも待機命令を」


「まだ剣は抜かせなくていい」


「承知しました」


 ヌルはもう一度、結界図を見た。


 赤い線は消えている。


 しかし、消えたからといって、なかったことにはならない。


 帝都エデンの足元で、封印が軋み始めていた。


 ホウジュ区の雑貨店で、シグレが知らない名に胸を痛めている頃。


 カミハラ区で、アリスが忘れさせられた記録に触れようとしている頃。


 夢殿とヴァルハラ宮殿の奥で、女帝ヌルは初めて、ほんの少しだけ眉をひそめた。


「ノイン」


 彼女は、その名を軽々しく口にしなかった。


 だが、この夜だけは違った。


「キミの残響は、まだ帝都を揺らすんだね」


 誰も答えない。


 死都東京方面の空に、月が昇っていた。


 その月の輪郭が、一瞬だけ割れたように見えた。

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