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第2話 ホウジュ区の雑貨店

 ホウジュ区の朝は、夜よりも騒がしい。


 魔導光の看板が眠り、代わりに湾岸から白い光が差し込んでくる。高層ビルの硝子壁が朝日を反射し、空中歩道を行き交う通勤客の群れが、光の川のように流れていた。旧横浜の名残を残す赤煉瓦倉庫群は観光区画として整備され、その背後には魔導炉から送られる青白いエネルギーラインが、街路樹の根のように地中を走っている。


 帝都エデン。


 旧東京が死都となった後、神奈川全域を再編して築かれた魔導科学都市圏。


 人々はその街で暮らしている。


 朝になれば、会社へ行く。

 学校へ行く。

 店を開ける。

 ニュースを見る。

 女帝ヌルの公式声明を聞く。

 魔導炉の出力予報を確認する。

 死都東京の方角に薄く見える結界光を、今日も遠い景色として眺める。


 その当たり前の生活の片隅に、少しだけ当たり前ではない雑貨店があった。


 ホウジュ区裏通り。


 赤煉瓦風の雑居ビル一階。


 看板には、くすんだ金文字で《時雨堂》とある。


 開店時間は午前十時。


 現在時刻は午前十時四十七分。


 店のシャッターは、半分だけ開いていた。


「テンチョ!」


 店内に、ハルナの声が響いた。


 眼鏡。ツインテール。メイド服。

 今日も彼女は、ホウジュ区の雑貨店員としてはやや過剰なほど店員らしい格好で、掃除用のはたきを片手に立っていた。


 目の前には、こたつがある。


 そして、そのこたつには、店主が沈んでいた。


「テンチョ! 起きてください! 開店時間を四十七分過ぎています!」


「んー……」


 こたつ布団の中から、眠たげな声が返ってくる。


「四捨五入したら、まだ十時だよぉ」


「しません」


「ハルナちゃんは四捨五入に厳しいねぇ」


「時間に厳しいんです」


「帝都の時間は魔導炉基準だから、多少伸び縮みしてもいいんじゃない?」


「その理屈を帝都政府に提出したら、たぶん魔導炉ではなくテンチョの生活態度が調整されます」


「それは困るなぁ」


 こたつ布団がもぞもぞ動く。


 出てきたのは、白い顔だった。


 シグレ。


 ホウジュ区の小さな雑貨店《時雨堂》の店長であり、裏では魔導事件や怪異事件を請け負うトラブルシューターである。


 夜の帝都を黒いコートで跳ぶ姿と、性別を超えた中性的な美貌から、帝都の一部では「帝都の天使」と呼ばれている。


 本人は、今まさに天使どころか冬眠中の小動物に近い状態だった。


「おはよう、ハルナちゃん」


「おはようございます。顔を洗ってください」


「朝ご飯は?」


「もう昼前です」


「じゃあ、お昼ご飯」


「顔を洗ってからです」


「お茶は?」


「顔を洗ってからです」


「人生に救いがない」


「洗面所にあります」


 ハルナは容赦なく、こたつ布団をめくった。


 シグレは黒いロングコートの裾を引きずりながら、ゆっくりと立ち上がる。昨夜、ホウジュ区第三倉庫街で死都東京由来の怪異を斬ったばかりとは思えないほど、動きに緊張感がない。


