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第14話 ホウジュ区のハルナ

 ホウジュ区の夜は、いつもなら眠らない。


 魔導看板は昼より派手に輝き、空中歩道には買い物帰りの人々が流れ、屋台の蒸気と香辛料の匂いが裏通りまで漂ってくる。帝都エデンの中でも、ホウジュ区は雑多で、騒がしくて、少し胡散臭くて、それでも人間の生活がいちばん近い場所だった。


 シグレの雑貨店《時雨堂》も、その雑多さの一部だった。


 呪われているかもしれない中古鏡。

 女帝ヌルの家庭祭壇用聖像。

 旧東京復刻地図。

 魔導炉記念メダル。

 蛇型風鈴。

 怪しいお札。

 誰が買うのかわからない人形。

 そして、店長がすぐ潜り込むこたつ。


 そのどれもが、いつもなら少しだけ間抜けで、少しだけ愛嬌があった。


 だが今夜は違った。


 棚が揺れている。


 地震ではない。


 時雨堂の床板は古いが、基礎にはシグレが適当に貼った魔導補強札と、ハルナが真面目に貼り直した耐震護符が重ねられている。多少の揺れなら、店ごと軋んでも棚の商品までは落ちないはずだった。


 それなのに、棚が揺れている。


 女帝ヌルの小さな聖像が、白く光っていた。


 最初は淡い光だった。信仰会公認品なので、祈祷日や祝日に反応して発光する機能がついている。ハルナはその仕組みを「ありがたさ演出機能」と呼んでいた。


 しかし今、その聖像の光はおかしかった。


 白いはずの光の内側に、黒い筋が混じっている。


 まるで、女帝の聖像の中で、別の影が目を開けようとしているようだった。


「……やめてください」


 ハルナはカウンターの内側で、両手に護符を持っていた。


 眼鏡の奥の目は、恐怖で潤んでいる。ツインテールは少し乱れ、メイド服のエプロンには、お茶の染みと、避難用に出した毛布の埃がついていた。


「テンチョがいない時に、そういう本格的な怪奇現象はやめてください。営業妨害です。あと、わたしはそういう担当ではありません」


 言いながら、護符を聖像の台座に貼る。


 護符には、ハルナの字でこう書かれていた。


《とりあえず光りすぎない》


 聖像の光が、ほんの少しだけ弱まった。


「効きました!?」


 ハルナは自分で驚いた。


 次の瞬間、店の奥で、ばさりと音がした。


 旧東京復刻地図が勝手に広がっていた。


 普段は丸めて紐で縛ってある商品だ。観光客や古地図マニアにたまに売れる。死都東京へ行けるわけではないが、旧世界の地名に妙な憧れを持つ人は少なくない。


 その地図が、床いっぱいに広がっている。


 しかも、紙の上で線が動いていた。


 山手線。

 中央線。

 京浜東北線。

 総武線。

 地下鉄。

 存在しないはずの路線が、黒い血管のように脈打ちながら、ホウジュ区の現在地図へ重なろうとしている。


「駄目です! ここはホウジュ区です! 東京駅ではありません!」


 ハルナは地図の上に膝をつき、両手で押さえた。


 地図の端から、黒い文字が浮かぶ。


《次は――》

《終点――》

《裁き――》


「読ませません!」


 ハルナは、近くにあった値札シールを引っ掴み、文字の上に貼った。


《特価・三割引》


 黒い文字が、値札に押されるように薄くなる。


「よし!」


 自分でも何がよしなのかわからない。


 だが、今は理屈より手を動かすしかない。


 蛇型風鈴が鳴った。


 ちりん。


 ちりん。


 ちりん。


 風はない。


 店の扉は閉まっている。窓も閉めた。空調も切っている。それなのに、風鈴だけが鳴っている。硝子の蛇が自分の尾を噛み、薄く青白い光を帯びていた。


 ヨムルンガルド結界の形。


 ハルナはそれを見て、喉を鳴らした。


 深い設定は知らない。


 死都東京。裁きの門。タルタロス。闇の子。シオン。ノイン。


 最近、店の奥でシグレやマナやアリスやクレハが話していた言葉は、いくつか聞こえていた。聞こえてしまっていた。けれど、それを全部理解できるほど、ハルナは魔導士でも研究者でもない。


