第17話 セーフィエルとシオン
封印再構成が始まった瞬間、邪柩の内側で世界が反転した。
タルタロス最深部に響いていた硫酸の海の音が遠ざかる。溶岩の山が崩れる音も、凍土が裂ける音も、死者たちの声も、闇の子の叫びも、すべてが水の底へ沈んでいく。
代わりに、風が吹いた。
ありえない風だった。
タルタロスには空がない。風もない。季節もない。花の匂いなど、あるはずがない。
それなのに、セーフィエルは花の匂いを感じた。
白い花。
月明かりに似た、淡い匂い。
彼女は顔を上げた。
そこは、邪柩の内側だった。
けれど、黒い柩の内壁はなかった。鎖もない。闇の子の声も遠い。代わりに広がっていたのは、小さな庭だった。
白い花が咲いている。
背の低い草が揺れている。
遠くには、まだ建設途中の白い塔が見えた。夢殿ではない。ヴァルハラ宮殿でもない。もっと古い、帝都が帝都になる前の、計画図の中にしかなかったような塔。
空は薄い金色をしていた。
朝焼けにも、夕焼けにも見える。
だが、太陽はない。
ここは現実ではない。
封印再構成の途中、シオンの魂と、セーフィエルの血と、邪柩に刻まれた記録が一瞬だけ重なって生まれた精神領域だった。
セーフィエルは、自分の手を見た。
血に濡れていない。
タルタロスで裂けた袖も、焦げた指先も、術式で焼けた皮膚もない。そこにあるのは、ずっと昔の、まだ娘の髪を梳いていた頃の手だった。
「……」
声が出ない。
彼女は、庭の中央を見た。
白い花の向こうに、少女が立っていた。
シオン。
ワルキューレ第九位ノインではない。
タルタロス封印の楔でもない。
邪柩に縫い止められた人柱でもない。
ただの、シオンだった。
白い服を着ている。ワルキューレの礼装よりも簡素で、戦いのための装束ではない。髪は少し乱れている。昔からそうだった。訓練の後も、書類仕事の後も、眠る前も、彼女は髪を整えるのが苦手だった。
セーフィエルは一歩踏み出した。
足元の花が揺れる。
シオンは、母を見ていた。
笑っていた。
泣きそうに、でも、安心したように。
「母さん」
その一言で、セーフィエルの胸が壊れた。
「シオン」
彼女は走った。
魔女としての気品も、危険魔導士としての警戒も、セーフィエルという名に積み重ねてきた冷静さも、全部捨てて走った。
手を伸ばす。
娘へ。
ずっと伸ばし続けていた手。
夢殿の記録から消されても。
ワルキューレの欠番にされても。
タルタロスの底に閉じ込められても。
帝都政府に追われても。
アリスを作っても。
裁きの門を開いても。
帝都を危機に晒しても。
ずっと伸ばしていた手。
その手が、シオンの肩へ届く直前で止まった。
触れられなかった。
指先は、シオンの輪郭をすり抜けた。
水面に触れたような感触だけが残り、シオンの姿が淡く揺れる。
セーフィエルは硬直した。
もう一度、手を伸ばす。
触れられない。
何度も。
何度も。
指先は、娘の頬を通り抜ける。
髪に触れることも、肩を抱くことも、額にキスすることもできない。
「……嘘」
セーフィエルの声が震えた。
「そんなの、嘘よ」
シオンは悲しそうに笑った。
「母さん」
「待って。待って、シオン。まだ術式が安定していないだけよ。封印再構成の途中だから、干渉位相がずれているの。大丈夫。母さんが直す。あなたの魂の輪郭を固定して、母体認証を通して、仮の器を――」
「母さん」
シオンは、もう一度呼んだ。
その声は、優しかった。
優しいから、セーフィエルは言葉を失った。
「シオン、帰りましょう」
セーフィエルは、それでも言った。
「今度こそ、母さんが連れて帰る」
シオンは、静かに首を振った。
「母さん。わたしは、もう帰れない」
世界が止まった。
白い花が揺れる。
遠くの塔が、霞む。
セーフィエルの表情が、ゆっくりと崩れていく。
「……何を言っているの」
「わたしは、もう帰れない」
「駄目」
即答だった。
「そんなの、駄目よ」
セーフィエルは首を振る。
