第15話 闘神ヌル、闇を焼こうとする
帝都エデンの空は、白く焼けていた。
夜なのに、夜ではなかった。
ホウジュ区の商業灯も、カミハラ区の研究塔群も、湾岸区の防潮魔導壁も、アツギ中枢区の夢殿の光も、すべてがひとつの白へ飲み込まれている。
その中心に、女帝ヌルがいた。
市民が聖像で見る小さな女帝ではない。
夢殿の玉座で退屈そうに笑う少女でもない。
式典で手を振り、信徒たちへ光を落とす統治用の義体でもない。
闘神ヌル。
戦うために作られた女帝の姿。
白と金の戦闘外殻が、少女の身体を覆っている。背後には巨大な光輪が浮かび、何層にも重なった輪が互いに逆向きへ回転していた。回転するたびに、空間が固定され、死都東京から漏れ出す黒い歪みが押し返される。
翼状兵装が、帝都の空を覆っていた。
翼と呼ぶにはあまりにも硬質で、兵器と呼ぶにはあまりにも神聖で、聖具と呼ぶにはあまりにも破壊的だった。一本一本の翼の内側を、魔導炉直結の光が走る。夢殿から送られる封印制御光、ヴァルハラ宮殿の戦闘管制、ワルキューレの補助権限、そして帝都全域の魔導インフラから吸い上げられた出力。
帝都エデンという都市そのものが、闘神ヌルの背に接続されていた。
ホウジュ区の空中歩道では、市民たちが建物の中へ逃げ込みながらも、思わず空を見上げていた。
白い女帝が、黒い夜を撃っている。
その光景は、信仰画のようだった。
だが、信仰画よりもずっと怖かった。
闇の子の思念が触れた空の裂け目から、黒い腕が伸びる。
腕と言っても、人間のものではない。溶けた鉄と骨と影を混ぜ合わせたようなものだ。手のひらには古い改札口が開き、指先には死都東京の駅名が刻まれている。腕がホウジュ区へ向かって垂れ下がると、空中歩道の下に一瞬だけ旧東京の線路が重なった。
悲鳴が上がる。
次の瞬間、闘神ヌルの翼状兵装が一枚、角度を変えた。
光が走った。
黒い腕は、触れる前に消えた。
爆発ではない。
燃焼でもない。
白い光に意味を削り取られ、存在そのものを否定されたように崩れた。腕に刻まれていた駅名が一文字ずつほどけ、黒い雨となって降る。しかし雨は地上へ届く前に、ヨムルンガルド結界の細い蛇光に呑まれた。
市民たちが息を呑む。
「女帝様……」
誰かが祈った。
その祈りはすぐに周囲へ広がる。
怖いから祈る。
助かったから祈る。
見上げた先に、祈る以外の言葉がないから祈る。
闘神ヌルは、それらを聞いていないように見えた。
いや、聞こえてはいるのだろう。
帝都全域に張り巡らされた信仰場、聖像、祭壇、夢殿通信網を通じて、市民の祈りはすべて女帝へ届いている。だが、今のヌルにとって、それは慰めでも栄光でもなかった。
ただの入力値だった。
祈りは、認識圧となる。
認識圧は、女帝義体の神格を補強する。
神格は、闘神義体の出力安定へ回される。
出力は、黒い漏出体を焼く。
帝都の信仰は、今、都市防衛の燃料になっていた。
カミハラ区の上空に、骨の翼を持つ獣が現れる。
獣は、タルタロスの硫酸の海から這い上がってきたもののようだった。身体の半分は溶岩で、もう半分は凍土。背中の翼には、死者の顔が張りついている。口を開くと、D∴C∴が聞いたような壊れた神託が漏れた。
『ヌル……』
『返せ……』
『シオン……』
『ひとつに……』
闘神ヌルは、表情を変えなかった。
右手を上げる。
巨大な光輪の一枚が停止する。
停止した光輪の中心に、魔導炉直結の出力が収束する。
白い槍が生まれた。
それは、帝都大学の研究塔よりも長く、湾岸区の防潮壁よりも太く、夜空を貫く聖槍のように輝いた。
「タルタロス漏出体、第十一群」
闘神ヌルの声が、戦闘管制回線へ冷たく落ちる。
「焼却」
白い槍が放たれた。
骨の翼を持つ獣は、叫ぶ暇もなかった。翼が消え、胴体が消え、死者の顔が浮かんだ凍土の皮膚も、溶岩の心臓も、すべてが白い光へ呑まれる。
カミハラ区の研究塔群が、遅れて衝撃波に揺れた。
非常シャッターが軋み、研究員たちが床へ伏せる。帝都大学中央観測室では、クレハが端末にしがみつきながら笑った。
