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第3話 魔導士マナと機械人形アリス

 帝都大学カミハラキャンパスは、朝から封鎖されていた。


 カミハラ区は、帝都エデンにおける学術と魔導産業の中枢である。旧相模原方面を中心に再編された研究都市で、空には実験用の小型魔導艇が飛び、地上には無人搬送機が走り、地下には大学、企業、帝都政府、夢殿系列機関の研究施設が網の目のようにつながっている。


 その中心にある帝都大学は、表向きには帝都最高峰の総合大学だった。


 だが、実際にはもう少し面倒な場所である。


 魔導科学の最先端。

 死都東京由来物の保存施設。

 トキオ聖戦以前の記録庫。

 政府委託研究室。

 倫理審査で毎月何かしら揉める研究棟。

 そして、学生向けパンフレットには絶対に載らない封鎖区域。


 その一つ、帝都大学第七封鎖研究棟で、警報が鳴っていた。


『警告。第三隔離層、制御不能。警告。機械人形保管槽、連鎖起動。警告。実験棟内の職員は、ただちに退避してください』


 赤い警告灯が白い廊下を染める。


 透明な防護壁の向こうで、何かが動いた。


 少女の形をした機械人形だった。


 いや、一体ではない。


 二体。

 三体。

 十体。

 二十体。


 古い形式の少女型機械人形たちが、保管槽の中からゆっくりと身を起こしていた。硝子の棺のような装置が次々と開き、関節部から白い蒸気が漏れる。瞳には光が宿っていない。それでも、彼女たちは人間の少女とほとんど変わらない姿で、裸足のまま床に降り立った。


 銀色の髪。

 白い肌。

 胸元に刻まれた製造番号。

 未完成の表情。


 整然と並べば人形劇の舞台にも見えるだろう。


 だが、今の彼女たちは、舞台袖で出番を待つ人形ではなかった。


 細い指先が開く。


 内部魔導回路が暴走し、手首から光刃が展開される。


 直後、防護壁の向こうで、研究員の悲鳴が上がった。


「第三層、隔壁を閉じろ!」


「閉じています! 内側から切られています!」


「外部通信は!?」


「妨害されています! 棟内の魔導通信、すべてノイズです!」


 制御室の中で、若い研究員が端末にしがみつく。壁一面のモニターには、第七封鎖研究棟の平面図が映っていた。赤い点が無数に増えていく。起動した機械人形の位置を示す点である。


 それらは本来、動くはずがなかった。


 帝都大学が保管していたのは、トキオ聖戦前後に製造された旧式の機械人形群である。修復不可能な機体、制御核を抜かれた機体、人格形成に失敗した機体、製造者不明の機体。研究資料として封印保管されていたそれらが、同時に起動した。


 原因は不明。


 ただ一つ、制御室の端末には同じ異常ログが繰り返し表示されていた。


《上位個体検索中》

《母機照合失敗》

《設計者権限照合失敗》

《セーフィエル系列信号、検出》

《再起動》

《再起動》

《再起動》


 研究主任は、青ざめた顔で通信端末を握りしめた。


「クレハ教授はどこだ!」


 そのころ、クレハ教授は、ホウジュ区の雑貨店で茶菓子を食べていた。


「緊急事態?」


 シグレはこたつに入ったまま、眠たげに聞き返した。


「そうだ」


 クレハは時雨堂のカウンターに座り、当然のようにハルナが淹れたお茶を飲んでいる。膝の上には資料束。片手には饅頭。顔には、困った事態に遭遇した研究者特有の、困っていない笑みが浮かんでいた。


「帝都大学第七封鎖研究棟で、旧式機械人形群が暴走した」


「それ、すごく緊急っぽいねぇ」


「緊急だ」


「じゃあ、なんでクレハはここで饅頭食べてるの?」


「糖分補給は重要だ」


「現場の人に怒られない?」


「すでに怒られている」


「でしょうね」


 ハルナが不安げに眉を寄せる。


「機械人形って、あの、人型の魔導機械ですよね」


「そうだ。帝都では労働用、警備用、介護用、研究用、観賞用と多岐にわたる。もっとも、今回暴走したのは市場流通品ではない。封鎖研究棟に保管されていた、製造者不明の旧式群だ」


