第12話 タルタロスのシオン
落ちていく。
上も下もわからなかった。
裁きの門の向こうには、空がなかった。地面もなかった。光も闇も、人間の世界で知っているものとは違っていた。
ただ、落下だけがあった。
シグレはマナの手を掴んでいた。
マナはアリスの手を掴んでいた。
アリスは、二人の手を握り返していた。
そして少し離れた場所で、セーフィエルが月光の糸に絡まれながら、同じように落ちていた。
彼女だけが、怖れていないように見えた。
いや、違う。
怖れている。
けれど、その怖さよりも、会いたいという思いの方が強いのだ。
「アリス!」
マナが叫ぶ。
「手、離さないで!」
「了解しました。握力補正、最大」
「最大にしなくていい、痛い!」
「申し訳ありません。調整します」
「今、謝らなくていい!」
こんな場所でも、アリスはアリスだった。
それだけで、シグレは少しだけ現実に繋がれた。
だが、その現実は長く続かなかった。
耳元で、闇の子の声がした。
『おちる』
『門……ひらいた』
『ノイン……ちがう……シグレ』
『シオン……返せ』
『ヌル……返せ』
『ひとつに……戻せ』
ノイズ混じりの声。
壊れた神託。
途切れ途切れの思念。
けれど、今までより近い。
ホウジュ区で聞いた時よりも、夢で聞いた時よりも、はるかに近い。
こちらが闇の子に近づいているのではない。
闇の子のいる場所へ、落ちているのだ。
シグレの胸の奥で、ノインの残響が激しく鳴った。
痛い。
シオンの痛み。
闇の子の痛み。
ヌルの眠り。
セーフィエルの叫び。
全部が重なって、胸の内側を叩いている。
それでも、シグレはマナの手を離さなかった。
闇の中で、遠い光が見えた。
上から降る白い光。
闘神ヌルの光だった。
裁きの門の外、帝都上空にいる闘神義体が、門を押さえようとしている。白と金の光が落下するシグレたちの周囲へ差し込み、タルタロスの闇をわずかに裂いた。
その光の中に、ヌルの声が混じる。
『落ちすぎるな、人の子』
シグレは苦笑した。
「落ちてる途中に言われてもねぇ……!」
次の瞬間、足元に何かが現れた。
地面ではない。
巨大な鎖だった。
黒い鉄とも、骨とも、凍った影ともつかない鎖が、闇の中を橋のように伸びていた。
シグレたちはそこへ叩きつけられる。
「っ……!」
衝撃が全身を抜けた。
肩の傷が開きかける。息が詰まる。ムラサメが手から離れそうになる。
マナが転がりながらもアリスを抱え込んだ。
「アリス、無事!?」
「外装損傷、軽微。内部回路、異常共鳴あり。マナ様、右肘に打撲反応」
「私の打撲より、あなたの異常共鳴!」
「両方重要です」
「そうだけど!」
セーフィエルは少し離れた鎖の上に着地していた。
白いドレスの裾が裂れ、左手首から流れた血が黒い鎖に吸い込まれている。それでも彼女は立っていた。視線は、すでに遠くを見ている。
シグレも、顔を上げた。
そこに、タルタロスが広がっていた。
硫酸の海があった。
海と呼ぶにはあまりにも生々しい。黄色と緑と黒が混じった液体が、泡を立てながら地平線まで続いている。波が立つたび、そこから人の手のような泡が浮かび、すぐに溶けた。
溶岩の山があった。
赤く燃え、黒く崩れ、また赤く盛り上がる。山肌からは火が噴き出しているのに、その頂には雪が積もっている。雪は燃えず、火は雪を溶かさない。矛盾が、そのまま地形になっていた。
凍った大地があった。
硫酸の海の向こう、溶岩の山の下、青黒い氷原が広がっている。氷の中には、顔があった。死者の顔。叫ぶ直前の顔。祈る途中の顔。どれもこちらを見ているようで、目だけは閉じていた。
