第16話 封印再構成
タルタロス最深部には、朝がない。
空がないからだ。
夜もない。
時間も、ここでは人間の知る形をしていない。
あるのは、硫酸の海が泡立つ音と、溶岩の山が凍土を焼きながら崩れる音と、死者の声と、鎖の軋みと、邪柩の鼓動だけだった。
黒い柩が、世界の底で鳴っている。
邪柩。
タルタロス最深部に置かれた、闇の子の封印装置。
そして、シオン=ノインを人柱として縫い止める柩。
その前に、シグレたちは立っていた。
シグレはムラサメを握っている。刃は青白く、だが今までのように鋭く伸びてはいない。斬るための光というより、何かをほどくための細い糸のようだった。
マナはアリスの隣にいる。短杖を構え、片手でアリスの肩を支え、もう片方の手で防御術式を維持している。金色の術式陣は何重にも展開されているが、タルタロスの圧に押され、端から黒く焦げていく。
アリスは胸元に両手を当てていた。
そこに浮かぶ蛇の円環は、もう単なる紋様ではなかった。薄い青と白の光で回転し、内側に無数の文字列を抱えている。シオンの名。ノインの欠番。タルタロス封印履歴。ヨムルンガルド結界の蛇紋。夢殿の深層記録。女帝ヌルの承認印。セーフィエルの異議記録。消されたはずの言葉が、アリスの胸の奥で次々と復元されていく。
セーフィエルは邪柩へ向かって膝をついていた。
血で濡れた手を伸ばしている。
その先に、シオンがいる。
鎖につながれ、長い眠りから目を開けた少女。
彼女の身体はまだ邪柩に縫い止められている。胸の中心から黒い鎖が伸び、背中から白い光の糸が伸び、足元からタルタロスの闇が絡みついている。だが、もう完全な人柱ではない。目が開いている。声がある。母を見ている。
「シオン……」
セーフィエルの声は、かすれていた。
泣きすぎた人の声だった。
シオンは微かに笑った。
だが、その笑みは長く続かない。邪柩が脈打つたび、彼女の身体が震える。鎖が食い込み、白い装束に黒い亀裂が走る。
闇の子が、奥で暴れていた。
『ヌルを返せ』
今度の声は、ノイズではなかった。
完全に明瞭でもない。途切れは残る。音の端はまだざらつき、言葉の途中に黒い波のような揺らぎが混じる。それでも、以前のような接続不良の神託ではなかった。
意味がある。
意志がある。
痛みがある。
『シオンを返せ』
『わたしを、わたしに戻せ』
『ひとつに』
『ひとつに』
『ひとつに』
邪柩の表面に、黒い手形が浮かぶ。
内側から、誰かが叩いている。
いや、誰かではない。
闇の子だ。
ヌルの半身。
タルタロスの底へ封じられた神格。
光の子から分かたれ、都市の外へ押し込められた闇。
痛みと喪失と回帰を抱えた、世界にとって危険すぎる存在。
その手は、同時にいくつものものへ伸びていた。
ヌルへ。
自分と同じ根から分かれた光へ。
シオンへ。
自分を封じる楔であり、自分と同じように痛みの中へ縫い止められた少女へ。
アリスへ。
自分の声を初めて「ノイズ」ではなく「記録」として受け止め始めた機械人形へ。
そして、シグレへ。
自分に返事をしてしまった人間。
ノインではないのに、ノインの残響を持つ者。
シオンではないのに、シオンの痛みを知ってしまった者。
『シグレ』
闇の子が呼んだ。
シグレの胸が、強く痛む。
ムラサメの刃が震える。
「……聞こえてるよ」
マナが即座に振り向く。
「返事しない!」
「もう呼ばれてるし」
「そういう問題じゃない!」
「うん。ごめん」
謝りながら、シグレは邪柩から目を離さなかった。
闇の子の声を無視すれば、安全かもしれない。
けれど、無視して封じ続けた結果が、今の帝都だ。
シオン一人が楔になり、ヌルは眠り、セーフィエルは娘を取り戻すために帝都を壊しかけ、アリスは誰かの再現として作られ、シグレはノインの残響に引き寄せられてここまで来た。
聞こえないふりでは、もう終わらない。
シグレは、闇の子へ向けて言った。
「君を完全に外へ出すことはできない」
邪柩が大きく震えた。
『いや』
『いや』
『くらい』
『いたい』
『ヌルを返せ』
『シオンを返せ』
「わかってる」
シグレは低く答える。
