第1話 帝都の天使
満月の夜、帝都エデンは眠らない。
旧横浜周辺を再編して造られたホウジュ区は、帝都でも屈指の商業区である。湾岸に面した高層ビル群は、夜になると魔導光の看板で極彩色に染まり、空中歩道を行き交う人々の影を青や紫に塗り替える。地上では無人配送車が滑るように走り、頭上では小型の魔導艇が広告文字を引きながら飛んでいく。
女帝ヌルが築いた魔導科学都市。
死都東京の喪失と引き換えに、神奈川全域を塗り替えて成立した新首都圏。
それが帝都エデンだった。
市民は、この街を便利な街だと言う。
企業は、この街を未来の市場だと言う。
帝都政府は、この街を人類と魔導の到達点だと言う。
女帝信仰の信徒たちは、この街を神の庭だと言う。
そして、裏社会と帝都警察と、怪異に巻き込まれた運の悪い人々は、こうも言う。
この街は、なにかを隠している。
ホウジュ区の裏通りに、その店はあった。
表通りの大規模商業複合施設から一本奥へ入った、古い赤煉瓦風の雑居ビル。その一階。看板には、くすんだ金色の文字で《時雨堂》と書かれている。ただし、店名に反して雨具専門店ではない。
入口脇には、女帝ヌルのミニチュア聖像。
棚には、用途不明の魔導歯車。
奥には、旧東京二十三区の復刻地図。
レジ横には「呪われていない保証つき」と札のついた中古鏡。
天井からは、誰が買うのかわからない蛇型の風鈴が吊るされていた。
雑貨店というには怪しすぎる。
骨董店というには雑すぎる。
魔導具店というには、店主のやる気がなさすぎる。
その店主は、カウンターの奥でこたつに入っていた。
「テンチョ」
ぱたぱたと足音を立てて、店の奥から少女が出てくる。眼鏡。ツインテール。なぜかメイド服。帝都エデンの最先端商業区にある雑貨店の店員としては、やや方向性が偏っているが、本人は気にしていない。
ハルナである。
「テンチョ。聞いてます?」
「聞いてるよぉ」
こたつの上に顎を乗せたまま、シグレは眠たげに答えた。
年齢は二十歳前後に見える。だが、彼を初めて見る者の多くは、年齢よりも先に、性別の判断に迷う。
白い肌。細い輪郭。夜の光を受けると銀にも見える髪。半分閉じたような目は、眠そうで、気だるげで、どこか遠い。少年にも見えるし、少女にも見える。天使にも見えるし、性格の悪い猫にも見える。
本人は、こたつから出る気配すらない。
「じゃあ、今わたしが何を言ったか、復唱してください」
「今日の晩ご飯は鍋がいいって話?」
「一文字も合ってません。お客さんです」
「えぇ……こんな時間に?」
「まだ午後七時です」
「夜じゃん」
「商業区の午後七時は、むしろ本番です」
「ボクの人生では閉店後だよぉ」
「勝手に人生を閉店しないでください」
ハルナは慣れた手つきでこたつ布団をめくり、シグレの足を軽く叩いた。
「ほら、出る。店長。店長です。お客さんの前では、せめて人間の形を保ってください」
「ハルナちゃん、ボクをなんだと思ってるの?」
「こたつに寄生する美形の怠惰生命体です」
「ひどい。概ね正確だけど、ひどい」
シグレは渋々こたつから出た。黒いロングコートを肩に羽織ると、ようやく店主らしき輪郭を取り戻す。
カウンターの前には、女子学生らしき二人組が立っていた。手にしているのは、女帝ヌルの小さな聖像と、旧東京の駅名が印刷された復刻キーホルダーである。
「これ、ください」
「はいはい。聖像と、旧新宿駅キーホルダーね」
「旧新宿って、本当にあったんですか?」
少女の一人が、好奇心を隠せない声で尋ねた。
シグレはレジを打ちながら、肩をすくめる。
「あったらしいよ。ボクは見たことないけど」
「死都東京って、今も結界の向こうにあるんですよね」
「あるねぇ。行かないほうがいいけど」