 ただし、顔色だけは少し悪かった。


 ハルナはそれに気づいていた。


「……テンチョ」


「なに?」


「昨日の怪我、隠してません?」


「隠してないよぉ」


「本当ですか?」


「うん」


「じゃあ、腕を見せてください」


「ハルナちゃんは厳しいなぁ」


「テンチョが信用ならないからです」


「信用を失うようなこと、そんなにしたかなぁ」


「昨日の夜、帰ってきた時に『ちょっと散歩してただけ』と言いながらコートに三か所裂け目がありました」


「帝都の散歩は危険だからね」


「ムラサメから死都魔気の残滓が漏れてました」


「帝都の散歩は本当に危険だからね」


「靴の底に倉庫街の封鎖符が貼りついてました」


「散歩コースがちょっと特殊だっただけだよ」


 ハルナは無言でシグレを見た。


 シグレは数秒だけ抵抗した後、おとなしく袖をまくった。


 白い腕に、細い切り傷が一本ある。深くはない。だが、傷口の縁が黒く滲んでいた。


 ハルナの表情が変わる。


「やっぱり」


「大丈夫だよ。クレハが浄化符を貼ってくれたし」


「クレハ先生の浄化符は、治療というより実験に近いです」


「否定できないなぁ」


「笑いごとじゃありません」


 ハルナは奥から救急箱を持ってきた。普通の包帯、消毒液、魔導汚染用の吸着布、ハルナ手作りの小さな護符。雑貨店の救急箱としてはずいぶん物騒な中身である。


 シグレはカウンターの椅子に座らされ、腕を差し出した。


 ハルナが丁寧に傷を拭く。


 その手つきは、店員というより家族のものだった。


「痛くないですか?」


「痛いって言ったら優しくしてくれる?」


「今も優しくしてます」


「じゃあ、痛くない」


「テンチョ」


「少しだけ」


「最初からそう言ってください」


 吸着布が傷の周囲の黒い滲みを吸い取っていく。布の端に、墨を垂らしたような染みが広がった。


 ハルナは眉をひそめた。


「死都東京の魔気って、こんなに残るんですか?」


「普通は残らないよ」


「普通じゃないんですね」


「この街で普通だったこと、ある?」


「テンチョの寝坊くらいです」


「それは普通じゃなくて日常だねぇ」


「威張らないでください」


 処置が終わると、ハルナは包帯の上から小さな護符を貼った。


 丸い文字で《早く治れ》と書いてある。


 シグレはそれを見て、少しだけ笑った。


「これ、効くの?」


「気持ちが効きます」


「なるほど。最強だ」


「最強です」


 ハルナは胸を張った。


 その時、店の呼び鈴が鳴る。


 からん。


 朝一番の客である。


「いらっしゃいませ!」


 ハルナが即座に営業スマイルへ切り替える。


 入ってきたのは、スーツ姿の会社員だった。目の下に濃い隈があり、手には古い東京の地図を持っている。帝都観光局が復刻販売している、死都化以前の東京二十三区地図だ。


「この地図、もう少し詳しいものはありますか」


 男は早口で言った。


「駅の出口が載っているものがいい。できれば地下通路も。丸ノ内線と大江戸線が乗り換えられる場所を確認したいんです」


 ハルナは一瞬、反応に困った。


「えっと……旧東京地図でしたら、観光用と学習資料用がありますけど」


「観光用じゃ駄目なんです。今朝、夢で見た駅がどこなのか確認したくて」


 シグレの動きが止まった。


 男は気づかず、地図を広げる。


「たぶん、新宿でした。いや、でも看板は都庁前だった気もする。ホームが暗くて、人が誰もいなくて、電車が来る音だけがして。アナウンスが、ずっと同じ駅名を繰り返していたんです」