空はない。
あるのは、鎖の天蓋だった。
無数の鎖が、上にも下にも左右にも張り巡らされ、世界そのものを縫い止めている。鎖の先は見えない。どこかで邪柩へ繋がり、どこかで裁きの門へ繋がり、どこかで夢殿へ繋がり、どこかでシオンの魂へ食い込んでいる。
死者の声が響いていた。
言葉にはならない。
だが、意味はある。
帰りたい。
寒い。
痛い。
名前を呼んで。
忘れないで。
開けないで。
閉じないで。
助けて。
それらが、タルタロスの風になって吹いている。
マナが息を呑んだ。
「ここが……タルタロス」
クレハの端末も、シンの通信もない。
帝都の情報網は届かない。
ここは、帝都エデンの外であり、同時に帝都の地下でもある。
世界の底。
封印の内側。
闇の子が眠る場所。
アリスは胸元を押さえた。
蛇の円環が、今までにない強さで光っている。
「私の内部回路が、タルタロス封印と共鳴しています」
マナの顔が険しくなる。
「痛い?」
「痛い、に該当する信号があります。ただし、物理損傷ではありません」
「じゃあ何?」
「記録圧です」
「記録圧?」
アリスは、タルタロスの鎖を見た。
「この場所には、閉じ込められたものの記録が多すぎます。死者の声。闇の子の思念。シオンの封印履歴。ヌルの光。セーフィエルの干渉。私の内部回路が、それらを受信し、保持しようとしています」
「保持しなくていい!」
「自動的に行われています」
「止められないの?」
「完全には」
マナは歯を食いしばった。
シグレはアリスを見た。
彼女は怖がっている。
顔は静かなままだが、指先がわずかに震えている。
シグレは言った。
「アリスちゃん」
「はい」
「無理なら、言って」
「はい」
「怖いなら」
「怖いです」
「よし」
マナがこちらを見る。
「その『よし』、私の真似?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「じゃあ、真似」
アリスは少しだけ瞬きした。
「シグレも、怖いですか」
「怖いよ」
「ですが、進むのですね」
「うん」
「なぜですか」
「ここまで落ちてきたら、帰り道より先に、会わなきゃいけない人がいるから」
アリスは頷いた。
「シオン」
「うん」
その名を口にした瞬間、タルタロスの鎖が鳴った。
セーフィエルが振り向く。
月光の魔女の顔から、余裕が消えていた。
「こっちよ」
彼女は言った。
「シオンは、最深部にいる」
「わかるの?」
マナが問う。
「母親だから」
「答えになってない」
「なるわ」
セーフィエルは歩き出した。
鎖の橋を渡っていく。
危うい足取りではない。何度も夢に見た道を、ようやく現実で歩いているかのようだった。
マナはその背中を睨む。
「勝手に進まないで」
「時間がないの」
「それはこっちも同じ!」
「あなたはアリスを守りたい。私はシオンを救いたい。目的が違うだけで、急いでいる理由は同じでしょう」
「アリスを犠牲にする気はない」
「私も、アリスを犠牲にするために作ったわけではないわ」
「でも、使う気はある」
「……ええ」
マナの短杖に光が宿る。
「だったら、信用できない」
「正しいわ」
セーフィエルは振り返らない。
「信用しなくていい。ただ、今は進まなければならない」
シグレは二人の間に立つように歩いた。
「喧嘩は帰ってからにしよう」
「帰れるならね」
マナが言う。
「帰るよ」
シグレは軽く言った。
「ハルナちゃんに、ただいまの予約してるから」
セーフィエルが少しだけ振り向いた。
「あなたは、不思議ね」
「よく言われる」
「タルタロスまで来て、帰りのお茶を考えている」