「行けないですよ。ヨムルンガルド結界があるし」
少女は笑った。学校の怪談を話すような軽さだった。
死都東京。
その言葉を、帝都の若者たちは半分だけ現実として扱う。授業で習う歴史。立入禁止区域。政府広報で映る結界の空撮映像。怪談系配信者が話す噂。トキオ聖戦を知らない世代にとって、それは近くて遠い禁域だった。
シグレは、キーホルダーを袋に入れる手を一瞬だけ止めた。
胸の奥が、針で突かれたように痛んだ。
理由はわからない。
「テンチョ?」
ハルナの声で、シグレは瞬きをした。
「ん……なんでもない。はい、ありがとう。聖像は落とすと祟るから気をつけてね」
「えっ、祟るんですか?」
「祟らないよ。たぶん」
「たぶん!?」
「女帝様も忙しいから、ミニチュア一個落としたくらいで怒らないんじゃないかなぁ」
その冗談に、少女たちは笑った。女帝を神として祀る家なら顔をしかめそうな軽口だが、ホウジュ区ではその程度の罰当たりも観光の味で済む。
客が帰ると、ハルナはじとっとした目でシグレを見た。
「テンチョ。今、また変な顔しました」
「ボク、いつも変な顔だよ」
「そういう意味じゃありません。死都東京の話が出ると、たまにぼーっとします」
「気のせいだよぉ」
「本当ですか?」
「うん。たぶん」
「テンチョの『たぶん』は信用できません」
ハルナがため息をついた、その時だった。
入口の呼び鈴が鳴った。
からん、と乾いた音。
入ってきたのは、白衣の麗人だった。
夜の雑貨店に白衣。
しかもその下は、黒いタイトスカートに高いヒール。長い髪を無造作に束ね、片手には魔導端末、もう片手には紙袋。紙袋からは、なぜか干し肉のようなものがはみ出している。
帝都大学教授、クレハ。
魔術、怪奇現象、妖物、キメラ、魔導科学――帝都における「危ない研究」の半分くらいに関わっていると言われる人物である。
「やあ、シグレ。相変わらず商売をする気のない顔をしているな」
「やあ、クレハ。相変わらず倫理審査を通らなそうな顔をしてるねぇ」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「そこは怒るところじゃない?」
「怒りは研究の精度を下げる。君と違って、私は理性的だからな」
「理性的な人は、夜の雑貨店に干し肉を持って来ないよ」
クレハは紙袋を持ち上げた。
「これは干し肉ではない。乾燥させた妖物の腱だ」
「もっと嫌だなぁ」
「テンチョ、店内で生物由来の危険物を広げないでください。クレハ先生もです」
ハルナが即座に抗議する。
クレハは涼しい顔で紙袋をカウンターに置いた。
「安心したまえ。まだ動くが、噛みはしない」
「まだ動くんですか!?」
「神経反射だ。生命とは何かを考えさせられるだろう?」
「考えた結果、持ち込まないでほしいです!」
ハルナが紙袋を遠ざける。袋の中で、かさり、と何かが動いた。
シグレは見なかったことにした。
「で、今日は何? 呪われた腱の卸売り?」
「仕事だ」
クレハの声が、少しだけ低くなった。
それだけで、店の空気が変わった。
ハルナも表情を引き締める。シグレは相変わらず眠そうだったが、目の奥だけがわずかに醒めた。
「帝都警察から、私の研究室に照会が来た。ホウジュ区第三倉庫街で発生した傷害致死事件だ」
「警察の仕事は警察がすればいいんじゃないかなぁ」
「普通の傷害致死ならな。だが、被害者の身体に残された切断面が、人間の刃物でも、一般的な魔導刃でも説明できない」
「じゃあ、クレハの実験体が逃げたんだね」
「失礼な。私の実験体なら、もっと美しい痕跡を残す」
「否定の方向が怖いんだけど」
クレハは魔導端末をカウンターに置いた。空中に半透明の映像が展開される。
倉庫街の路地。月光。警察の規制線。白いシート。床面に残った黒い染み。