「暗いのも、痛いのも、わかる。全部わかるなんて言わないけど、少しはわかる。でも、君がそのまま現世へ出たら、帝都が壊れる。ホウジュ区も、カミハラ区も、時雨堂も、ハルナちゃんも、みんな巻き込まれる」
『なら』
『また閉じるのか』
『また消すのか』
『また、声を、ノイズに』
「違う」
シグレは首を振った。
「閉じる。でも、消さない。聞く。でも、全部は通さない。君を外へ出さない。でも、君がいたことをなかったことにはしない」
マナが息を呑む。
セーフィエルが顔を上げる。
アリスの胸元の円環が、強く光る。
シグレは、自分の中で言葉を組み立てた。
神の言葉ではない。
魔導理論の完全な定式でもない。
けれど、今ここで決めなければならない。
封印を、どう変えるのか。
「シオンを、邪柩の楔から外す」
シグレは言った。
シオンの瞳が揺れる。
セーフィエルの肩が震えた。
「シオン一人に集まっている封印の重さをほどく。全部を誰かに移すんじゃない。ボクが代わりに眠るわけでもない。アリスちゃんを楔にするわけでもない」
アリスが静かにシグレを見る。
「私を、楔にしない」
「うん」
「代替人柱にしない」
「しない」
「記録しました」
「今のは、していい記録だねぇ」
シグレは少しだけ笑い、すぐに表情を引き締めた。
「シオンの存在記録は、アリスちゃんが保持する」
マナが硬直する。
「待って」
シグレは続ける。
「ノインの残響は、ボクが一時的に受け止める。ムラサメで門の座標暴走を押さえる。ヨムルンガルド結界は、人柱依存型から都市分散型へ切り替える。ヌルの光で外枠を支える。闇の子の思念は、完全遮断じゃなくて、観測できる深層へ落とす」
言葉にすると、無茶だった。
神の封印を人間が組み替える。
タルタロスの邪柩からシオンの魂を外し、闇の子の完全覚醒を防ぎ、ヌル本体を壊さず、帝都全域へ負荷を分散し、アリスの記録回路へ消された存在を保持させる。
成功する保証はない。
むしろ失敗する方が自然だった。
だが、今ある選択肢の中で、シオンを見捨てず、帝都を壊さず、アリスを身代わりにせず、闇の子をただ消さない方法は、それしかなかった。
セーフィエルが、かすれた声で言う。
「そんなこと、できるの」
「できるかどうかは、わからない」
シグレは正直に答えた。
「でも、シオン一人に押しつけるよりはいい」
セーフィエルは笑った。
泣きながら、怒りながら、祈るように笑った。
「あなた、本当にひどい子ね」
「よく言われる」
「娘を取り戻せるかもしれないと思って、ここまで来たのに」
「うん」
「あなたは、娘を眠らせるための方法を選べと言うのね」
「……うん」
セーフィエルの唇が震える。
彼女はシオンを見る。
シオンは母を見ている。
その目は、帰りたいと言っている。
同時に、もう帰れないことも知っている。
セーフィエルは、血に濡れた手で顔を覆った。
「本当に、残酷」
「ごめん」
「謝らないで。謝られたら、あなたを責められなくなる」
「責めていいよ」
「責めたら、シオンが怒るわ」
セーフィエルは泣いた。
それでも、邪柩へ向けて術式を伸ばす。
血の赤い糸が、シオンの鎖へ絡む。
「……わかったわ。私は、シオンの魂を楔から外す術式を補助する。邪柩の母系認証は、私の血で開く」
マナが叫ぶ。
「セーフィエル!」
「何」
「アリスを使うつもりなら、今ここであなたを止める」
セーフィエルは、アリスを見た。
長い沈黙。
彼女の目には、シオンへの執着と、アリスへの悔恨と、魔導技術者としての冷たい計算が同時にあった。
やがて、セーフィエルは首を振った。
「アリスを楔にはしない」
「信用できない」
「信用しなくていいわ。見張っていなさい」
「もちろん」
マナは短杖を握り直した。
その手が震えている。
怒りだけではない。恐怖だ。
アリスが、自分の意思で危険な役割を選ぼうとしていることへの恐怖。
アリスは、マナの手にそっと触れた。
「マナ様」
「駄目」
マナは即答した。
「まだ何も言っていません」
「言う前からわかる。駄目」
「判断が早いです」
「あなたがそういう顔をしてるからよ!」
アリスは瞬きした。
「私は、顔に出ていますか」
「出てる」
「学習しました」
「学習しないで! 今はそういう場面じゃない!」