「危ないものを大学に置かないでください」


「大学とは危ないものを置く場所だ」


「違います」


「違わない」


「違います!」


 ハルナの正論は、クレハの倫理観にはあまり届かなかった。


 シグレはこたつの中で丸くなりながら、ゆっくり湯呑みを持ち上げる。


「で、ボクにどうしろと?」


「現場に来い」


「嫌だなぁ」


「即答か」


「だって、クレハの研究棟で起きた機械人形暴走でしょ。絶対、爆発するか、斬られるか、変な薬品を浴びるか、研究対象にされるじゃん」


「正確な予測だ」


「否定してよ」


「嘘はよくない」


 シグレは深くため息をついた。


「帝都警察は?」


「封鎖中だ。だが、通常の魔導銃では旧式機械人形の装甲を抜けない。機動警察を呼べば研究棟ごと吹き飛ばされる可能性がある。帝都政府へ正式に要請すれば、夢殿系列の監査が入る」


「監査されたくないと」


「研究者には守るべき自由がある」


「隠したい不祥事がある、の言い換えだねぇ」


「君は時々、嫌なほど正しい」


「クレハ相手だと、正しさより自衛が大事だからね」


 シグレはこたつから出ようとしない。


 ハルナは、そんなシグレを見ていた。


 前の夜から、彼は眠れていない。眠れば死都東京の夢を見るかもしれない。目を閉じれば、白い少女と黒い影が出てくるかもしれない。そう思っていることを、ハルナは言わなくてもわかっていた。


 だからこそ、彼はこたつに居座っている。


 こたつは、現実の証明だった。


 お茶の熱。

 ハルナの声。

 店の匂い。

 棚に並んだ無意味な雑貨。

 女帝ヌルの小さな聖像。

 旧東京の復刻地図。

 呪われているかもしれない中古鏡。


 全部、シグレがシグレでいるための、ささやかな重しだった。


 クレハは饅頭を置いた。


「シグレ」


「うん?」


「暴走ログに、セーフィエルの名が出た」


 湯呑みの中の茶が、かすかに揺れた。


 ハルナも息を止める。


「セーフィエル?」


 シグレはその名を繰り返した。


 知らない名だった。


 だが、昨日の「シオン」と同じように、胸の奥に薄い痛みが走った。


「誰?」


「それを調べている。古い封印記録に出てきた名だ。夢殿関係者、もしくはそれに準じる権限を持つ人物として記録されていた。だが、詳細は黒塗り。通常の帝都大学権限では読めない」


「クレハの違法鍵でも?」


「違法ではない。非公式だ」


「同じ意味じゃないかなぁ」


「読めないものは読めない。だが、封鎖研究棟の暴走ログにその名が出た以上、無関係ではない」


 クレハは端末をシグレへ向けた。


 画面には、異常ログが映っている。


《セーフィエル系列信号、検出》


 シグレはその文字を見つめた。


 夢殿。

 封印記録。

 シオン。

 ノイン。

 セーフィエル。


 知らない名前ばかりが、自分の周囲に集まり始めている。


「……ついてないなぁ」


 シグレはそう呟いて、ようやくこたつから出た。


 ハルナがすぐに黒いコートを持ってくる。


「テンチョ」


「なに?」


「今日は、ちゃんと帰ってきてください。夢じゃなくて、現実の事件なんですよね」


「たぶんね」


「その『たぶん』が怖いんです」


「大丈夫。機械人形なら、夢よりは殴りやすい」


「殴らないでください。壊したら弁償です」


「大学の備品を?」


 クレハが笑う。


「心配するな。すでに壊れている」


「なおさら嫌だなぁ」


 ハルナはシグレのマフラーを巻き直した。


 それから、小さな護符を一枚、コートの内側へ入れる。


「これは?」


「昨日の改良版です。《早く帰れ》って書いてあります」


「命令形だ」


「効き目重視です」


「最強だねぇ」


「最強です」


 シグレは少し笑った。


 その笑みを見て、ハルナはようやく手を離す。


「行ってらっしゃい、テンチョ」


「行ってきます」


 帝都大学第七封鎖研究棟は、表のキャンパスから大きく離れた地下区画にあった。


 地上から見れば、そこは緑化された実験庭園である。人工池、魔導植物の温室、学生用の休憩スペース、そして立入禁止の小さな管理棟。


 だが、管理棟のエレベーターで地下へ降りると景色は変わる。


 白い壁。

 厚い隔壁。

 監視魔導眼。

 床に走る警告ライン。

 空気中に漂う消毒薬と金属と古い魔力の匂い。


 そこは、大学というより軍事施設に近かった。


 シグレとクレハが到着した時、地下入口にはすでに帝都警察と大学警備部が集まっていた。武装した警備員たちが隔壁前に陣取り、研究員たちは青ざめた顔で端末を覗き込んでいる。