 それでも、ひとつだけわかる。


 今、帝都エデンはおかしい。


 そして、シグレはそのおかしい場所の中心へ行っている。


「テンチョ……」


 名前ではなく、いつもの呼び方が漏れた。


 シグレ。


 帝都の天使。

 ノインの残響を持つ者。

 裁きの門の鍵。

 シオンの魂に触れた人。


 そういう難しい肩書きが、最近どんどん彼に貼りついていく。


 でも、ハルナにとっては違う。


 こたつから出ない店長。

 開店時間を守らない店長。

 お茶を淹れると嬉しそうにする店長。

 怪我を隠して帰ってきて、すぐバレる店長。

 面倒だなぁと言いながら、誰かを助けに行ってしまう店長。


 テンチョ。


 それが、ハルナの知っているシグレだった。


 店の壁にかけた中古鏡が、突然黒く染まった。


「ひっ」


 ハルナは肩を跳ねさせる。


 その鏡は、最初から少し怪しかった。


 商品札には《呪われているかもしれません。返品不可》と書かれている。シグレは「呪われているかどうか曖昧なところが売りだよぉ」と言っていたが、ハルナは最初から売りたくなかった。


 その鏡の中に、空が映っていた。


 店内ではない。


 ホウジュ区の夜空でもない。


 死都東京の空だった。


 朝焼けのない空。


 ずっと夜明けを拒んでいるような、濁った黒と灰色の空。折れた高層ビルの輪郭。崩れた鉄道橋。地面から立ち上る黒い霧。遠くで、何か巨大な門の影が揺れている。


 その空の下には、人影がなかった。


 いや、影だけがあった。


 人をなくした影が、街を歩いている。


 鏡の中の死都東京が、こちらを見ていた。


 ハルナは震えながら、鏡の前に立った。


「見ません」


 自分に言い聞かせる。


「わたしは見ません。テンチョにも見るなって言われた気がします。言われてないかもしれませんけど、こういうのはだいたい見ない方がいいって、最近学習しました」


 ハルナは布を取った。


 カウンターの下に置いていた予備のテーブルクロスだ。時雨堂のロゴが刺繍された、少し古い布。


 それを鏡にかぶせる。


 布越しに、黒い光が滲んだ。


「透けないでください!」


 さらにその上から、護符を貼る。


《見たら駄目》


 少し考えて、もう一枚貼る。


《本当に駄目》


 黒い光が、少し弱まった。


 その時、外で悲鳴が上がった。


 ハルナは振り向いた。


 時雨堂のガラス扉の向こう。


 ホウジュ区の裏通りが混乱している。


 人々が走っていた。会社員、買い物客、子ども連れ、学生、屋台の店主、女帝信仰の祭服を着た老人。空中歩道から降りてきた人々が、行き場を失って路地へ流れ込んでいる。


 魔導灯が明滅している。


 その明滅のたびに、通りの姿が変わる。


 一瞬、ホウジュ区。

 次の瞬間、旧東京の地下通路。

 またホウジュ区。

 次に、タルタロスの硫酸の海を映す黒い路面。


 人々の影が遅れて動く。

 誰かの足元から、切符のような黒い紙が湧く。

 遠くで、電車の接近音がした。

 この通りに線路などないのに。


 ハルナは、扉の前で立ち尽くした。


 怖い。


 とても怖い。


 彼女は戦えない。

 魔導士ではない。

 トラブルシューターでもない。

 ワルキューレでもない。

 機動警察でもない。

 アリスのような未知の回路もない。


 持っているのは、護符と、モップと、シグレに叱られながら整えた店の棚と、淹れ方だけは上達したお茶と、テンチョは帰ってくるという根拠のない確信だけだった。


 外で、子どもが転んだ。


 母親が抱き上げようとする。


 その母親の影が、足元から半分だけ剥がれ、別の方向へ歩き出そうとしていた。


「……っ」


 ハルナは、扉の鍵を開けた。


 からん。


 呼び鈴が鳴る。


 いつもと同じ音だった。


 それだけで、少しだけ勇気が出た。


「ここ、入ってください!」


 ハルナは店の外へ身を乗り出して叫んだ。


「避難できます! たぶん! いえ、できます! ここ、結構変な店なので、変な現象には多少強いです!」