映像は詳細をぼかしていた。それでも、起きたことの異様さは伝わる。
切られた、というより、紙細工のように分解されている。
ハルナが息を呑んだ。
「……ひどい」
「帝都警察は魔導犯罪として処理するつもりだ。だが、現場に残った魔気が妙だ」
「妙?」
シグレが目を細めた。
クレハは映像を拡大する。被害者の影が映っていた。街灯の下に伸びた、ごく普通の影。だが、その縁だけが不自然に滲んでいる。
黒ではない。
黒よりも深い、色のない穴。
「死都東京由来の魔気だ」
その言葉が落ちた瞬間、店の中で蛇型の風鈴が鳴った。
窓は閉まっている。空調も止まっている。
ちりん。
澄んだ音ではなかった。
遠い地下で鳴った鈴のように、湿っていた。
シグレは無意識に胸元を押さえた。
また、痛んだ。
「テンチョ?」
「……いや」
シグレは息を吐いた。
「ついてないなぁ」
「君の口からその台詞が出る時は、だいたい引き受ける時だ」
「引き受けるなんて言ってないよ」
「では断るのか?」
「断る理由を探してる」
「被害者が次に増えるかもしれない」
「う」
「帝都警察が雑に処理すれば、死都由来の残滓を見落とす」
「うう」
「現場はホウジュ区。君の店から魔導艇で八分だ」
「近いのがいちばん嫌だなぁ」
「それに、君のムラサメなら、残滓を斬れる可能性がある」
クレハの視線が、カウンターの内側へ向く。
そこには、一本の柄が置かれていた。
鞘も刃もない。ただの黒い柄。握りには古い雨雲のような文様が刻まれている。
魔導刀ムラサメ。
シグレがトラブルシューターとして夜の帝都を駆ける時の主武装である。
シグレは、その柄を見た。
見た瞬間、柄の文様がかすかに青白く灯った。
クレハの眉が動く。
「反応しているな」
「見なかったことにしよう」
「無理だ」
「ボク、今日はお店番だけしていたかったんだけどなぁ」
「テンチョ」
ハルナが、静かに言った。
シグレは振り向く。
ハルナは不安そうだった。だが、止める顔ではなかった。
「晩ご飯までには帰ってきてください」
「そこは『危ないから行かないで』じゃないんだ?」
「言っても行くでしょう」
「信用されてるなぁ」
「信用というか、諦めです」
「ひどい」
「でも」
ハルナは、こたつの上に畳まれていた黒いマフラーを取った。シグレの首に、慣れた手つきで巻く。
「寒いです。満月の夜は、ゆらめきが出やすいってニュースでも言ってました。ちゃんと帰ってきてください」
シグレは少しだけ目を細めた。
それから、いつもの気の抜けた声で言う。
「はいはい。お茶、残しておいてね」
「濃いめに淹れておきます」
「それは帰ってこいってこと? 寝るなってこと?」
「両方です」
シグレは笑った。
そして、ムラサメの柄を取った。
帝都エデンの夜は、月光と魔導光でできている。
ホウジュ区第三倉庫街は、表の商業区から港側へ下った場所にあった。観光客の目に触れる高層ビル群とは違い、そこには旧時代の倉庫を魔導改修した建物が並んでいる。壁には企業ロゴ。屋上には小型魔導炉。路地には排熱の蒸気。運河には、黒い水面を滑る無人貨物艇。
満月は、雲のない空に浮かんでいた。
だが、月の輪郭がわずかに揺れている。
ゆらめき。
ヨムルンガルド結界が不安定になった時、現実空間に現れる微細な歪み。市民向けのニュースでは「大気中魔導濃度の一時的偏り」と説明される。だが、裏の仕事をしている者たちは知っている。
あれは、死都の息だ。
規制線の前に、帝都警察の捜査員たちがいた。黒地に銀のラインが入った制服。腰には制式魔導銃。腕章には《帝都警察ホウジュ署》の文字。
その中の一人、中年の警部補が、シグレを見るなり嫌そうな顔をした。
「またお前か、シグレ」