 その中に、ひときわ声の大きい女性がいた。


「だから、隔壁を全部閉めたままじゃ中の研究員が酸欠になるでしょ! 第四層の換気だけ独立再起動して! あ、そこ触らない! その赤いボタンは押すとたぶん爆発するやつ!」


 年齢はシグレと同じくらいか、少し上。


 明るい栗色の髪を高い位置で束ね、動きやすい魔導士用コートを羽織っている。コートの内側には魔導書が何冊も差し込まれ、腰には短杖、手首には小型術式端末。研究員たちへ矢継ぎ早に指示を飛ばしながら、自分でも同時に三つの魔法陣を操作している。


 忙しい。


 とにかく忙しい。


 人間一人に許された処理速度を、かなり強引に超えている。


 クレハが片手を上げた。


「マナ」


 女性が振り向く。


「遅い!」


 開口一番、怒られた。


 クレハは平然としている。


「最短で来た」


「嘘。絶対どこかでお茶飲んでたでしょ」


「饅頭も食べた」


「自白が早い!」


「糖分は重要だ」


「現場が爆発しかけてる時に糖分の重要性を説かない!」


 マナと呼ばれた魔導士は、次にシグレを見た。


 一瞬、目を丸くする。


「……あ、あなたがシグレ?」


「たぶん」


「たぶん?」


「朝は自己認識が曖昧で」


「もう昼だけど」


「じゃあ、少し曖昧で」


「変な人ね」


「よく言われる」


 マナはシグレを頭から足先まで見た。黒いコート。眠そうな目。腰に差したムラサメの柄。中性的な顔立ち。


「帝都の天使って呼ばれてるって聞いたけど、思ったよりやる気なさそう」


「呼んだ人に苦情を入れてほしいなぁ」


「でも顔は確かに天使ね」


「照れる」


「褒めてない。危機感がないって意味」


「それはいつも言われる」


「でしょうね」


 マナは即座に話を切り替えた。


「状況説明。第七封鎖研究棟の第三隔離層で、旧式機械人形二十六体が同時起動。うち十七体が移動可能、九体は保管槽から出られない状態。現在、第三層から第二層へ侵入されかけてる。中には研究員が三名取り残されてる。帝都警察の火力じゃ止められない。機動警察を呼ぶと研究棟が崩れる。以上」