 通りの人々が、驚いた顔でこちらを見る。


 ハルナは両手を振った。


「早く! こっちです! 足元の切符は拾わないでください! あと、聞こえてくる電車には乗らないでください! テンチョがそういうのはだいたい駄目って言ってました!」


 会社員が戸惑いながら走り込んでくる。


 続いて、子どもを抱えた母親。屋台の店主。学生二人。老人。信徒の女性。警備員。知らない犬のような魔導ペット。


 店内が一気に狭くなる。


 棚が揺れる。


 聖像が光る。


 地図がまた広がろうとする。


 鏡の布がふくらむ。


 ハルナは叫んだ。


「そこ、棚に触らないでください! それはたぶん呪物です! その箱は開けないでください! 中身がわたしもわかりません!」


 子どもが泣きながら、女帝ヌルの聖像へ手を伸ばす。


 母親が慌てて止める。


「触っちゃだめ!」


「いいです!」


 ハルナはすぐに言った。


「その聖像は触ってもいいです! たぶん守ってくれます! ただし、落としたらテンチョが泣きます!」


 子どもが涙で濡れた顔を上げる。


「テンチョ?」


「この店の店長です! すぐ死にかける人です!」


 母親が目を丸くする。


「それは、頼っていい方なんですか?」


「帰ってくる人です!」


 ハルナは即答した。


 自分でも不思議なほど、迷わなかった。


「だから、頼っていいです!」


 店内にいた人々は、何をどう受け止めればいいのかわからない顔をした。


 けれど、外よりはましだった。


 外には、線路が見える。

 黒い光が走る。

 空には女帝ヌルではない声の残響がある。


 この店の中には、混乱はある。呪われているかもしれない鏡もある。よくわからない聖像もある。店員は妙なことを言っている。


 だが、誰かが「入ってください」と言った。


 それだけで、人は中へ入れる。


 ハルナは、カウンターの上にあった茶器をどけ、救急箱を出した。


「怪我した人、こっちです! 足元の影が遅れてる人は、壁際に座ってください! 影に名前を呼ばれても返事しないでください! えっと、たぶん! 絶対!」


 学生の一人が震えながら言う。


「これ、何なんですか……? 女帝様の結界、破れたんですか?」


「わかりません!」


 ハルナは正直に言った。


 学生が絶望的な顔をする。


 ハルナは慌てて続けた。


「でも、わからないからって、今ここで終わりってことにはなりません! とりあえず座って、息をしてください! あと、棚の上の瓶は吸わないでください! 眠くなるやつです!」


「何でそんなものが店に……」


「テンチョの趣味です!」


「店長さん、大丈夫なんですか!?」


「大丈夫じゃないですけど、大丈夫にして帰ってきます!」


 自分で言って、ハルナは胸が痛くなった。


 大丈夫じゃない。


 たぶん、本当に大丈夫じゃない。


 シグレは今、裁きの門の向こうにいる。マナもアリスも一緒にいる。セーフィエルもいる。タルタロス。シオン。闇の子。女帝ヌル。全部、自分の手の届かない場所だ。


 ハルナにできることは、何もないのかもしれない。


 いや。


 ある。


 ここを開けること。


 ここに人を入れること。


 シグレが帰ってきた時に、店があるようにすること。


 それだけは、できる。


 呼び鈴がまた鳴った。


 からん。


 今度入ってきたのは、見覚えのある少女だった。


 女帝ヌルの小さな聖像を抱えている。


 第2話で時雨堂に来た、女帝信仰の少女。


 あの時より顔色が悪い。髪も乱れている。隣には母親と、足を引きずる祖母らしき女性がいた。祖母は肩で息をしている。少女は両手で聖像を抱き、店内へ入った瞬間、ハルナを見つけた。


「あの……ここ、入ってもいいですか」


「もちろんです!」


 ハルナは駆け寄った。


「おばあさん、こちらへ! 椅子あります! いえ、椅子の上の商品どけます! すみません、そこに置いてある頭蓋骨っぽい置物をどかしてください! 本物かどうかは聞かないでください!」