「駅名を?」


 シグレが聞く。


 男は頷いた。


「でも、起きたら思い出せない。口にしようとすると、頭の中でノイズが走るんです。ざざっ、って。だから地図を見れば思い出せるかなと思って」


「その夢、いつから?」


「三日前です。最初はただの夢だと思いました。でも昨日から、昼間にも聞こえるようになって」


「何が?」


「電車です」


 店の外を、魔導バスが走っていく。


 静音化された車体の音は、ほとんど聞こえない。


 男はそれでも、遠くを見るような目をした。


「地下から、電車が来る音がするんです。ここはホウジュ区なのに。旧東京じゃないのに」


 店内の空気が少しだけ冷えた。


 ハルナがシグレを見る。


 シグレはカウンターから出て、地図の前に立った。


「お客さん、最近、影が薄くなったって言われない?」


 男は驚いた顔をした。


「……言われました。妻に。朝、鏡を見たら、顔色が悪いって。会社でも、存在感がないとか、すれ違っても気づかなかったとか」


「鏡は?」


「鏡?」


「鏡に、自分はちゃんと映る?」


 男は黙り込んだ。


 その沈黙が、答えだった。


 ハルナが小さく息を呑む。


 男は乾いた笑いを漏らした。


「やっぱり、変ですよね」


「変だねぇ」


 シグレはあっさり言った。


「でも、変だからって、すぐ死ぬとは限らないよ」


「死ぬんですか!?」


「すぐとは限らない」


「フォローになってません!」


 ハルナがシグレの脇腹をつついた。


「テンチョ、言い方」


「大丈夫。ちゃんと調べる」


 シグレは棚から小さな魔石を取り出した。透明な水晶のような石の中に、青い光が泳いでいる。ダウジング用の魔石だ。


 男の影の上にかざすと、魔石の光が一瞬だけ黒く濁った。


 シグレの胸が、ちくりと痛む。


 昨日と同じ痛み。


 ノイン。


 その名を思い出しかけて、シグレは無意識に眉を寄せた。


「テンチョ?」


「うん。大丈夫」


 シグレは男に紙片を渡した。そこには、簡易護符と時雨堂の連絡先が印刷されている。


「今夜、眠る前にこれを枕の下へ。夢の中で駅に着いても、改札を出ないこと。電車に乗らないこと。誰かに名前を呼ばれても返事しないこと」


「返事したら?」


「たぶん、向こうに持っていかれる」


 男の顔が青ざめた。


 ハルナが慌てて補足する。


「で、でも、テンチョが調べますから! あの、見た目は寝ぼけた人ですが、腕は確かです!」


「紹介がひどいなぁ」


「事実です」


 男は護符を握りしめ、何度も頭を下げて店を出ていった。


 呼び鈴が鳴り、扉が閉まる。


 店内に沈黙が落ちた。


 ハルナがぽつりと言う。


「昨日の事件と、関係ありますよね」


「たぶんね」


「死都東京の夢……」


「うん」


「テンチョ」


「なに?」


「また面倒なことになってます?」


 シグレはこたつの方を見た。


 朝の光を浴びたこたつは、とても平和そうだった。湯呑みもある。座布団もある。あと五分だけ横になれば、世界の問題などすべて遠ざかるような気がする。


 シグレは深く息を吐いた。


「なってるねぇ」


「寝ないでくださいね」


「まだ何も言ってないのに」


「顔が言ってました」


 ハルナは手早くカウンターの下から帳簿を取り出した。


「最近、似たようなお客さん、何人か来てます」


「帳簿につけてるの?」


「テンチョがつけないからです」


「ハルナちゃん、有能だねぇ」


「もっと早く気づいてください」


 帳簿には、来店客の簡単なメモが書かれていた。


 旧東京の地図を探す会社員。

 地下鉄の記念メダルを買った老女。

 存在しない駅名を口にした中学生。

 鏡に映る自分の影が遅れると言った女性。

 夢の中で「帰りたい」と言われた配達員。


 そして、その全員が、ここ一週間以内に来店している。


 シグレは帳簿を見ながら、眠そうな目を細めた。


「ホウジュ区だけで、これかぁ」


「帝都警察に知らせますか?」


「知らせても、たぶん『軽微な魔導睡眠障害』で処理されるよ」


「そんな雑な名前で?」


「帝都政府は不安になる名前を嫌うからね」


 その時、店の壁面モニターが自動で点灯した。


 午前十一時の定時ニュース。


 画面には、白と金を基調とした帝都政府広報の紋章が映る。続いて、整った声の女性アナウンサーが微笑んだ。


『帝都政府より、市民の皆様へお知らせです。昨夜、ホウジュ区第三倉庫街において発生した魔導事案は、帝都警察および関係機関の迅速な対応により、すでに収束しています』


「迅速な対応ねぇ」


 シグレがこたつに戻りかけながら呟く。


「テンチョが斬った件ですね」


「ボク、関係機関だったのかぁ」


『また、近日中に一部地域で報告されている睡眠時幻視、旧東京関連の夢、軽度の影像遅延について、帝都医療局は、季節性の魔導濃度変化による一過性の症状であり、過度な心配は不要であると発表しました』


 ハルナが顔をしかめた。


「もう発表してます」


「準備がいいねぇ」


『夢の中で旧東京の駅、施設、地名を見た場合でも、現実の死都東京と直接関係するものではありません。市民の皆様は、根拠のない噂に惑わされず、通常通りの生活をお送りください』


 画面が切り替わる。


 夢殿の白い塔。


 その前で祈りを捧げる信徒たち。


 女帝ヌルの金色の聖像。


『なお、明日は女帝ヌル陛下による月例祝福日です。ホウジュ区中央広場でも、女帝信仰会による公開祈祷が予定されています』


 画面の中で、人々が膝をついていた。


 白い衣をまとった司祭。

 制服姿の学生。

 子どもを抱く母親。

 会社員。

 老人。


 彼らは夢殿の方角へ向かって、女帝ヌルの名を祈っている。


 シグレは黙ってそれを見ていた。


 ハルナが言う。


「テンチョは、女帝様を信じてます?」


「信じるって、どういう意味?」


「神様として、です」


「うーん」


 シグレは湯呑みに手を伸ばした。空だった。ハルナがすぐにお茶を注ぐ。


「存在はしてるよね」


「そういう意味じゃありません」


「帝都を支配してる。魔導炉を動かしてる。死都東京を封じてる。ニュースにも出る。聖像も売れる。そういう意味では、そこらの神様よりずっと実在感があるんじゃないかなぁ」