「わかりやすいねぇ」


「わかりやすくしないと、クレハ先生が余計な説明を始めるから」


「マナ、私は常に必要な説明しかしない」


「先生の必要は世間の過剰です」


「よくわかっている」


「褒めてない!」


 二人のやり取りに、シグレは少しだけ笑った。


 このマナという魔導士は、騒がしい。


 だが、雑ではない。


 指示は正確で、判断は早い。魔導陣の組み方にも無駄がない。帝都大学の研究員たちが彼女の言葉に従っているのは、声が大きいからではない。実力があるからだ。


 その時、シグレの視線が、マナの後ろで止まった。


 少女が立っていた。


 白いワンピース。

 長い淡色の髪。

 陶器のような肌。

 硝子玉のように澄んだ瞳。


 年齢は十二、三歳ほどに見える。


 だが、人間ではない。


 呼吸の揺れが小さすぎる。瞬きの間隔が正確すぎる。姿勢が整いすぎている。肌の下に、かすかな魔導回路の光が走っている。


 機械人形。


 少女はシグレへ向かって、静かに礼をした。


「初めまして。アリスと申します」


 声は柔らかかった。


 感情は薄い。


 けれど、無感情ではない。


 シグレは胸の奥に、小さな痛みを覚えた。


 夢の中で見た白い少女。


 線路の向こうに眠っていた誰か。


 シオン。


 その名が、また奥で揺れる。


「……シグレだよ」


 シグレは答えた。


「よろしく、アリスちゃん」


「はい。よろしくお願いいたします、シグレ様」


「様はいらないかなぁ。店長さんでいいよ」


「店長様」


「悪化したねぇ」


 マナが横から言う。


「アリス、シグレでいいのよ。あと、この人はたぶん偉くない」


「たぶんではなく、全然偉くないよ」


「本人公認だった」


 アリスは少し首を傾けた。


「了解しました。シグレ」


「うん。そっちの方がいい」


 シグレは笑った。


 だが、胸の痛みは消えなかった。


 アリスは、シグレをじっと見ている。


 機械人形らしい観察。


 けれど、それだけではないようにも見えた。


 クレハが二人の間に割って入る。


「アリスはマナが保護している機械人形だ」


「保護って?」


 シグレが問う。


 マナが答える。


「拾ったの」


「拾った?」


「正確には、封印倉庫で見つけたの。製造記録なし、所有者記録なし、登録番号なし。普通なら帝都政府へ引き渡し。でも、色々あって私が預かってる」


「色々って便利な言葉だねぇ」


「あなたに言われたくない」


 マナは苦い顔をした。


「アリスは暴走機械人形とは違う。今のところ、危険性は低い。礼儀正しいし、計算は速いし、家事もできるし、たまにとんでもないことを言うけど、基本いい子」


「マナ様、補足します。先週、私は洗濯物の分類に失敗し、マナ様の白い衣類を薄桃色へ変色させました」


「それは今言わなくていい!」


「記録の正確性を優先しました」


「優先しなくていい時もあるの!」


 シグレは少しだけ口元を緩めた。


 静かな機械人形と、騒がしい魔導士。


 不思議な組み合わせだった。


 警報が再び鳴る。


『第二隔壁、損傷率六十パーセント。警告。第二隔壁、破断まで三分』


 マナの表情が引き締まる。


「行くわよ。シグレ、あなたは前衛。私は拘束と解析。クレハ先生は後方で制御補助」


「私は現場主任だぞ」


「じゃあ、主任らしく後方で責任を取ってください」


「面白い指示だ」


「アリスは私の後ろ。絶対に前へ出ないこと」


「了解しました」


 アリスは素直に頷いた。


 シグレは腰のムラサメに触れる。


「機械人形を斬るのは、あまり気が進まないなぁ」


「できれば壊さないで。内部に何が入ってるかわからないし、研究資料として貴重だし」


「人命より研究資料?」


「人命の次!」


 クレハが横で言う。


「私は同列でも構わない」


「先生は黙ってて!」


 第二隔壁が開く。


 シグレたちは、第七封鎖研究棟の内部へ入った。


 廊下は薄暗かった。


 非常灯の赤だけが、白い壁と床を照らしている。ところどころに斬撃痕があり、天井の配線が火花を散らしていた。空気には油と焦げた魔導回路の匂いが混じっている。


 遠くで、金属が床を叩く音がした。


 かつん。

 かつん。

 かつん。


 人形の足音。


 シグレはムラサメを起動する。


 青白い光刃が、暗い廊下に伸びた。


 マナは短杖を構え、左手で魔導書を開く。ページが風もないのにめくれ、そこから金色の文字が浮かび上がった。


「第三隔離層まで直線距離で八十メートル。ただし途中に暴走個体が最低五体」


「最低って言葉、好きじゃないなぁ」


「私も嫌い。大抵、最低より多いから」


 角を曲がった瞬間、一体目が現れた。


 少女型機械人形。


 右腕から光刃を展開し、首を不自然な角度で傾けている。瞳は空虚で、口元だけが薄く開いていた。


《上位個体検索中》


 壊れた声が響く。


《母機照合失敗》

《命令系統不明》

《排除》


 機械人形が跳んだ。


 速い。


 人間の少女の形をしているが、動きは人間ではない。関節制限を無視した角度で床を蹴り、壁を走り、天井を経由してシグレへ斬りかかる。


「うわ、怖い」


 シグレは軽く身を引いた。


 光刃が鼻先をかすめる。


 彼はムラサメを斜めに当て、相手の腕を弾く。斬らない。切断しない。刃を逸らし、関節部の駆動を一瞬だけ乱す。


 そこへマナの術式が飛ぶ。


「拘束術式、三重展開!」


 金色の帯が床から伸び、機械人形の手足に絡みつく。暴走個体は抵抗した。細い身体からは想像できない力で術式を引きちぎろうとする。


「強いなぁ」


「旧式なのに出力が高すぎる!」


 マナが歯を食いしばる。


「クレハ先生、この子たち本当に制御核抜かれてるの!?」


「抜いた記録はある」


「記録じゃなくて実物確認!」


「研究費が足りなかった」


「最悪!」


 シグレは機械人形の背後へ回り込み、ムラサメの柄で首筋の制御端子を打った。


 機械人形がびくんと震え、膝をつく。


 マナが即座に封印札を貼る。


《再起動》

《再起動》

《再――》


 声が止まった。


「一体停止」


「壊してないよ」


「えらい」


「褒められた」


「調子に乗らない。次、来る!」


 廊下の奥から三体が同時に現れた。


 その後ろに、さらに影が見える。


 最低五体。


 やはり、最低より多い。


 戦闘は、廊下全体を使った鬼ごっこのようになった。


 シグレは前へ出る。機械人形たちの刃を受け流し、壁や天井を蹴って軌道をずらし、必要最低限の打撃で駆動部を止める。力で叩き伏せるのではなく、糸をほどくように動きを崩していく。