「こんばんは、葛城さん。相変わらず眉間に帝都の治安を背負ってるねぇ」
「お前を見ると皺が増えるんだよ」
「ボクの美貌に嫉妬?」
「事件現場で寝言を言うな」
葛城警部補は、シグレとクレハを規制線の内側へ通した。クレハが帝都大学の照会許可を見せ、シグレはなぜか顔パスだった。
それだけ、この街でのシグレの仕事は知られている。
表向きには雑貨店店長。
裏では魔導事件専門のトラブルシューター。
夜の帝都を舞うように戦う姿からついた通称は――帝都の天使。
本人は、あまり気に入っていない。
「帝都の天使って最初に言い出した人、ちゃんと罰を受けてほしいなぁ」
「市民が勝手に呼んでいるだけだろう」
クレハが手袋をはめながら言う。
「中性的な美貌。黒いコート。夜間空中機動。魔導刀。あだ名がつく条件は十分だ」
「クレハが楽しそうで嫌だ」
「研究対象としては面白い」
「ボクは研究対象じゃないよ」
「今のところはな」
「今のところって言った?」
葛城が咳払いした。
「漫才は外でやれ。現場だ」
路地の奥。
白いシートはすでに撤去されていた。被害者の姿はない。だが、床面と壁面に残った痕跡が、事件の異常性を物語っていた。
切断痕がある。
金属の壁。路面の補強材。積まれたコンテナ。すべてが同じ角度で薄く裂かれていた。
それは刃物の跡ではない。
空間そのものに、見えない紙の折り目を入れたような傷だった。
シグレはしゃがみこむ。指先で路面に触れた。
冷たい。
冬の夜だからではない。
死体安置所の冷たさ。
古い地下鉄のホームの冷たさ。
誰も帰ってこない街の冷たさ。
知らないはずの匂いがした。
焦げた雨。
遠くで、電車の到着ベルが鳴った気がした。
――次は、■■■■。
「っ」
シグレは顔を上げた。
「どうした?」
葛城が問う。
「今、駅のアナウンスが聞こえた」
「ここは倉庫街だぞ」
「知ってる」
シグレは立ち上がり、ムラサメの柄を握った。
柄の文様が、先ほどより強く光っていた。青白い。だが、その縁に黒が混じっている。
クレハが端末を操作する。空中に魔導反応の波形が浮かぶ。
「やはり死都由来だ。しかも、単なる残滓ではない。何かがこちら側に引っかかっている」
「怪異か?」
葛城の声が固くなる。
「怪異と言うには、輪郭が薄い。魔導犯罪の産物と言うには、古すぎる。死都東京側の影が、ヨムルンガルド結界のゆらぎに乗って漏れてきた、と見るべきだろう」
「つまり?」
シグレが聞く。
クレハは楽しそうに笑った。
「帝都政府が発表したら、市民が少し不安になる程度にはまずい」
「クレハ基準だと、相当まずいやつだねぇ」
その時、路地の奥で警察官の一人が叫んだ。
「影が動いた!」
全員が振り向く。
倉庫の壁に伸びていた影が、月光と逆向きに揺れた。
人影だった。
だが、人はいない。
影だけが壁から剥がれ、路面へ落ちる。黒い紙片のように震えたそれは、ゆっくりと立ち上がった。
背が高い。手足が長い。頭部はあるが、顔はない。
輪郭が絶えず裂けている。布のように、紙のように、肉のように。見る角度によって形が変わる。
そして、その両腕の先には、細い刃が無数に生えていた。
「全員、下がれ!」
葛城が叫ぶ。
帝都警察の魔導銃が一斉に構えられる。銃口の魔法陣が点灯し、青い拘束弾が発射された。
弾は怪異に命中した。
いや、命中したはずだった。
拘束弾は怪異の身体をすり抜け、背後の壁に貼りついた。
怪異の腕が揺れる。
次の瞬間、路地の空気が裂けた。
見えない刃が、警察官たちの前に張られた簡易障壁を紙のように刻む。
「伏せて!」
シグレが跳んだ。
ロングコートが夜に広がる。
ムラサメの柄から、青白い光刃が伸びた。
刃は真っ直ぐではない。雨の線のように、わずかに揺らめきながら形を結ぶ。月光を浴びたそれは、刀であり、光であり、ひとすじの雨だった。