 近くにいた会社員が、顔を引きつらせながら置物をどける。


 祖母を椅子へ座らせると、少女はようやく少し息を吐いた。


 だが、聖像を抱く手は震えている。


「女帝様の声じゃ、ありませんでした」


 少女が呟いた。


 店内にいた人々が、少しだけ静かになる。


「あの声……夢で聞いた声とも違いました。もっと、はっきりしていて……でも、怖くて」


 ハルナは、少女の前にしゃがんだ。


 目線を合わせる。


「怖かったですね」


 少女は小さく頷く。


「女帝様は、助けてくれますか?」


 その問いは、店内の誰もが聞いていた。


 母親も。

 祖母も。

 会社員も。

 学生も。

 屋台の店主も。

 泣いていた子どもも。


 女帝ヌルは、帝都を守ってくれるのか。


 いつもなら、答えは簡単だった。


 はい。

 女帝様は帝都を守ります。

 夢殿は揺らぎません。

 ヴァルハラの光は消えません。

 ヨムルンガルド結界は死都東京を封じています。


 フィーアなら、そう言うだろう。


 信仰会の司祭なら、もっと美しい言葉で言うだろう。


 だが、ハルナは言えなかった。


 彼女は女帝の真相を知らない。


 ヌルが本体ではなく義体で統治していることも、夢殿の眠りの座のことも、闇の子と半身であることも、シオンを犠牲にしたことも、断片しか知らない。


 女帝が助けてくれるかどうか。


 そんな大きな問いに、答えられるはずがなかった。


 ハルナは、喉を詰まらせた。


 誤魔化すことはできる。


 「大丈夫です」と言えばいい。


 「女帝様を信じましょう」と言えばいい。


 けれど、その言葉は、今の少女には軽すぎる気がした。


 少女はもう、女帝ではない声を聞いてしまった。


 帝都が光だけでできていないことを、耳で知ってしまった。


 だから、ハルナは正直に言った。


「女帝様のことは、わかりません」


 母親が息を呑む。


 少女の目が揺れる。


 ハルナは続けた。


「わたしは、夢殿の人じゃありません。ワルキューレでもありません。魔導士でもありません。テンチョみたいに、変な刀で怪異を斬ったりもできません。正直、女帝様が今どうしているのかも、闇の子っていうのが何なのかも、ちゃんとはわかりません」


 店内が静かだった。


 外では、まだ黒い光が走っている。


 だが、時雨堂の中だけは、ハルナの声を待っていた。


「でも」


 ハルナは、少女の聖像にそっと手を添えた。


「テンチョは帰ってきます」


 その言葉だけは、迷わなかった。


「テンチョは、いつも面倒だって言います。眠いって言います。ついてないって言います。怪我しても隠します。お店の開店時間も守りません。こたつから出ません。困った人を見つけると、文句を言いながら出ていきます」


 少しだけ、店内の空気が緩んだ。


 ハルナの声は震えていた。


 でも、止まらなかった。


「でも、帰ってきます。怒られるために帰ってきます。お茶を飲むために帰ってきます。ただいまって言うために帰ってきます。だから」


 ハルナは立ち上がった。


 店の中にいる全員を見る。


「ここも朝まで持たせます」


 外で、また黒い光が走った。


 時雨堂の窓が震える。


 棚の上の聖像が強く光る。


 旧東京地図が床で蠢き、鏡の布の向こうから死都の空が滲み、蛇型風鈴が激しく鳴る。


 ちりん。


 ちりん。


 ちりん。


 ハルナはモップを握り直した。


 護符袋を腰に結ぶ。


 エプロンのポケットには、値札シールと、ハルナ手書きの即席護符。

 カウンターには救急箱。

 こたつには、避難してきた子どもたちを座らせた。

 女帝信仰の少女は、聖像を抱えたまま、少しだけ呼吸を整えている。


 ハルナは扉の前に立った。


 戦えない。


 けれど、閉めない。


 外にはまだ、逃げている人がいる。


 時雨堂は雑貨店だ。


 怪しい商品ばかりの、売上が心配な、店長がすぐ寝る、小さな店だ。


 でも、シグレの帰る場所だ。


 だから今夜だけは、帝都エデンの片隅にある小さな避難所でもある。


「次の人、入ってください!」


 ハルナは、黒い光の走るホウジュ区の通りへ向かって叫んだ。


「ここ、まだ開いてます! 呪われてるかもしれないものは多いですけど、たぶん外より安全です! たぶんじゃなくて、安全にします!」


 外から、また人が走ってくる。


 ハルナは扉を押さえ、呼び鈴の音を聞いた。


 からん。


 からん。


 からん。


 その音が鳴るたび、誰かが店へ入ってくる。


 その音が鳴るたび、時雨堂はまだ時雨堂でいられる。


 ハルナは、心の中で小さく呟いた。


 テンチョ。


 早く帰ってきてください。


 でも、帰ってくるまで。


 ここは、わたしが守ります。


 女帝ヌルの光と、闇の子の声がぶつかる夜。


 帝都エデンの片隅で、戦えない少女は扉を開け続けていた。

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