「でも、祈ります?」


「ボクは祈るより寝たい」


「テンチョらしいです」


「ハルナちゃんは?」


 ハルナは少し考えた。


「わたしは……女帝様が神様かどうかは、よくわかりません。でも、この街があるのは女帝様のおかげだって言う人の気持ちは、少しわかります」


「うん」


「トキオ聖戦の後、何もかも壊れて、死都東京ができて、神奈川もめちゃくちゃだったって、学校で習いました。女帝様が来なければ、今の帝都はなかったって」


「そうだねぇ」


「でも」


 ハルナは、カウンターの上の小さなヌル聖像を見た。


 幼い少女の形をした、白と金の小像。


 守り神のようにも見える。

 支配者の記念品のようにも見える。


「怖いとも思います」


「どうして?」


「だって、本当に神様なら、人間のお願いなんて、ちゃんと聞いてくれるかわからないじゃないですか」


 シグレは少しだけ目を細めた。


「ハルナちゃん、たまに鋭いこと言うよねぇ」


「たまに、は余計です」


 呼び鈴が鳴った。


 今度は、少女が入ってきた。


 年は十二、三歳ほど。白いブラウスに紺のスカート。きちんと結ばれた髪。胸元には、女帝信仰会の小さな徽章がついている。


 少女は店に入ると、まっすぐ聖像の棚へ向かった。


「あの」


「はい、いらっしゃいませ」


 ハルナが応対する。


「女帝ヌル陛下の聖像、一番小さいものはありますか?」


「こちらですね。携帯用と、家庭祭壇用があります」


「家庭祭壇用をください」


「贈り物ですか?」


「おばあちゃんに」


 少女は真面目な顔で言った。


「明日の祝福日に、新しい聖像を置くんです。前のものは、少し欠けてしまったので」


 ハルナは棚から小さな箱を取り出した。


 白い箱。金の箔押し。中には、両手を軽く広げた少女姿の女帝ヌル像が収められている。顔は穏やかに作られているが、目だけがやけに深い。


 シグレは横から覗き込んだ。


「いい出来だねぇ」


 少女はシグレを見るなり、目を丸くした。


「あ……帝都の天使さん」


「違うよ。雑貨店の店長さんだよ」


「でも、お母さんが言ってました。夜のホウジュ区で怪異を退治する、すごく綺麗な人がいるって」


「お母さんに、夜更かし配信を見すぎないよう言っておいて」


「本物なんですか?」


「雑貨店の店長さんは本物」


「怪異を退治するのも?」


「副業で少し」


「天使なんですか?」


「朝に弱いから違うと思う」


 少女は少し笑った。


 ハルナが包装をしながら尋ねる。


「女帝様、お好きなんですか?」


「はい」


 少女は迷わず頷いた。


「女帝様は、帝都を守ってくださる方です。お父さんは、昔、結界外縁の事故で助けられました。おばあちゃんは、トキオ聖戦の後に避難してきた人で、女帝様がいなかったら、わたしたち家族はここにいなかったって言います」


 その声には、疑いがなかった。


 シグレは黙って聞いていた。


「学校では、女帝様を侵略者って言う子もいます。日本を占領しているって。お父さんも、政治の話になると難しい顔をします。でも、おばあちゃんは毎朝祈るんです。今日も夢殿の光が消えませんようにって」


「君も祈るの?」


「はい」


「何を?」


「明日も普通に起きられますように」


 シグレの表情が、ほんの少し変わった。


 少女は箱を大事そうに抱える。


「変ですか?」


「ううん」


 シグレは首を振った。


「すごく普通で、いい願いだと思う」


 少女はほっとしたように笑った。


 会計を済ませ、帰ろうとしたところで、ふと足を止める。


「あの」


「なに?」


「変なことを聞いてもいいですか?」


「この店で変じゃない質問の方が珍しいから大丈夫」


「最近、夢を見ます」


 ハルナの手が止まった。


 シグレは少女を見る。


「どんな夢?」


「東京の夢です」


 少女は聖像の箱を抱きしめた。


「わたし、東京なんて行ったことありません。結界の向こうで、入れない場所だって知ってます。でも夢の中では、わたし、駅にいるんです。暗いホームで、電車が来なくて、誰かが泣いていて」