いつもの掛け合いの形をしている。
だが、マナの声は震えていた。
アリスは、胸元に浮かぶ円環へ視線を落とす。
光が回っている。
そこには、今まで消されてきた記録が流れ込んでいる。シオンがいたこと。ノインが欠番にされたこと。セーフィエルの異議が削除されたこと。ヌルが承認したこと。闇の子が痛いと叫んでいたこと。D∴C∴がその声を誤読したこと。シグレがシグレとして選んだこと。
それらを、アリスの中の未知回路が受け取ろうとしている。
マナには、それが怖かった。
アリスが便利な装置として扱われることが。
誰かの娘の代わり、誰かの楔の代わり、誰かの記録装置として、また「アリス自身」ではない役割を押しつけられることが。
「アリス、それ以上やったら壊れる!」
マナの叫びが、邪柩の前で響いた。
死者の声が一瞬だけ止まったように感じられた。
アリスは、マナを見た。
その瞳は静かだった。
だが、静かすぎて、マナには余計に痛かった。
「壊れたくありません」
マナが息を止めた。
アリスは続ける。
「私は、壊れたいわけではありません。人柱にもなりたくありません。楔にもなりたくありません。シオンの代わりに眠ることも望みません」
「じゃあ、やめて」
マナの声が小さくなる。
「お願い。やめて。あなたがそんなふうに自分を使う必要なんてない。シオンのことも、闇の子のことも、ヌルのことも、帝都のことも、あなた一人が背負わなくていい」
「はい」
「だったら」
「背負いません」
アリスは言った。
マナが顔を上げる。
「記録します」
その言葉は、静かだった。
だが、タルタロスの底で、はっきりと響いた。
「何も記録されなければ、また誰かが消されます。シオンがいたことも、闇の子が痛かったことも、ヌルが選んだことも、セーフィエルが泣いたことも、シグレがシグレとして選んだことも、消されます」
アリスの胸元の円環が、さらに開く。
光が内側へ向かって広がっていく。
「私は、それを保持します」
「そんなの、あなたが背負わなくていい!」
マナの目から涙が落ちた。
アリスは、その涙を見た。
「背負いません。記録します」
「同じじゃない!」
「違います」
アリスの声は、珍しく強かった。
「背負うとは、私が代わりに苦しむことです。楔になることです。人柱になることです。私の人格を停止し、封印維持の部品になることです」
彼女は、自分の胸に手を置いた。
「記録するとは、何があったかを消さないことです。誰かの痛みを、なかったことにしないことです。私がアリスであるまま、覚えていることです」
マナは、何も言えなくなった。
アリスは、さらに続ける。
「マナ様は、私をアリスだと言いました」
「言った」
「シグレも、私は私だと言いました」
「うん」
「セーフィエルも、私は失敗作ではないと言いました」
セーフィエルが目を伏せる。
「はい」
「なら、私はアリスとして選びます。誰かの再現ではなく、誰かの代替品ではなく、封印の部品でもなく、記録者として」
マナは、アリスの手を握った。
強く。
壊さないように、でも離さないように。
「戻ってきなさい」
「はい」
「機能停止しても、絶対戻ってきなさい」
「努力します」
「努力じゃなくて約束!」
「約束します」
「本当に?」
「はい。約束、記録しました」
マナは泣きながら笑った。
「こういう時だけ、記録って言葉が少し嫌い」
「申し訳ありません」
「謝らないで。怒るから」
「はい」
シグレは二人を見ていた。
胸が痛む。
でも、その痛みはシオンだけのものではなかった。
アリスの選択。
マナの恐怖。
セーフィエルの涙。
ヌルの光。
闇の子の声。
全部がここにある。
誰か一人に押しつけるには、多すぎる。
シグレはムラサメを構えた。
「始めよう」
邪柩が震える。
闇の子の声が荒くなる。
『いや』
『外へ』
『ヌルを返せ』
『シオンを返せ』
『わたしを、わたしに戻せ』
「戻すんじゃない」
シグレは言う。
「変えるんだ」
セーフィエルが血の術式を展開する。
赤い糸が邪柩の母系認証へ触れる。
シオンの鎖の一部が、わずかに緩む。
シオンが苦しげに息を吐いた。
「っ……」
「シオン!」
セーフィエルが叫ぶ。