 マナは後方から補助する。拘束、障壁、解析、短距離転移補正。術式の切り替えが速い。口はさらに速い。


「シグレ、右!」


「右ってボクの右? マナの右?」


「あなたの右!」


「親切!」


「二体目の足元に術式置くから踏ませて!」


「注文が多いなぁ」


「前衛でしょ!」


「雑貨店店長だよぉ」


「今だけ前衛店長!」


「新しい肩書き」


 クレハは後ろで端末を操作しながら、興味深そうに観察している。


「ふむ。シグレの非破壊制圧、マナの多重術式制御、アリスの観測能力。よいデータが取れる」


「先生、今データ取ってる場合じゃない!」


「当然、救助も考えている」


「順番!」


「同時進行だ」


 アリスはマナの後ろに立ち、静かに周囲を見ていた。


 恐怖は見えない。


 だが、何も感じていないわけではない。暴走した機械人形が一体停止するたび、アリスの指先がわずかに動く。まるで、同族の痛みを測定しているようだった。


「アリスちゃん」


 シグレが一瞬だけ振り返る。


「大丈夫?」


 アリスは答えるまでに、わずかな間を置いた。


「大丈夫、という状態の定義を確認中です」


「怖い?」


「怖い、という感情に該当する反応はあります。ただし、対象は自己の損傷ではありません」


「じゃあ、何が怖いの?」


 アリスは廊下に倒れた機械人形を見た。


「彼女たちが、何を求めて起動したのかわからないことです」


 シグレは、返事をしなかった。


 胸が少しだけ痛んだ。


 自分もわからない。


 ノイン。

 シオン。

 セーフィエル。

 知らない名前に呼ばれている。


 何を求めているのかわからない声に、少しずつ近づいている。


 第三隔離層の前に辿り着くと、状況はさらに悪かった。


 隔壁は半分以上斬り裂かれていた。向こう側から、何十もの白い手が隙間を押し広げようとしている。光刃が壁を削り、火花が散る。


 隔壁の向こうには、取り残された研究員たちがいる。


 だが、彼らのいる安全区画まで行くには、この暴走群を突破しなければならない。


 マナが短く息を吐く。


「数が多すぎる」


「眠くなってきたなぁ」


「今!?」


「現実逃避」


「起きて!」


 クレハが端末を睨む。


「妙だ。暴走個体の命令系統が一方向ではない。何かを探している。あるいは、何かに反応して集まっている」


「何かって?」


 シグレが聞く。


 その時だった。


 隔壁の向こうから、無数の機械人形の声が重なった。


《上位個体検索中》

《上位個体検索中》

《上位個体検索中》


 声が、同時に止まる。


 廊下の空気が変わった。


 暴走していた機械人形たちの首が、一斉に同じ方向を向く。


 シグレでもない。

 マナでもない。

 クレハでもない。


 アリスだった。


 アリスは、静かに立っていた。


 白いワンピースの裾が、警報風に揺れる。淡い髪の下、瞳がわずかに光を帯びる。


 彼女自身も、その反応に戸惑っているようだった。


「マナ様」


 アリスが小さく言う。


「私を、見ています」


「アリス、下がって!」


 マナが叫ぶ。


 だが、遅かった。


 暴走機械人形たちは、隔壁を押し広げるのをやめた。


 廊下にいた個体も、倒れかけていた個体も、すべてがアリスへ向き直る。


 そして、声を揃えた。


《上位個体、確認》

《母機候補、確認》

《設計者系列、一致》

《命令待機》


 全機が停止した。


 刃が消える。


 関節駆動音が止む。


 白い少女たちは、その場に膝をついた。


 まるで、王に跪く臣下のように。


 誰も動けなかった。


 警報だけが鳴り続ける。


 マナは、青ざめた顔でアリスの肩を掴んだ。


「アリス、何かした?」


「いいえ。私は、何も命令していません」


「本当に?」


「はい。私の能動術式は起動していません」


 クレハは端末を見ながら、ほとんど囁くように言った。


「上位機認識……いや、母機候補認識か。アリスを見た瞬間、暴走命令よりも優先度の高い照合が走った」


「どういうこと?」


 シグレが聞く。


 クレハの目は、研究者の目だった。


「この機械人形群は、アリスを自分たちより上位の個体として認識した。つまり、設計思想、命令系統、あるいは製造者が同系列である可能性が高い」


「アリスちゃんと、この子たちが?」


「少なくとも、完全な無関係ではない」


 アリスは、跪く機械人形たちを見ていた。


 彼女の表情はほとんど変わらない。


 だが、その瞳の奥に、小さな揺れがあった。


「私は、彼女たちを知りません」


 アリスは言った。


「けれど、彼女たちは私を知っているようです」


「アリス……」


 マナの声が、少しだけ揺れた。


 シグレは一歩、アリスの隣に立つ。


 跪いた機械人形たちは、動かない。


 だが、完全に死んだわけではない。瞳の奥に、細い光が残っている。


 アリスはその一体の前へ進んだ。


「アリス、危ない」


 マナが止めようとする。


 アリスは首を振った。


「危険度は低下しています」


「そういう問題じゃない」


「マナ様。彼女は、何かを言おうとしています」


 アリスは膝をつき、停止した機械人形の手に触れた。


 その瞬間、機械人形の瞳が一瞬だけ光った。


《母機》

《帰還》

《セーフィエル》

《失われた子》

《再現》

《未完》

《命令、待機》


 声は途切れた。


 機械人形は完全に沈黙する。


 アリスはゆっくりと手を離した。


「セーフィエル」


 シグレがその名を口にする。


 また、胸が痛んだ。


 今回は、シオンの時とは違う。


 懐かしさではない。


 もっと冷たい。

 月光に触れたような痛み。


 マナは唇を噛んだ。


「……隠してても仕方ないわね」


 クレハが目を細める。


「話す気になったか」


「先生には前に話しました。詳しいことは、私も知らないけど」


 マナはアリスの肩に手を置いた。


 守るように。


「アリスの設計者は、セーフィエルという魔女よ」


 研究棟の警報が、遠くに聞こえた。


 マナは続ける。


「帝都政府の記録にはほとんど残ってない。残っていても黒塗り。夢殿関係者だったとか、封印機構に関わっていたとか、機械人形技術の異端とか、噂はいくつもある。でも、確かなことは少ない」