「誰か?」


「女の人です。白い服を着た人。でも顔は見えません。眠っているみたいで、苦しそうで」


 シグレの胸の奥が、また痛んだ。


 昨夜の名が蘇る。


 ノイン。


「それで、黒い影が遠くにいるんです」


 少女の声が小さくなる。


「その影が、何か言うんです。でも、よく聞こえません。砂嵐みたいで、途中で切れちゃって」


「何か覚えてる?」


「……暗いって」


 少女は目を伏せた。


「ここは暗い。遠い。聞こえない。そんな感じでした」


 シグレは何も言わなかった。


 ハルナも、少女を不安にさせまいと黙っている。


 少女は慌てて笑った。


「あ、でも、女帝様にお祈りしたら大丈夫だと思います。おばあちゃんも、怖い夢を見たら女帝様の名を呼びなさいって言ってました」


「うん」


 シグレは棚から、小さな銀色の護符を取った。


「これ、おまけ」


「いいんですか?」


「うん。家庭祭壇用の聖像を買ってくれたから、サービス」


「ありがとうございます」


「眠る前に、枕の近くに置いて。夢の中で駅が出てきても、電車には乗らないこと。白い女の人に近づきすぎないこと。黒い影が話しかけてきても、返事はしないこと」


「返事、しちゃ駄目ですか?」


「電波が悪い相手に返事すると、変なところにつながるからねぇ」


 少女は意味がわからないまま、真剣に頷いた。


「わかりました。天使さん」


「店長さんね」


「はい、店長さん」


 少女は丁寧に頭を下げて、店を出ていった。


 扉の向こう、朝のホウジュ区の光の中へ、女帝ヌルの聖像を抱いて消えていく。


 ハルナが小さく呟いた。


「子どもにまで……」


「うん」


「テンチョ、これ、まずいですよね」


「まずいねぇ」


「なのに眠そうですね」


「眠いからねぇ」


「真面目に」


「真面目に眠い」


「テンチョ」


 シグレは、今度は笑わなかった。


 棚の上のヌル聖像を見た。小さな少女の形をした神。帝都を救ったと信じられている支配者。死都東京を封じた存在。市民の日常を守る遠い光。


 そして、その光の下で、何かが夢を通じて漏れ出している。


「クレハを呼ぼう」


「はい」


「あと、濃いお茶」


「それもはい」


「それと、こたつ」


「駄目です」


「厳しい」


 ハルナが通信端末を取った直後、店の奥から、がさり、と音がした。


 クレハがいた。


「呼ばれて来たぞ」


「まだ呼んでません!」


 ハルナが悲鳴に近い声を上げる。


 白衣の麗人クレハは、なぜか店の奥の古物棚の影から現れた。手には女帝信仰会の古い祈祷書と、ホウジュ区の睡眠障害報告書らしき束を持っている。


 シグレは半眼で言った。


「クレハ、不法侵入」


「失礼な。裏口から入った」


「もっと悪い」


「研究に必要だった」


「合法性は?」


「私の好奇心に比べれば小さい」


「大きく持ってほしいなぁ、合法性」


 ハルナが頭を抱えた。


「クレハ先生、いつからいたんですか」


「女帝聖像の携帯用と家庭祭壇用の違いを君が説明していたあたりからだ」


「ほぼ最初からじゃないですか!」


「実に興味深かった。信仰の商品化、都市統治と家庭祭壇の関係、そして市民の夢に浸透する死都残響。今日の時雨堂は講義一回分の価値がある」


「入場料を取ればよかった」


 シグレが呟く。


 クレハはカウンターに資料を広げた。


「冗談を言っている場合ではない。ホウジュ区で報告されている『死都東京の夢』は、君の店に来た客だけではない。帝都医療局の公開データ、警察相談記録、私の研究室へ届いた問い合わせを合わせると、ここ十日で三十七件ある」