「だって、私は来たのよ。裁きの門を開いた。夢殿の監視を抜けた。ヌルに追われても、アインに斬られかけても、帝都中を敵に回しても、ここまで来たの。あなたを迎えに来たの。あなたを返してもらうために、ずっと」
「うん」
「だから、帰るの。時雨堂でもいい。帝都の外でもいい。死都東京の外縁でも、月の裏側でも、どこでもいい。器が必要なら作る。時間が足りないなら盗む。魂の損傷があるなら修復する。記録が壊れているなら、私が書き直す。できるわ。できる。私は、あなたの母親で、魔導士で、セーフィエルよ」
シオンは、母の言葉を遮らなかった。
ただ、聞いていた。
セーフィエルは、さらに一歩近づく。
「シオン、帰りましょう。今度こそ、母さんが連れて帰る」
同じ言葉を繰り返す。
祈りのように。
命令のように。
自分自身へかける呪文のように。
シオンは、また首を振った。
「帰れないの」
「嫌」
セーフィエルの声が幼くなった。
長い年月を生き、禁忌を犯し、帝都政府に危険人物として追われてきた魔女の声ではなかった。
娘を失った日のまま、立ち止まっていた母親の声だった。
「そんなの、嫌よ。そんな救い、認めない」
白い花が、彼女の足元で揺れる。
「私はあなたを抱きしめたかった」
言葉が、堰を切ったように溢れた。
「あなたにご飯を食べさせたかった。温かいスープを作って、熱いから気をつけなさいって言いたかった。あなたが訓練で無茶をして帰ってきたら怒りたかった。怪我を隠しているのを見つけて、薬を塗りながら、どうしていつもそうなのって叱りたかった」
シオンの瞳が揺れる。
「あなたの髪を梳きたかった。ワルキューレの礼装を着る前に、襟が曲がっているって直したかった。あなたが大人ぶって、でも本当は怖がっているのを見抜いて、何も言わずにお茶を出したかった。あなたの誕生日を、もう一度祝いたかった」
セーフィエルは、両手で顔を覆いそうになって、やめた。
シオンを見ていたかったからだ。
「ケーキを焼きたかった。失敗して焦がして、あなたに笑われたかった。母さん、魔導式は完璧なのに料理は下手なのねって言われたかった。喧嘩したかった。くだらないことで言い合って、次の日には何でもなかったみたいに朝食を食べたかった。あなたが誰かを好きになったら、少し嫌な顔をして、それでも祝福したかった。あなたが疲れて眠ってしまったら、毛布をかけたかった」
声が震える。
「私は、あなたの母親を続けたかった」
シオンは、泣いていた。
静かに。
涙が頬を伝っている。
この精神領域で流れる涙が本物なのか、魂の記憶なのか、セーフィエルにはわからない。
でも、そこにある悲しみだけは本物だった。
「うん」
シオンは言った。
「わたしも、帰りたかった」
セーフィエルの呼吸が止まる。
シオンは、母を見つめた。
「母さんのスープ、飲みたかった。焦げたケーキも食べたかった。髪を梳いてほしかった。怒られたかった。ちゃんと怒って、それから許してほしかった。ワルキューレになんてならなければよかったって、思ったこともある。剣なんて握らなければよかったって、思ったこともある」
彼女の声は、震えていた。
「怖かった。タルタロスは暗かった。闇の子の声はずっと痛かった。ヌル様の光も、最初は温かかったのに、だんだん鎖みたいになった。わたしの名前が消えていくのがわかった。ノインって呼ばれることすらなくなって、欠番になって、記録から消されて、母さんの声も遠くなって」
シオンは、自分の胸に手を置いた。
「帰りたかったよ、母さん」
その一言で、セーフィエルは完全に崩れた。
膝をつく。
白い花の中で、手を伸ばす。
触れられない娘へ、何度も、何度も手を伸ばす。
「なら、帰りましょう」
「母さん」
「帰りたいなら、帰ればいいでしょう。まだここにいる。声が届く。私がいる。シグレがいる。アリスが記録している。ヌルだって、外で封印を支えている。帰れる。帰れるはずよ。帰れないなんて、誰が決めたの。ヌル? 夢殿? 邪柩? タルタロス? そんなもの、私が全部壊す」
「壊したら、帝都が落ちる」
「落ちればいい!」