「凄まじいな。美しいほど最悪だ」
通信の向こうでシンが叫ぶ。
『教授、感想がおかしい! 今ので都市情報網の三系統が一瞬白飛びした!』
「闘神義体だ。都市が女帝の兵装になる。想定通りではある」
『想定したくなかったよ!』
「同感だ」
クレハは戦闘記録を保存しようとして、端末が熱で落ちかけたため、舌打ちした。
湾岸区では、防潮魔導壁を越えようとしていた黒い波が焼かれていた。
波と言っても、水ではない。
タルタロスの硫酸の海の影。そこに死都東京の地下通路、錆びた線路、切符、剥がれた影、名前をなくした死者たちの残響が混ざり、黒い潮となって帝都へ押し寄せている。
機動警察の装甲車両が並ぶ。魔導盾を展開した隊員たちが歯を食いしばる。
「壁、持ちません!」
「後退するな! 市民避難完了までここで支える!」
その頭上を、白い光が通った。
闘神ヌルの翼状兵装から放たれた横薙ぎの光撃が、黒い波の上層を削り飛ばす。硫酸の海の臭いが、焼けた鉄の匂いへ変わる。波の中から伸びていた無数の手が、一斉に消えた。
隊員たちは、声もなく空を見上げた。
破壊神が、帝都を守っている。
救いと恐怖が、同じ形で空にあった。
だが、闘神ヌルが光を放つたび、夢殿の最深部では別のものが軋んでいた。
眠りの座。
白い花のような神格生命維持装置の中心で、ヌル本体は眠っている。だが、その眠りは穏やかではなかった。閉じた瞼がかすかに震え、白い指先が硬く曲がる。身体から伸びる魔導管の一部が黒く焦げ、制御符が焼け落ちる。
ヌル本体の胸元に、黒い筋が浮かんだ。
傷ではない。
だが、傷に見えた。
闇の子の現世接続を焼くたび、その反動はヌル本体へ戻ってくる。光と闇は分かれているが、根は同じ。闇を焼けば、光の奥にも痛みが走る。
ズィーベンは観測盤の前に立ち、次々と流れる数値を見ていた。
「眠りの座、第五制御花弁に亀裂。魔導管二十七番から三十四番、逆流。闘神義体出力、七十四パーセント。魔導炉側補助出力、限界域へ接近」
夢殿の技術官たちが走る。
「本体保護結界を増設!」
「第七層まで展開済みです!」
「闇の子思念波、再接近!」
「タルタロス側から黒潮圧、上昇!」
ズィーベンは、戦闘管制回線へ接続した。
「陛下」
帝都上空の闘神ヌルは、次の漏出体群へ照準を向けたまま答えた。
『何?』
「本体負荷が限界です。これ以上、闇の子の接続を直接焼けば、眠りの座にも反動が」
ヌルの光輪が回る。
その向こう、死都東京方面の空の裂け目から、黒い光がまた伸びていた。
今度の黒い光は、怪物の形をしていない。
腕でも、獣でも、波でもない。
ただの声だった。
闇の子の声が、光の筋として帝都へ伸びている。
『ヌル……』
『聞こえる……』
『わたしも……』
『ここに……』
『返して……』
市民にはもう聞かせられない。
もう一度あの声が帝都全域に響けば、認識誘導では抑えきれない。女帝信仰は揺らぎ、ヨムルンガルド結界はさらに不安定化し、D∴C∴の残党が再び動く可能性もある。
闇の子の存在証明は、帝都にとって危険すぎる。
だから、ヌルは撃とうとした。
黒い声そのものを焼くために。
「知ってる」
闘神ヌルは答えた。
「でも、ここで止めなければ帝都が落ちる」
「陛下が落ちれば、帝都も落ちます」
「アタシはまだ落ちない」
「本体負荷は予測値を超えています」
「なら、予測を直して」
「陛下」
「ズィーベン」
ヌルの声が低くなった。
「今、アタシが止まれば、あれは帝都に触れる。ホウジュ区の避難民も、カミハラ区の研究員も、湾岸区の警察も、アツギの信徒も、全部聞く。声だけじゃない。タルタロスの海も、死者の影も、邪柩の奥の痛みも流れ込む」
彼女の翼状兵装が広がる。
「アタシは女帝だ。帝都を守る。守るためなら、闇でも半身でも焼く」
「闇の子そのものを焼くおつもりですか」
「焼けるならね」
ヌルは、空の裂け目を見た。
その奥にいるものを見ていた。
かつて一つだったもの。
光と闇に分かれた半身。
殺せないから封じた。
切り捨てられないから眠らせた。