「多いねぇ」


「しかも、中心はこの店から半径二キロ圏内だ」


「うち、原因?」


「原因か、観測点か、誘引点かは不明だ」


「嫌な候補しかない」


 クレハは楽しそうに笑った。


「そしてもっと嫌な話がある」


「今のより?」


「夢を見た者の一部に、影の希薄化が出ている。鏡像遅延、名前への反応低下、旧東京地名への執着。昨日の怪異事件の前段階とよく似ている」


 ハルナが顔をこわばらせた。


「放っておいたら、あの人たちも怪異になるんですか?」


「可能性はある」


「そんな……」


「ただし、全員ではない。夢との接続が深くなった者だけだ。おそらく夢の中で何らかの条件を満たしてしまうと、死都側へ影を引かれる」


「電車に乗るとか、改札を出るとか?」


 シグレが言う。


 クレハは頷いた。


「君の勘は相変わらずよく当たる。腹立たしいほどに」


「褒めてる?」


「研究者としては羨ましい」


「友人としては?」


「面倒だ」


「お互いさまだねぇ」


 クレハは旧東京地図を広げた。


 そこには赤い印がいくつもつけられている。新宿、東京、上野、品川、渋谷、池袋。かつて存在した巨大ターミナル駅の名。


 その地図の上に、現在のホウジュ区地図を重ねる。


 赤い印が、時雨堂を中心に歪んで集まっていく。


「夢に出る駅名は、ばらばらだ。だが、夢を見ている人間の現在位置は、この周辺に偏っている。そして昨夜、死都由来の怪異がこの近くで実体化した」


「結界の穴?」


「穴というより、薄くなっている場所だな。ヨムルンガルド結界の外層に、微細なゆらぎが発生している。そこへ死都東京側の残響が、夢という形で流れ込んでいる」


「帝都政府は?」


「知っているだろう。だが、発表は『季節性の魔導濃度変化』だ」


「便利な季節だねぇ」


 シグレはダウジング用の魔石を取り出した。


 魔石は、地図の上でかすかに震えている。


 その震えは、一定ではない。


 何かを探しているというより、何かに呼ばれている。


「夢の中に入る必要があるかな」


 シグレが言うと、ハルナが即座に反応した。


「駄目です」


「まだ説明してない」


「夢の中に入る、という時点でだいたい危ないです」


「正論だねぇ」


「正論です。テンチョは昨日も死にかけました」


「死にかけてないよ。ちょっと切られかけただけ」


「それを死にかけと言います」


 クレハが割って入る。


「安心したまえ、ハルナ君。いきなり完全潜行はさせない。まずは浅い夢層への同調実験だ」


「全然安心できません」


「被験者の身体はここに置いたまま、意識だけを夢の表層へ接続する。異常があれば、私が強制覚醒させる」


「クレハ先生が?」


「私が」


「不安しかありません」


「失敬な。過去の強制覚醒実験では、七割以上が無事だった」


「三割は!?」


「研究には犠牲がつきものだ」


「テンチョ、やめましょう」


 ハルナが真顔で言う。


 シグレはこたつを見た。


 こたつの上には、湯気の立つお茶。包帯を巻いた腕。朝の光。店の棚。ハルナの怒った顔。クレハの危険な好奇心。


 これが、彼の日常だった。


 女帝の都市でも、封印装置でも、死都東京の外縁でもない。


 シグレにとって帝都エデンは、ハルナがお茶を淹れ、こたつがあり、変な客が来て、クレハが勝手に裏口から入り、どうでもいい品物が棚に並ぶ場所だった。


 その日常に、死都の夢が侵入している。


 ならば、面倒でも放っておけない。


「行くよ」


「テンチョ」


「大丈夫。寝るだけなら得意だし」


「そういう問題じゃありません」


「帰ってくるよ。お茶、冷める前に」


 ハルナは何か言い返そうとして、言えなかった。


 代わりに、こたつ布団を整える。


「……ちゃんと戻ってきてください」


「うん」


「変な駅に行かない」


「うん」


「電車に乗らない」


「うん」


「知らない女の人について行かない」


「うん」


「クレハ先生の言うことを全部信用しない」


「それは最初から」


「シグレ、聞こえているぞ」


 クレハは不満げに言いながらも、準備を進めた。


 こたつの周囲に、簡易夢層接続陣が描かれる。魔導符、旧東京地図、夢を見た客が触れた品物の残留反応、ダウジング用魔石。さらにクレハが持ち込んだ怪しい計測器が三台。


 時雨堂のこたつは、十数分で帝都大学の危険実験室のようになった。


「うちの店、また変な方向に改装されてる」


「安心しろ。戻す時は爆発しないよう努力する」


「戻す時以外は?」


「努力目標だ」


「ハルナちゃん、消火器どこ?」


「もう持ってます」


 ハルナは本当に消火器を抱えていた。


 シグレはこたつに入る。いつものように見えるが、周囲には魔導陣が光り、額には小さな符が貼られている。


 クレハが端末を操作した。


「同調対象は、ホウジュ区周辺の集団夢層。死都由来の地名反応を検知したら、深追いせず戻れ」


「はいはい」


「声が聞こえても返事をするな」


「それはボクがさっき言ったやつ」


「だからこそ、君も守れ」


「説得力あるねぇ」


 ハルナがシグレの手を握った。


 細い指。


 温かい。


「テンチョ」


「なに?」


「帰ってきたら、ちゃんとお昼ご飯を食べてください」


「献立は?」


「卵雑炊です。胃に優しいので」


「いいねぇ」


「だから、帰ってきてください」


 シグレは目を閉じる前に、少し笑った。


「うん。ただいまの予約をしておくよ」


 クレハが接続陣を起動する。


 魔導光がこたつの周囲を流れ、店内の音が遠ざかっていく。


 ハルナの手の温もりだけが、最後まで残った。


 そして、シグレは夢へ落ちた。


 最初に聞こえたのは、電車の音だった。


 ごう、と空気を押し出す音。

 レールの軋み。

 遠くから近づき、近づいているのに、いつまでも到着しない音。


 目を開けると、そこは駅のホームだった。