セーフィエルの叫びが、庭を震わせた。
白い花びらが舞う。
「あなたのいない帝都なんて、私にはいらない!」
言ってから、セーフィエルは自分の言葉の重さに気づいた。
それは、彼女がずっと抱えてきた本音だった。
帝都の市民。
ホウジュ区で避難している人々。
女帝信仰の少女。
マナ。
アリス。
シグレ。
皆、生きている。
それでも、娘を奪われた母親にとって、世界は娘のいない形で続いてしまった。
それが許せなかった。
シオンは、母を責めなかった。
ただ、悲しそうに言った。
「でも、わたしはそう思えなかった」
セーフィエルは顔を上げる。
「わたしは、帝都も壊したくなかった」
「シオン」
「母さんのところに帰りたかった。ヌル様を許せなかった。闇の子が痛いのも、聞こえていた。全部、嫌だった。でも、わたしが逃げたら、たくさんの人が壊れるのもわかっていた」
「そんなもの、あなたが背負うことじゃなかった!」
「うん」
シオンは頷いた。
「背負うことじゃなかった。今なら、そう思う。でも、あの時のわたしは逃げられなかった。逃げないことを、正しいと思いたかった。怖かったから。自分の痛みに意味があるって思わないと、耐えられなかったから」
セーフィエルは、声を出せなかった。
「母さん。わたしは、もう昔のわたしには戻れない」
「……」
「身体はない。魂は削れた。時間は戻らない。わたしが帰って、母さんの作ったスープを飲んで、怒られて、眠って、明日の朝を迎えることは、もうできない」
「やめて」
「言わなきゃ」
「やめて、シオン」
「言わなきゃ、母さんはわたしを探し続ける」
セーフィエルは、唇を噛んだ。
血は出ない。
ここは精神領域だから。
それでも、痛みだけはあった。
シオンは、母の前にしゃがんだ。
触れられない距離で、目線を合わせる。
昔、セーフィエルが幼いシオンにそうしていたように。
「母さん。わたしを取り戻すためじゃなくて」
シオンの声は穏やかだった。
「わたしを眠らせるために、手を貸して」
セーフィエルは、壊れそうな顔でシオンを見た。
「それが、救いなの」
「わからない」
シオンは正直に答えた。
「でも、もう痛いのは嫌」
その言葉は、幼かった。
ワルキューレ第九位ノインではない。
タルタロス封印の楔ではない。
帝都を守った英雄でも、夢殿が消した欠番でもない。
ただ、長い痛みに疲れ果てた娘の言葉だった。
「もう、暗いところで一人で眠るのは嫌。闇の子の痛みを一人で押さえ続けるのも嫌。ヌル様の光を鎖みたいに感じるのも嫌。母さんの声が遠くなるのも嫌。誰かがわたしの名前を忘れるのも嫌」
シオンは、泣きながら笑った。
「でも、母さんが来てくれた。シグレが、わたしの代わりにならないって言ってくれた。アリスが、わたしがいたことを記録してくれる。マナが、アリスを守ろうとしてくれる。ヌル様も、外で止まってくれている。だから」
彼女は、そっと目を伏せた。
「もう、眠れると思う」
セーフィエルは、何度も首を振った。
「嫌」
「母さん」
「嫌よ」
「うん」
「私は、あなたを救いに来たのよ」
セーフィエルの声は、細く、震えていた。
「母さんは、あなたを救いに来たのよ」
シオンは微笑んだ。
「うん」
その笑顔は、セーフィエルがずっと探していたものだった。
幼い頃、失敗したケーキを食べて笑った時。
訓練で負けて悔し泣きしながら、それでも立ち上がった時。
ワルキューレの礼装を着て、少しだけ誇らしげに振り返った時。
そして、最後にタルタロスへ向かった時。
あの子は、いつもそうやって笑った。
怖い時ほど、笑った。
「来てくれた」
シオンは言った。
「だから、もう大丈夫」
セーフィエルは、泣いた。
声にならない声で泣いた。
魔女としてではなく。
設計者としてでもなく。
反逆者としてでもなく。
ただの母親として。
白い花の庭が、ゆっくり崩れていく。
精神領域の時間が終わろうとしていた。
タルタロス最深部の音が戻ってくる。
硫酸の海。
鎖。
邪柩。
闇の子の声。
アリスの記録回路。