眠らせるために、シオンを楔にした。
ヌルは小さく笑った。
それは、市民が聖画で見る優しい笑みではなかった。
「でも、焼けないなら、焼けるところまで削るだけだよ」
夢殿の観測盤が一斉に赤く染まった。
『警告』
『闇の子接続核への直接攻撃準備』
『ヌル本体反動、危険域』
『眠りの座、同期崩壊リスク』
『ヨムルンガルド結界外層、連鎖破断リスク』
『シオン=ノイン封印再構成中』
『アリス記録核、過負荷』
『シグレ残響座標、タルタロス深層』
ズィーベンの表情が、初めてわずかに崩れた。
「陛下、お待ちください。今、接続核を焼けば、タルタロス側の再構成にも反動が及びます。シグレたちも――」
「それでも帝都を落とすよりましだ」
ヌルは言い切った。
その判断は冷酷だった。
そして、支配者としては正しかった。
帝都エデンを守るために、タルタロスへ落ちた数人を切り捨てる。
闇の子の現世接続を焼く。
封印再構成が失敗しても、最悪の崩壊だけは防ぐ。
それは合理だった。
かつて、シオンを楔にした時と同じように。
闘神ヌルの光輪が、完全な攻撃態勢へ入る。
帝都全域の魔導灯が一瞬だけ暗くなった。
都市の光が、空へ吸い上げられていく。
女帝信仰の聖像が一斉に発光し、魔導炉が低く唸り、夢殿の白い塔が夜空へ刺さるように輝く。ヴァルハラ宮殿の尖塔からは、戦闘管制用の金色の線が闘神義体へ伸びる。
ヌルの掌に、白い太陽のような光が生まれた。
それが放たれれば、闇の子の接続核は焼かれる。
帝都は、ひとまず守られる。
ヌル本体には反動が来る。
シグレたちも巻き込まれるかもしれない。
シオンの封印再構成も壊れるかもしれない。
それでも、都市は残る。
ヌルは撃とうとした。
その瞬間。
白い光の中心に、青白い刃が触れた。
とても細い光だった。
闘神ヌルの光撃に比べれば、糸のようなものだ。
だが、その糸のような青白い光は、ヌルの照準をわずかにずらした。
ムラサメ。
裁きの門の向こう、タルタロス最深部から伸びた、シグレの剣の響きだった。
ヌルの瞳が細くなる。
「シグレ」
空と地獄が、一瞬だけつながる。
帝都上空にいる闘神ヌル。
タルタロス最深部、邪柩の前にいるシグレ。
二人の間には、死都東京がある。裁きの門がある。ヨムルンガルド結界がある。シオンの残響がある。アリスの記録核が悲鳴を上げ、セーフィエルが泣き、マナがアリスを支えている。
それでも、声は届いた。
「叩き潰したら駄目だ」
シグレの声は、ひどく疲れていた。
だが、眠たげな響きだけは残っていた。
こんな時でも、彼はシグレだった。
ヌルの表情に、苛立ちが浮かぶ。
「人の子、今それを言う?」
黒い亀裂から、また闇が伸びる。
ヌルは片手を向け、反射的にそれを撃ち落とした。白い光が黒い影を焼く。帝都の外縁結界が揺れ、遠くで市民の悲鳴が上がる。
「あれを放っておけば帝都が壊れる」
「わかってる」
「わかってない。闇の子は怪物の群れじゃない。タルタロスの海でもない。あれはアタシの半身だ。現世に触れれば、世界の根に触れる。帝都だけで済む保証はない」
「わかってる」
「なら、邪魔をしないで」
「邪魔するよ」
シグレの声は低かった。
「君が闇の子を壊せば、君も壊れる」
「アタシの心配?」
「少し」
「優しいね」
「たぶん」
「今それを言えるところ、本当に腹が立つ」
ヌルの光輪が低く鳴る。
彼女の怒りに反応して、翼状兵装の出力が上がった。
だが、シグレは引かなかった。
「光が闇を押し潰すだけなら、また誰かが楔にされる」
ヌルの表情が、わずかに止まる。
シグレは続ける。
「シオンの次は、ボクか、アリスちゃんか、別の誰かだ」
その言葉は、闘神ヌルの装甲を貫いたわけではない。
光輪を止めたわけでもない。
戦闘出力を落としたわけでもない。
ただ、ヌルの中にある古い傷を、正確に指で押した。
シオン。
ワルキューレ第九位ノイン。
帝都を守るために、人柱にされた少女。
合理の果てに、永遠の苦痛へ落とされた者。
ヌルは、彼女の名を忘れていない。
記録から消した。