シオンは、母へ微かに首を振る。
「大丈夫……では、ないけど……まだ、いける」
「そういうところ、本当に嫌いよ……!」
「母さんに、似たの」
セーフィエルは泣きながら笑った。
アリスが記録回路を開く。
彼女の背後に、薄い光の書架のようなものが立ち上がった。魔導文字でできた棚。そこに、消された記録が一行ずつ刻まれていく。
《シオン》
《ワルキューレ第九位ノイン》
《セーフィエルの娘》
《タルタロス封印楔》
《人柱状態解除処理中》
《消去禁止》
《存在記録保持》
マナがアリスを支える。
金色の防御術式が、アリスの周囲に重なる。
だが、記録圧は防げない。
アリスの身体が震え、瞳の光が乱れる。
「アリス!」
「記録圧、上昇。人格領域への干渉、発生。ですが、継続可能です」
「無理なら止める!」
「無理です」
「じゃあ止める!」
「無理ですが、止めません」
「アリス!」
「私は、アリスです」
その一言で、マナは歯を食いしばった。
シグレは、ムラサメの刃を邪柩へ向ける。
斬るのではない。
壊すのではない。
ほどく。
シオンの魂へ食い込んでいた楔の負荷を、一本ずつ外していく。
最初の鎖に触れた瞬間、シグレの中へ痛みが流れ込んだ。
シオンの痛み。
長い長い時間、タルタロスの底で闇の子を押さえ続けた痛み。
母に会いたかった痛み。
帝都を守りたかった誇り。
ヌルを許せなかった怒り。
それでも自分が逃げれば誰かが壊れると知っていた恐怖。
シグレの膝が折れかける。
「っ……!」
マナが叫ぶ。
「シグレ!」
「大丈夫……じゃないけど、大丈夫」
「どっち!」
「今は後者で」
シグレは無理に笑う。
「ボクは、シオンじゃない」
ムラサメの刃が、青白く震える。
「ノインでもない」
鎖の一本が、音を立てて緩む。
「でも、彼女が痛かったことは、なかったことにしない」
闇の子が叫ぶ。
『痛い』
『痛い』
『わたしも』
『ここに』
「君も」
シグレは息を吐く。
「君が痛かったことも、なかったことにしない」
その瞬間、闇の子の声がわずかに揺らいだ。
暴れる力が消えたわけではない。
だが、叫びの中に、ほんの少しだけ別のものが混じった。
聞かれている。
そう理解したような揺らぎだった。
門の外から、闘神ヌルの光が差し込む。
白い光は、邪柩の外枠を押さえる。焼くためではない。崩壊を止めるために。
ヌルの声が届いた。
『シグレ。長くは持たないよ』
「わかってる」
『アリスの記録核も限界が近い』
「それも、たぶん」
『たぶん禁止、って魔導士の子が言ってたんじゃない?』
マナが怒鳴る。
「今それ言う場面!?」
ヌルが少しだけ笑った気配がした。
『人の子たちは、緊張している時ほどくだらないことを言うんでしょう?』
「女帝様まで学習しないで!」
ほんの一瞬だけ、タルタロス最深部に妙な間が生まれた。
その間が、全員を少しだけ現実へつなぎ止める。
シグレは、ムラサメを持ち直した。
「いくよ」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
シオンに。
アリスに。
マナに。
セーフィエルに。
ヌルに。
闇の子に。
そして、自分に。
ムラサメの刃が、邪柩の中心へ触れる。
アリスの記録回路が完全に開く。
セーフィエルの血の術式が、シオンの鎖へ絡む。
ヌルの光が外枠を支える。
ヨムルンガルド結界の蛇紋が、タルタロスの闇の中へ細く伸びる。
旧構造が軋む。
シオン一人に集中していた封印負荷が、初めて動き始める。
邪柩が轟いた。
タルタロスの硫酸の海が波立つ。
溶岩の山が崩れ、凍土の大地に亀裂が走る。
死者の声が、一斉に叫ぶ。
闇の子が、泣くように笑うように叫んだ。
『わたしを』
『わたしに』
『戻せ』
シグレは、歯を食いしばって言った。
「戻すんじゃない」
青白い刃が、鎖をほどく。
「君がいたことを、消さない形に変える」
アリスの瞳から、涙のような光がこぼれた。
「記録、開始します」
マナが彼女を支えた。
「戻ってきなさい、アリス」
「はい」
アリスは、震える声で答えた。
「私は、アリスです」
その言葉を最後の鍵にして、封印再構成が本格的に始まった。