 暗い。


 照明はついている。だが、光が弱い。蛍光灯の白が、古い紙のように黄ばんでいる。柱には駅名標がある。けれど、文字が読めない。読もうとすると、視界がざらつく。


 ざざっ。


 ノイズが走る。


 ホームには誰もいない。


 ベンチ。

 自動販売機。

 剥がれかけた広告。

 点滅する案内板。

 線路の向こうに広がる黒い壁。


 ここは東京だ。


 見たことがないのに、そう思った。


 死都東京。


 いや、正確には違う。


 これは死都東京そのものではない。死都に残った記憶が、帝都の夢に流れ込んで作った駅の形。かつて誰かが毎日通り、誰かが帰り、誰かが迷い、誰かが最後に見た場所。


 シグレはホームに立っていた。


 黒いコートはそのまま。ムラサメの柄も腰にある。だが、身体が少し軽い。夢だからか、それとも自分の影が薄くなっているのか。


『次は――』


 アナウンスが流れた。


『次は、■■■■』


 駅名だけが潰れる。


 シグレは口にしようとして、やめた。


「返事しない。読まない。乗らない。うん、覚えてる」


 自分に言い聞かせる。


 ホームの端に、白いものが見えた。


 少女だった。


 白い服を着た少女が、線路の向こう側、闇の中に横たわっている。


 眠っている。


 遠い。


 手を伸ばしても届かない距離にいるはずなのに、胸の奥だけが近すぎるほど痛んだ。


 白い少女の周囲には、鎖のようなものが見える。線路ではない。電線でもない。魔導式でもない。けれど、彼女をこの場所に縛りつけている。


 シグレは一歩踏み出しかけた。


 その瞬間、ハルナの声を思い出す。


 知らない女の人について行かない。


「……いや、ハルナちゃん。これは女の人というより、眠ってる子で」


 自分で言い訳してから、シグレは足を止めた。


「駄目だねぇ。こういうのがいちばん危ない」


 白い少女は動かない。


 顔は見えない。


 けれど、泣いているような気がした。


 ホームの奥で、黒い影が揺れた。


 人の形をしていない。


 闇そのものが、誰かの輪郭を真似ようとして失敗したような姿。輪郭はぶれ、声は途切れ、存在が安定していない。


 それは、遠くからシグレを見ていた。


 そして、ノイズ混じりに語りかけてきた。


『……聞こえる?』


 声は若いとも、老いているとも、男とも女ともつかなかった。


 ただ、ひどく遠い。


『こちらは、暗い。とても、遠い』


 シグレは答えない。


 答えてはいけない。


 影は気にせず続ける。


『声が、届かない。光が、遠い。門が、閉じている。眠りが、深い』


 ざざっ。


 影の輪郭が乱れる。


『ノ……』


 シグレの胸が鳴った。


『ノ、イ……』


 やめろ。


 誰に向けた言葉かわからないまま、シグレは奥歯を噛む。


 影の声が、さらに乱れる。


『シ……』


 白い少女の指が、わずかに動いた。


 シグレの視界が赤く揺れる。


 知らない記憶が混じる。


 剣を握る手。

 白い光。

 巨大な門。

 燃える空。

 誰かの声。

 母の声。

 女帝の声。

 そして、自分ではない誰かが、自分の名前ではない名で呼ばれる。


 影が、はっきりと告げた。


『シオン』


 ホームが崩れた。


 線路が黒い海になる。

 駅の柱が鎖になる。

 案内板が燃え落ちる。

 白い少女の身体が、遠ざかる。


 シグレは反射的に手を伸ばした。


 届かない。


 白い少女の唇が動いた。


 声は聞こえない。


 でも、その名前だけはわかった。


 シオン。


 その瞬間、遠くで誰かが叫んだ。


「テンチョ!」


 ハルナの声。


 シグレは目を開けた。


 こたつ。


 時雨堂。


 朝の光。


 魔導陣の焼けた匂い。


 ハルナが、泣きそうな顔でシグレの手を握っている。


 クレハは端末を片手に、珍しく余裕のない顔をしていた。


「強制覚醒した。反応が急に深層へ落ちたからだ」


「……何秒?」


 シグレの声はかすれていた。


「こちらでは四十一秒」


「夢では?」


「君の顔を見る限り、もっと長かったようだな」


 シグレは起き上がろうとして、失敗した。身体が重い。腕の傷が熱い。ムラサメの柄が、カウンターの上で青白く光っている。


 ハルナが支える。


「無理しないでください」


「うん……ただいま」


「おかえりなさい」


 その言葉を聞いて、シグレは少しだけ息を吐いた。


 帰ってきた。


 まだ、ここにいる。


 こたつがある。

 お茶がある。

 ハルナがいる。

 クレハが勝手に実験している。

 自分は、シグレだ。


 そう思ったはずなのに。


 口が、勝手に動いた。


「……シオン」


 店内の空気が止まった。


 ハルナが目を見開く。


「テンチョ、今……」


「え?」


「シオンって」


 シグレは自分の口元に手を当てた。


 言った。


 確かに、言った。


 だが、その名前を知らない。


 知らないのに、胸が痛い。

 知らないのに、懐かしい。

 知らないのに、呼ばなければならなかった気がする。


 クレハは何も言わず、端末の記録を巻き戻した。


 夢層接続時の波形。魔導濃度。死都残響。シグレの魂反応。ムラサメの共鳴値。


 その中に、一瞬だけ、古い形式の識別文字列が浮かんでいた。


 現代帝都の管理コードではない。


 もっと古い。

 夢殿由来の封印記録。

 ワルキューレ系列の識別子。


 クレハの表情から、いつもの皮肉が消えた。


「シグレ」


「なに?」


「君は、その名に覚えがあるのか」


「ないよ」


「本当に?」


「ない」


「では、なぜ泣きそうな顔をしている」


 シグレは答えられなかった。


 ハルナがそっと、温かいお茶を差し出した。


「テンチョ」


「うん」


「お昼ご飯、作ります。今日はもう寝ないでください。夢じゃなくて、ちゃんとこたつで休んでください」