シグレは怪異と警察官のあいだに着地し、ムラサメを横に払った。
きぃん、と硬質な音。
見えない刃が弾かれ、倉庫の壁に斜めの傷を刻んだ。
「……はぁ」
シグレは小さく息を吐いた。
「ボク、今日はお茶飲んで寝る予定だったんだけどなぁ」
怪異が首を傾ける。
顔のない頭部の奥で、何かが笑った。
声ではない。
音でもない。
切り刻まれた記憶の断面が擦れ合うような、耳の奥に直接届くノイズ。
――かえ、る。
シグレの眉がわずかに寄る。
「どこへ?」
――かえ、る。
――とう、きょう。
――かえ、れ、ない。
怪異の身体が膨れ上がる。黒い影の中に、幾つもの細い線が走った。路線図のようだった。だが、駅名は読めない。読もうとすると、頭が痛む。
死都東京。
もう誰も普通には暮らせない場所。
結界の向こうに封じられた過去の墓場。
帝都エデンの繁栄の裏側。
怪異が腕を振り上げた。
シグレは踏み込む。
一歩目で、路面に魔導足場が咲いた。
二歩目で、身体が月光の中へ浮いた。
三歩目で、彼は怪異の懐に入っていた。
ムラサメが斜めに走る。
怪異の腕が一本、光に裂かれた。
だが、腕は落ちない。切断面から新しい刃が生える。
「再生するタイプかぁ。嫌いだなぁ」
「シグレ、中心核を探せ!」
クレハが後方から叫ぶ。彼女はすでに簡易解析陣を展開していた。白衣の裾が魔導風で揺れ、端末の周囲に数式と呪式が走る。
「輪郭ではなく、影の縫い目だ。そいつは人間の身体を真似ているが、本体は影に残った死都残滓だ!」
「簡単に言うと?」
「影を斬れ!」
「最初からそう言ってよぉ!」
怪異が床へ沈む。
次の瞬間、シグレの足元の影が刃になった。
シグレは跳び退く。黒い刃が靴底をかすめ、路面を十字に裂いた。
警察官たちが後退する。葛城が魔導盾を展開し、部下を守った。
「民間人に前を張らせる趣味はないんだがな!」
「ボクも警察に守られる善良な市民でいたかったよ」
「善良な市民は魔導刀を持ち歩かん!」
「雑貨店の商品だよ」
「嘘をつけ!」
軽口を交わす間にも、怪異は形を変えていた。
今度は、背中から無数の影の帯を伸ばす。それらは路地の壁、コンテナ、街灯、警察車両の影につながり、周囲の影すべてを刃に変えようとしていた。
満月の夜。
影はいくらでもある。
シグレはムラサメを逆手に持ち替えた。
柄が熱い。
ムラサメが震えている。
死都由来の魔気に反応しているのだと、頭ではわかる。だが、それだけではない気がした。
胸の奥で、知らない誰かが剣を握っている。
足の置き方。
呼吸。
視線。
刃を通す角度。
どこを斬れば、封じられたものがほどけるのか。
知っているはずがない。
けれど、身体が知っていた。
「……またか」
シグレは小さく呟いた。
怪異が全方位から刃を放つ。
警察官たちには見えない。クレハにも、解析陣越しでなければ追えない。
だが、シグレには見えた。
月光の中、黒い刃の軌跡が糸のように浮かぶ。
シグレは踏み込んだ。
その動きは、先ほどまでと違っていた。
眠たげで、気だるげで、どこか柔らかかった彼の剣が、一瞬で冷たくなる。無駄が消える。呼吸が静まる。目の奥から眠気が消え、代わりに人ではないほど澄んだ光が宿る。
ムラサメが、雨のように降った。
一閃。
二閃。
三閃。
影の刃がすべて、空中でほどける。
葛城が息を呑んだ。
クレハの目が細くなる。
「今の剣筋……」
シグレ自身には、その声が遠かった。
彼は怪異の懐へ入る。怪異の顔のない頭部が、ゆっくりとこちらを向く。
その胸――人間で言えば心臓の位置に、黒い縫い目があった。
影の中に縫い込まれた、古い記憶の結び目。
シグレはそこへ刃を通す。
「ごめんね」