聖画から消した。
市民の記憶から消した。
ワルキューレの正式序列から欠番にした。
だが、ヌル自身は忘れていない。
忘れられるはずがなかった。
「……必要だった」
ヌルは言った。
誰に言い訳をしているのか、自分でもわからない声だった。
「世界を壊さないために」
「うん」
「帝都を残すために」
「うん」
「死都東京から、闇を溢れさせないために」
「うん」
「それでも駄目だと言うの?」
「駄目っていうか」
シグレは、少しだけ息を吐いた。
「もう、同じやり方は嫌だ」
その声は、神に逆らう英雄の声ではなかった。
ただ、疲れた人間が、それでも譲れないものを言う声だった。
「シオンは、もう一人で眠らなくていい。アリスちゃんも、誰かの代わりに楔にならなくていい。ボクも、ノインの残響だからって門の部品になりたくない」
遠く、タルタロスの奥でアリスの声がかすかに混じった。
「私は、アリスです」
それは通信ではない。
記録核を通じて漏れた、彼女の自己定義だった。
ヌルは、その声も聞いた。
次に、マナの声。
「アリスを壊す道なんて、私は認めない!」
セーフィエルの泣き声。
「シオン……!」
そして、シオンのかすかな声。
「母さん」
すべてが、闘神ヌルの光の中へ届く。
ヌルは、空の亀裂を見た。
黒い光が伸びている。
闇の子が、こちらへ手を伸ばしている。
それは危険だ。
間違いなく危険だ。
帝都を壊し、世界を揺らし、ヌル自身をも引き裂く可能性がある。
だから、焼くのが正しい。
正しい。
正しいはずだ。
だが、その正しさの先に、また誰かの名前が消える。
ヌルは、自分の白い手を見た。
闘神義体の手。
厚木基地を制圧した手。
死都東京を封じた手。
シオンを楔にした手。
帝都を守り続けてきた手。
その手が、また同じ形を作ろうとしている。
ヌルは初めて黙った。
帝都上空に、沈黙が落ちる。
光輪は回っている。
翼状兵装は展開されている。
魔導炉直結の光撃は、まだ撃てる。
黒い接続核は、まだ焼ける。
だが、撃たなかった。
夢殿最深部で、ズィーベンが観測盤を見る。
「闘神義体、主砲出力低下。照準、闇の子接続核より逸脱。本体負荷、上昇停止」
技術官の一人が、信じられないように呟く。
「陛下が……止めた?」
ズィーベンは答えなかった。
彼女は眠りの座のヌル本体を見た。
閉じた瞳は、まだ開かない。
だが、その指先の震えは止まっていた。
帝都上空で、闘神ヌルは低く言った。
「シグレ」
「なに?」
「失敗したら焼くよ」
「うん」
「キミごと焼くかもしれない」
「できれば、そこは遠慮してほしいなぁ」
「努力はしない」
「ひどい女帝様だねぇ」
「今さら?」
ほんのわずかに、ヌルの口元が歪む。
笑みではない。
怒りでもない。
神が、自分以外の答えを一度だけ待つと決めた顔だった。
「時間をあげる」
闘神ヌルは、空の亀裂へ向き直った。
翼状兵装の照準は、闇の子の接続核から外れている。
だが、帝都へ伸びる黒い漏出体には、迷わず光を撃ち込んだ。白い光が黒い影を焼き、ホウジュ区へ落ちかけた怪物の爪を消し飛ばす。
「帝都へ触れるものは焼く。闇の子そのものは、今だけ焼かない」
「ありがとう」
「礼を言うのは、成功してからにして」
「成功したら、お茶でも出すよ」
「神に粗茶?」
「ハルナちゃんのお茶はおいしいよ」
「……本当に、どこまでも人の子だね」
闘神ヌルは、黒い空を睨んだ。
闇の子の声が、遠くで震える。
『ヌル……』
『なぜ……』
『聞く……?』
ヌルは低く答えた。
「黙っていて。今は、人の子の馬鹿げた答えを見ているところだよ」
黒い光が揺れた。
白い光が、それを帝都から遠ざける。
焼き尽くすのではなく。
押し潰すのではなく。
時間を稼ぐために。
帝都エデンの空では、破壊神が初めて破壊を保留した。
それは赦しではない。
改心でもない。
勝利でもない。
ただ、女帝ヌルの合理性に、ほんの小さな沈黙が生まれた瞬間だった。
その沈黙の向こうで、タルタロス最深部のシグレたちは、まだ答えを探していた。