「こたつで休むのは寝るのと違う?」


「違います。わたしが見張っていますから」


「厳しいなぁ」


「厳しいです」


 ハルナの声は少し震えていた。


 シグレは湯呑みを受け取る。


 お茶の熱が、指先に戻ってくる。


 それだけで、自分の輪郭が少し戻った気がした。


 クレハは資料をまとめ始めていた。


「私は大学へ戻る。調べるべきことができた」


「封印記録?」


「そうだ。夢層で検出された識別子は、通常の帝都警察や医療局のものではない。夢殿の古い封印記録に近い」


「夢殿って、女帝様の?」


 ハルナが聞く。


「行政中枢であり、結界制御施設であり、女帝の聖域でもある場所だ。一般の研究者が触れられる領域ではない」


「クレハは一般の研究者じゃないもんねぇ」


「もちろんだ。私は極めて優秀で、かつ問題の多い研究者だ」


「自覚あるんだ」


「あるとも」


 クレハは扉へ向かいかけ、ふと振り返った。


「シグレ。しばらくは夢を見るな」


「それ、どうやって?」


「寝るな」


「無茶言うなぁ」


「ならば、眠る時はハルナ君に見張ってもらえ」


「テンチョ、今日から見張ります」


「人権がない」


「睡眠中に死都東京へ行くよりましです」


「それはそう」


 クレハは少しだけ表情を緩めた。


「冗談ではなく、気をつけろ。君は夢の中で、呼ばれた。あれは偶然ではない」


「誰に?」


「それを調べる」


 今度こそ、クレハは店を出ていった。


 呼び鈴が鳴る。


 からん。


 朝の光の中へ、白衣の背中が消える。


 時雨堂には、シグレとハルナだけが残った。


 店の外では、ホウジュ区の日常が続いている。通勤客。観光客。女帝信仰会の街頭案内。魔導炉記念メダルを売る露店。死都東京の復刻地図を手にした少年。夢殿の方角へ祈る老女。


 シグレは、棚の上の女帝ヌル聖像を見た。


 小さな少女の形をした神は、何も語らない。


 だが、その背後に、眠る白い少女の姿が重なった。


 シオン。


 また、胸が痛んだ。


「テンチョ」


 ハルナが呼ぶ。


「顔、怖いです」


「ボクの美貌が?」


「そういう冗談を言えるなら、少し安心しました」


「ハルナちゃん、ボクの扱いに慣れすぎてるねぇ」


「店員ですから」


「世話係じゃなくて?」


「店員兼世話係です」


「大変だ」


「本当に大変です」


 ハルナはそう言って、奥の台所へ向かった。


「卵雑炊、作ります。お茶も淹れ直します。テンチョは、そこから動かないでください」


「はいはい」


「返事は一回」


「はい」


 シグレはこたつに座ったまま、湯呑みを両手で包んだ。


 眠気はある。


 だが、目を閉じるのが少し怖かった。


 夢の中で聞こえた声。


 ――こちらは、暗い。とても、遠い。


 それは助けを求める声だったのか。


 それとも、こちら側へ来ようとする声だったのか。


 わからない。


 ただ、一つだけわかる。


 帝都エデンの下で、何かが動いている。


 それはもう、夜の怪異事件だけではない。


 市民の夢に入り込み、女帝を信じる少女の眠りにも影を落とし、シグレの知らない名を呼び覚ますもの。


 死都東京は、遠い過去ではなかった。


 結界の向こうで、まだ息をしている。


 その夜。


 帝都大学、封鎖資料棟。


 クレハは一人、地下書庫にいた。


 一般学生は入れない。教授でも許可なく入れば処分対象となる。魔導災害資料、封印関連記録、帝都政府から提供された黒塗り文書、トキオ聖戦直後の映像媒体。そうした危険な資料が、低温保存と結界封鎖の中に並んでいる。


 クレハは端末に、シグレの夢層接続時に検出された識別子を入力した。


 照合。


 結果なし。


 さらに古い形式へ変換する。


 照合。


 結果なし。


「ふむ」


 クレハは笑った。


 楽しげではない。


 獲物を見つけた研究者の笑みだった。


「消されているな」


 彼女は検索対象を広げる。


 夢殿。

 封印楔。

 ワルキューレ。

 死都東京。

 タルタロス。

 シオン。


 最後の名前を入力した瞬間、端末が一瞬だけ停止した。


 画面に警告が出る。


《閲覧権限不足》


「帝都大学教授権限でも不足か。ますます面白い」


 クレハは別の認証キーを差し込んだ。正規のものではない。いつ、どこで手に入れたのかは、聞かない方がいい類の鍵である。


 端末が低く唸る。


 ロックが一段、外れた。


 古い封印記録の断片が開く。


 大半は黒塗りだった。


 だが、断片だけが残っている。


《ワルキューレ第■■位》

《個体名:■■■■》

《本名:シ■■》

《封印適性:極大》

《裁きの門接続承認》

《タルタロス封印楔》

《記録削除》

《永久欠番》


 クレハの指が止まった。


 黒塗りの隙間に、数字が一つだけ見えていた。


 第九位。


 クレハは、端末画面に顔を近づける。


 削除されたワルキューレ第九位。


 永久欠番。


 シグレが夢で口にした名。


 シオン。


「……なるほど」


 地下書庫の照明が、一瞬だけ揺れた。


 遠くで、電車の音がした。


 帝都大学の地下に、鉄道は通っていない。


 クレハは笑みを消した。


 端末画面の黒塗り部分が、ノイズのように震える。


 そして、消されたはずの一語が、ほんの一瞬だけ浮かび上がった。


《ノイン》


 次の瞬間、画面は真っ黒になった。


 地下書庫に、沈黙が戻る。


 クレハは椅子にもたれ、長く息を吐いた。


「シグレ。君は本当に、面倒なものに呼ばれているらしい」


 その声は、誰にも届かなかった。


 ただ、封鎖資料棟の奥で、古い記録だけが静かに眠っていた。


 帝都エデンの繁栄の下に埋められた、欠番の名前を抱いたまま。

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