自分でも、なぜ謝ったのかわからなかった。
「帰してあげられない」
ムラサメが縫い目を斬った。
怪異が音もなく裂けた。
黒い影が、月光の中で紙吹雪のように散る。刃も、腕も、顔のない頭部も、すべてがほどけていく。
その中心から、一瞬だけ人の形が現れた。
スーツ姿の男。
鞄を持っている。
顔は見えない。
だが、ひどく疲れているように見えた。
男は、シグレの方を見た。
――電車、遅れてるかな。
そんな、あまりにも日常的な声がした。
次の瞬間、その姿も消えた。
路地には、月光と、切り刻まれた影の残滓だけが残った。
誰もすぐには動かなかった。
やがて、葛城が深く息を吐く。
「……終わったのか」
「たぶん」
シグレはムラサメを下ろした。光刃が消え、柄だけになる。
「たぶん、で済ませるな」
「じゃあ、九割くらい」
「残り一割は?」
「クレハのせい」
「なぜ私だ」
クレハは不満げに言いながらも、残滓の採取を始めていた。小瓶に黒い煤のようなものを入れ、封印符を貼る。
「これは面白いな。死都東京の残滓に、ヨムルンガルド結界のゆらぎが絡んでいる。通常なら、こちら側でここまで形を持てないはずだ」
「面白くないよぉ」
「学術的には面白い」
「市民的には迷惑」
「その二つはしばしば両立する」
「してほしくないなぁ」
葛城が近づいてきた。
「シグレ」
「なに?」
「助かった。部下を切り刻まれずに済んだ」
「どういたしまして。請求書は警察宛でいい?」
「感謝を返せ」
「感謝と現金は別腹だよ」
「まったく……」
葛城は苦い顔をしたが、いつもの調子に戻っていた。現場の緊張が少しずつ解けていく。警察官たちは損傷箇所を確認し、規制線を張り直し、記録班が魔導カメラを回し始める。
シグレは一歩、路地の奥へ進んだ。
そこに、怪異の残滓がまだ少しだけ残っていた。
黒い煤ではない。薄い影。月光の下で、消えかけの煙のように揺れている。
ムラサメの柄が、また熱を持った。
シグレは眉を寄せる。
「まだ残ってる?」
影が、震えた。
耳鳴りがした。
遠い。
とても遠い。
地下よりも深く、海よりも暗く、死都東京のさらに向こう側から、誰かの声が届く。
――ノ、イ、ン。
シグレの呼吸が止まった。
その名を、彼は知らない。
知らないはずだった。
だが、その二音が胸に刺さった瞬間、身体の奥で何かが軋んだ。
ノイン。
懐かしい。
違う。
痛い。
違う。
誰かが、その名で呼ばれていた。
誰かが、その名で剣を取った。
誰かが、その名を捨てられなかった。
「……シグレ?」
クレハの声がした。
シグレは返事をしようとした。だが、声が出ない。
視界が一瞬だけ、別の場所へ落ちた。
燃える空。
白い剣。
巨大な門。
黒い海。
鎖。
眠る少女。
そして、光の中に立つ小さな女帝。
――ノイン。
もう一度、声がした。
今度は、呼びかけではなかった。
泣いているように聞こえた。
「っ……!」
シグレは膝をつきかけた。クレハが素早く肩を支える。
「おい、どうした」
「……なんでも、ない」
「なんでもない顔ではないぞ」
「ちょっと、胸が痛いだけ」
「魔気汚染か?」
「違うと思う」
「なぜわかる」
「わからないけど、違う」
シグレはゆっくり息を吐いた。
残滓はもう消えていた。
月は、何事もなかったかのように帝都の上に浮かんでいる。魔導看板の光。遠くの空中歩道。運河を滑る貨物艇。警察無線の声。クレハの端末音。葛城の部下を叱る声。
すべてが日常へ戻ろうとしていた。
けれど、シグレの胸には、知らない名前だけが残っている。
「ノイン……」
口に出した瞬間、ムラサメの柄がかすかに震えた。
クレハは、その反応を見逃さなかった。
「今、何と言った?」
「……わからない」
「わからない?」
「ボクにも、聞こえただけ」