「マナは、その人に会ったことあるの?」


 シグレが聞く。


「ない。少なくとも、私は覚えてない。アリスを見つけた封印倉庫に、その名が残っていた。設計者署名として」


「アリスちゃんは?」


 シグレは、アリスを見る。


 アリスは静かに答えた。


「私は、セーフィエルという名称を記録しています」


「覚えてる?」


「断片的に」


「どんなふうに?」


 アリスはしばらく沈黙した。


 機械人形なら即答できるはずの問いに、答えを探している。


「声」


 やがて、そう言った。


「月の光。白い指。冷たい手。眠っている誰か。泣いている誰か。私に名前を与えた声」


 マナの手に力が入る。


「それ以上は、無理しなくていい」


「はい」


 アリスは頷く。


「私は、セーフィエルを母と呼ぶべきか、製造者と呼ぶべきか、まだ判断できません」


「呼ばなくていい」


 マナは即座に言った。


「あなたはアリスよ。誰が作ったかなんて、今ここにいるあなたを決める全部じゃない」


 アリスはマナを見上げる。


「マナ様は、いつもそう言います」


「何度でも言うわ」


「なぜですか」


「私がそう思いたいから」


 マナは、少しだけ笑った。


 強気な笑みだった。


 だが、その奥に、アリスを失うことへの恐れが見えた。


「あなたは誰かの道具じゃない。誰かの失敗作でもない。誰かの代わりでもない。少なくとも、私の前ではね」


 シグレは、その言葉を聞いていた。


 誰かの代わり。


 その言葉が、胸に沈む。


 ノイン。

 シオン。

 知らない名前。

 知らない剣筋。

 知らない痛み。


 自分は、誰かの続きを生きているのか。


 それとも、ただ自分の人生を生きているのか。


 答えはない。


 今はまだ、ない。


 第三隔離層の奥から、取り残されていた研究員たちが救助された。全員、軽い負傷と魔導酔いだけで済んでいる。暴走機械人形群はアリスを認識した後、完全に停止し、再封印処理に入った。