マナの叫び。
シグレのムラサメ。
闘神ヌルの光。
シオンの姿が薄れていく。
セーフィエルは手を伸ばした。
やはり触れられない。
だが、今度は無理に掴もうとはしなかった。
「シオン」
「うん」
「母さんは、あなたを帰してあげられない」
「うん」
「あなたを抱きしめられない」
「うん」
「ご飯も作れない。怒れない。髪も梳けない。誕生日も、もう」
「うん」
「でも」
セーフィエルは、涙で濡れた顔を上げた。
「あなたを、この痛みから出す」
シオンの瞳が揺れる。
「母さん」
「あなたを取り戻すためじゃない。あなたを眠らせるために」
セーフィエルは、自分の胸に手を当てた。
そこに、血の術式が浮かぶ。
母系認証。
邪柩へ触れるための、最後の鍵。
「手を貸すわ」
シオンは、泣きながら笑った。
「ありがとう」
庭が消える。
最後に、シオンの声が届いた。
「母さん」
「なに」
「わたし、生きたかった」
セーフィエルの表情が歪む。
だが、シオンは続けた。
「でも、母さんが来てくれたから、わたしは、消えるんじゃなくて眠れる」
その言葉を最後に、精神領域は砕けた。
タルタロス最深部。
邪柩前。
セーフィエルは現実へ戻った。
膝をついている。
顔は涙で濡れている。
血の術式はまだ手の中にある。
邪柩の中心では、シオンが鎖につながれたまま、こちらを見ている。
シグレが息を切らしていた。
ムラサメの刃が、シオンの封印鎖をほどこうとしている。
アリスは記録回路を開いたまま震えている。
マナはアリスを支えながら、セーフィエルを見ている。
門の外からは、闘神ヌルの白い光が差し込んでいる。
闇の子が、邪柩の奥で呻いた。
『シオン……』
『返せ……』
『ヌル……』
『ひとつに……』
セーフィエルは立ち上がった。
足元はふらついている。
それでも、立った。
マナが警戒する。
「セーフィエル」
「わかっているわ」
セーフィエルは、マナを見た。
その目には、もう先ほどまでの狂気じみた執着だけではない。
喪失がある。
痛みがある。
そして、選んでしまった者の覚悟がある。
「私は、シオンを取り戻す術式を閉じる」
マナが息を呑む。
シグレがセーフィエルを見る。
セーフィエルは、邪柩へ向き直った。
「母系認証を、解放用へ切り替える。シオンの魂を、邪柩の楔から外すために使う」
「いいの?」
シグレが聞いた。
セーフィエルは、笑った。
泣きながら。
「よくないわ」
正直な答えだった。
「よくなんてない。私はまだ、あの子を連れて帰りたい。抱きしめたい。温かいものを食べさせたい。誕生日を祝いたい。全部、諦めたくない」
彼女は、血に濡れた手を邪柩へ伸ばす。
「でも、あの子はもう、痛いのは嫌だと言った」
セーフィエルの血が、赤い糸となってシオンの鎖へ絡みつく。
「母親が、それを聞かなかったことにはできない」
シオンの鎖が、大きく震えた。
邪柩が抵抗する。
闇の子が叫ぶ。
『返せ』
『シオンを』
『返せ』
セーフィエルは、涙の跡を拭わなかった。
そのまま術式を展開する。
「シオン」
彼女は言った。
「母さんは、あなたを救いに来たのよ」
シオンは、邪柩の中心で微笑んだ。
淡く、今にもほどけそうな笑みだった。
「うん」
声は小さかった。
けれど、はっきり届いた。
「来てくれた。だから、もう大丈夫」
セーフィエルは、術式を反転させた。
娘を取り戻すために組み上げた魔導式が、娘を眠らせるための式へ変わっていく。血の赤い線が、鎖を締め上げるのではなく、一本ずつほどいていく。シオンの魂に食い込んでいた母系認証が、所有の鍵ではなく、解放の鍵へ変わる。
その瞬間、セーフィエルの胸の奥で、何かが音を立てて砕けた。
きっと、それは希望だった。
娘を連れて帰れるかもしれないという、長い長い希望。
砕けた希望の奥から、別のものが残った。
母としての願い。
どうか、この子がもう苦しまないように。
それだけだった。
白い花の匂いが、一瞬だけタルタロスの底に漂った。
シオンの鎖が、また一本、ほどけた。