「誰の声だ」
「知らない」
シグレは月を見上げた。
月の輪郭が、また揺れている。
「でも、たぶん」
彼は、いつもの眠そうな声で言おうとした。
だが、少しだけ声が低くなった。
「ボクに関係あるんだと思う」
クレハは黙った。
研究者としての好奇心。友人としての懸念。その二つが、彼女の目の奥でぶつかっている。
やがて、彼女は端末を閉じた。
「今夜の件は、私の方でも調べる。死都由来の魔気、ヨムルンガルド結界のゆらぎ、そしてノインという名」
「最後のは忘れてくれると嬉しいなぁ」
「無理だ」
「だよねぇ」
「君も覚えておけ。こういう時、忘れようとした名ほど、後で首を絞める」
「嫌な助言だなぁ」
「正確な助言だ」
葛城が戻ってきた。
「シグレ、今日は帰れ。顔色が悪い」
「葛城さんが優しい。明日は雪かな」
「減らず口が叩けるなら平気だな」
「ひどい」
「請求書は署に回せ。ただし、妙な項目を入れるなよ」
「精神的苦痛代」
「却下」
「こたつから出た手当」
「却下」
「夜間美貌維持費」
「逮捕するぞ」
シグレは軽く笑った。
笑えたことに、自分で少し安心する。
それでも、胸の奥の痛みは消えなかった。
ホウジュ区の夜風が、黒いマフラーを揺らす。
遠く、死都東京の方角で、空が一瞬だけ暗く見えた。
シグレはそれを見た。
見てしまった。
帝都エデンの光の向こうに、巨大な影がある。
そんな当たり前のことを、今夜初めて思い出したような気がした。
その頃。
帝都エデン中枢、アツギ中枢区。
夢殿。
厚木基地跡地に築かれた帝都政府の行政中枢であり、魔導炉制御施設であり、ヨムルンガルド結界の監視装置であり、女帝ヌルの眠る神殿でもあるその場所は、夜であっても光を失わない。
白い塔。
金色の回廊。
地下へ伸びる封印管制層。
空中に浮かぶ数万の魔導式。
絶えず脈動する結界観測装置。
その最深部に、眠りの座があった。
巨大な花のような装置。
祈りの祭壇にも、生命維持装置にも、棺にも見える。
そこに、一人の少女が眠っている。
小柄な身体。
白い肌。
閉じた瞳。
人間ならば守られるべき年頃に見える姿。
だが、その周囲を巡る魔導式は、帝都全域の結界と接続されていた。死都東京、裁きの門、タルタロス、魔導炉、ヴァルハラ宮殿――そのすべてへ、光の血管のように伸びている。
女帝ヌルの本体。
帝都の眠れる神。
装置の周囲で、観測盤が一瞬だけ赤く点滅した。
通常ならば、誰も気づかないほど短い異常値。
だが、そこにいた女は見逃さなかった。
長い髪を静かに揺らし、侍女のように、護衛のように、祈る者のように眠りの座のそばに立つワルキューレ。
第七位、ズィーベン。
彼女は観測盤へ視線を向ける。
表示された異常波形は、すぐに平常値へ戻った。
だが、消える直前、そこには古い識別名が浮かんでいた。
永久欠番。
第九位。
封印楔。
残響検出。
ズィーベンの指先が、わずかに止まる。
眠りの座の中で、ヌル本体のまつげがほんの少し震えた。
夢を見ているように。
あるいは、遠い痛みを思い出したように。
ズィーベンは低く呟いた。
「ノインの残響……?」
その声は、広い聖域に溶けて消えた。
夢殿の外では、帝都エデンの夜景が輝いている。
ホウジュ区の看板も、カミハラ区の研究塔も、アツギ中枢区の宮殿も、すべてが魔導光に包まれている。
市民は明日も目覚め、仕事へ行き、学校へ行き、店を開け、女帝のニュースを聞き、死都東京のことを遠い過去として語るだろう。
帝都はまだ、何も知らない。
その足元で、封印の蛇が身じろぎしたことを。
満月の夜、ホウジュ区の雑貨店店長が、知らない名に胸を刺されたことを。
そして、帝都の天使の中で、欠番となった第九位の残響が、ほんの少しだけ目を覚ましたことを。