 事件は、表向きには収束した。


 だが、現場にいた者たちの表情は軽くなかった。


 なぜ旧式機械人形が同時起動したのか。

 なぜセーフィエル系列信号が検出されたのか。

 なぜアリスを上位機として認識したのか。


 そして、セーフィエルとは何者なのか。


 研究棟の外へ出る頃には、空は夕方になっていた。


 カミハラ区の高い研究塔の間を、夕日が赤く染めている。遠くには夢殿方面の白い光が見えた。帝都の中心から放たれる、女帝の都市の光。


 アリスは、その光をじっと見ていた。


「夢殿」


 彼女が呟く。


 マナが反応する。


「何か思い出した?」


「いいえ。ただ、あの方角に記録欠損があります」


「記録欠損?」


「はい。私の内部記録には、夢殿という名称があります。しかし、詳細を参照しようとすると、空白になります」


 クレハがすかさず端末を向ける。


「詳しく」


「クレハ先生、アリスを研究対象みたいに見ない」


「実際、極めて重要な研究対象だ」


「先生」


「わかった。少しだけ控える」


「少しだけじゃなくて」


 シグレは二人のやり取りを横目に、アリスの隣へ立った。


 夕日が、彼女の白い横顔を照らしている。


 人形のように整っている。


 だが、人形ではない。


 少なくとも、シグレにはそう見えた。


「アリスちゃん」


「はい」


「さっき、怖いって言ってたね」


「はい」


「今も?」


「はい」


「そっか」


「シグレは、怖くないのですか」


「怖いよ」


 アリスは少しだけ目を見開いた。


「そうなのですか」


「うん。怖い」


「ですが、あなたは戦っていました」


「怖くても、戦う時はあるからねぇ」


「なぜですか」


「放っておくほうが、もっと嫌な時があるから」


 アリスはその言葉を処理するように、しばらく黙った。


「放っておくほうが、もっと嫌」


「うん」


「それは、感情ですか」


「たぶんね」


「私にも、ありますか」


「さっき、あったんじゃない?」


「どの部分に?」


「彼女たちが何を求めて起動したのかわからないのが怖いって言ったところ」


 アリスは、自分の胸元に手を当てた。


 そこには機械人形の魔導核があるのだろう。


 心臓の代わりのように。


「では、私は怖かったのですね」


「たぶん」


「たぶん、なのですね」


「感情って、わりとたぶんでできてるから」


「曖昧です」


「曖昧だよぉ。人間も、自分のことなんてあんまりわかってないし」


 アリスはシグレを見つめた。


 その視線は、さきほど暴走機械人形たちが向けたものとは違う。


 検索ではない。


 観察でもない。


 問いかけだった。


「シグレ」


「なに?」


「あなたも、誰かの代わりなのですか?」


 風が止まったような気がした。


 マナとクレハの声が、遠ざかる。


 夕方のカミハラ区。

 研究塔。

 警備員の足音。

 遠くの魔導艇。

 夢殿の白い光。


 そのすべてが、一瞬だけ薄くなる。


 シグレの胸の奥で、知らない名前が揺れた。


 ノイン。


 シオン。


 自分は知らない。


 だが、ムラサメは反応する。


 死都東京の夢は、自分を呼ぶ。


 夢殿の記録には、削除された第九位がある。


 そして今、機械人形の少女が問いかけている。


 あなたも、誰かの代わりなのですか。


 シグレは笑おうとした。


 いつものように、眠たげに。

 面倒くさそうに。

 冗談で流すように。


 でも、うまく笑えなかった。


「……さあ」


 ようやく出た声は、ひどく曖昧だった。


「ボクにも、まだわからない」


 アリスは頷いた。


「そうですか」


「うん」


「では、わかったら教えてください」


「どうして?」


「私も、知りたいからです」


 その言葉に、シグレは少しだけ息を呑んだ。


 アリスは続ける。


「私は、誰かの再現として作られた可能性があります。けれど、マナ様は、私はアリスだと言います。私は、その意味をまだ完全には理解できません」


「うん」


「あなたも、自分が誰なのか、まだ完全には理解していないように見えます」


「そんなにわかりやすい?」


「はい」


「そっかぁ」


「ですので、あなたがわかった時、私にも教えてください。誰かの代わりではなく、自分であるということが、どういうことなのか」


 シグレは、今度こそ少し笑った。


 痛みは消えない。


 けれど、不思議と嫌な痛みだけではなかった。


「いいよ」


 シグレは言った。


「その代わり、アリスちゃんが先にわかったら、ボクにも教えて」


「了解しました」


「約束ね」


「約束、記録しました」


「記録されちゃった」


「はい。重要事項として保存します」


 マナがこちらへ駆け寄ってきた。


「アリス、何か変なこと言われてない?」


「いいえ。約束をしました」


「約束?」


「はい。シグレと、自分が誰であるかについて情報共有を行う約束です」


「重い約束してる!」


 マナがシグレを睨む。


「ちょっと、初対面の機械人形に何を約束させてるの」


「情報共有だよぉ」


「言い方が急に研究者っぽくなるのやめて」


「マナ様、シグレは悪いことをしていません」


「アリスがそう言うなら……いやでも、この人、顔が信用できない」


「美しすぎて?」


「ゆるすぎて」


「否定しづらいなぁ」


 クレハが端末を片手に戻ってくる。


「雑談中すまないが、さらに面倒なものを見つけた」


「また?」


 シグレが肩を落とす。


「今日は面倒が大漁だねぇ」


「初めからそういう日だ」


 クレハは端末画面を空中に展開した。


 そこには、封鎖研究棟の古い保管資料が映っていた。


《第七封鎖研究棟・機械人形群移管記録》

《移管元:夢殿外郭技術室》

《管理区分:封印機構関連補助端末》

《設計系統:■■■■■■》

《主任技術者:セーフィエル》

《備考:夢殿関係者権限により詳細閲覧制限》


 マナの顔から血の気が引いた。


「夢殿……関係者?」


 アリスは画面を見つめている。


「セーフィエル」


 その名を口にした時、彼女の声はほんの少しだけ揺れた。


 シグレは、夢殿の方角を見た。


 帝都の中心。

 女帝ヌルの眠る神殿。

 封印の中枢。

 シオンという名が埋もれている場所。


 そこに、セーフィエルの名がある。


 アリスの設計者。

 機械人形群の主任技術者。

 夢殿関係者。


 点が、線になり始めていた。


 まだ細い。

 まだ見えにくい。

 だが、確かにつながっている。


 クレハは低く言った。


「シグレ。君の夢、削除されたワルキューレ第九位、アリス、そしてセーフィエル。どうやら全部、夢殿へ向かっている」


「やだなぁ」


 シグレは、いつもの口調で言った。


 だが、声は少しだけ低かった。


「夢殿って、遠い神様の家だと思ってたんだけど」


 夕日が沈み、帝都の魔導光が灯り始める。


 夢殿の白い塔は、夜の中でなお明るい。


 その光は、帝都市民にとって救いの象徴だった。


 けれど今のシグレには、巨大な蓋のように見えた。


 何かを守るため。

 何かを閉じ込めるため。

 何かの名前を消すため。


 アリスが静かに言う。


「シグレ」


「なに?」


「私は、夢殿を知っている気がします」


「覚えてるの?」


「いいえ」


 アリスは首を振る。


「覚えていません。ですが、忘れさせられている気がします」


 誰も、すぐには返事をしなかった。


 カミハラ区の上空を、魔導艇が通り過ぎていく。


 遠く、夢殿の塔の光が一度だけ瞬いた。


 それはただの照明の揺らぎだったのかもしれない。


 だが、シグレには、それが眠る誰かのまばたきのように見えた。

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