「こたつも」
「シオンも、そういうところがあったわ」
セーフィエルの声が、少しだけ柔らかくなる。
「あの子も、戦いの前に夕飯の話をするような子だった。怖い時ほど、どうでもいい話をした」
シグレは胸を押さえた。
「ボクが似てる?」
「少し」
「嫌?」
「わからない」
セーフィエルは正直に言った。
「娘を思い出して嬉しい。あなたがあの子ではないから苦しい。あなたにあの子を重ねる自分が憎い。全部あるわ」
「矛盾してるねぇ」
「母親は矛盾するものよ」
アリスが静かに言った。
「私も、矛盾したままです」
セーフィエルはアリスを見る。
何かを言いかけて、やめた。
彼女たちは進んだ。
タルタロスの最深部へ向かう道は、道ではなかった。
鎖の橋を渡り、凍った大地を横切り、溶岩の山の裂け目を抜け、硫酸の海の上に浮かぶ黒い石を踏む。どこを歩いても死者の声が聞こえる。時折、怪物が現れる。骨の翼を持つ獣。鎖を食う影。顔のないワルキューレの残骸。旧東京のビルの形をした巨大な黒い虫。
それらは、完全な生物ではなかった。
封印からこぼれた残骸。
死都東京の記憶。
タルタロスが夢見た悪夢。
シグレはムラサメで道を切り開いた。
マナは障壁を張り、術式で足場を固定した。
アリスは内部回路で封印圧の流れを読み、崩れそうな場所を告げた。
「左、足場崩落します」
「助かる!」
「前方、死者声圧上昇。マナ様、聴覚遮断を推奨します」
「了解!」
「シグレ、右側から鎖食い」
「見えてる」
「セーフィエル、血液流出が増えています」
「気にしないで」
「気にします。失血は機能低下を招きます」
「あなた、そういうところは本当に」
セーフィエルは一瞬、母の顔をした。
「優しい子ね」
アリスは答えに困ったように瞬きした。
「私は、優しいのですか」
マナが即答する。
「優しい」
「マナ様の評価を記録しました」
「私だけじゃない。あなたは優しい」
セーフィエルは前を向いた。
その横顔は、泣きそうにも見えた。
やがて、世界の中心のような場所へ出た。
そこには、海も山も氷もなかった。
ただ、巨大な黒い棺があった。
邪柩。
そう呼ぶしかないものだった。
棺と言うには大きすぎる。塔のようでもあり、要塞のようでもあり、巨大な心臓のようでもある。黒い素材でできているが、鉄ではない。骨でもない。闇そのものを固めたような質感だった。
邪柩の表面には、無数の鎖が巻きついている。
その鎖の一本一本に、白い文字が刻まれていた。
女帝ヌルの封印式。
ワルキューレの階位。
セーフィエルの封印補助式。
ヨムルンガルド結界の蛇紋。
魔導炉出力線。
裁きの門座標。
そして、シオンの名。
邪柩の中心に、少女がいた。
鎖に繋がれている。
眠っている。
タルタロスの夢で見た姿よりも、ずっと鮮明だった。
白い装束。
細い身体。
傷だらけの手。
閉じた瞳。
胸の中心から、黒い鎖と白い光が同時に伸びている。
シオン。
ワルキューレ第九位ノイン。
セーフィエルの娘。
タルタロス封印の楔。
彼女の魂が、邪柩を押さえている。
彼女の痛みが、闇の子の完全覚醒を防いでいる。
セーフィエルが、崩れるように膝をついた。
「シオン」
声が震えていた。
月光の魔女でも、反逆者でも、天才魔導士でもなかった。
ただ、娘を見つけた母親だった。
「シオン……!」
彼女は駆け出そうとした。
だが、マナが叫ぶ。
「待って!」
セーフィエルは止まらない。
その瞬間、邪柩の鎖が鳴った。
黒い衝撃が走る。
セーフィエルの身体が吹き飛ばされ、鎖の上へ叩きつけられた。
「セーフィエル!」
シグレが走り寄る。
セーフィエルは咳き込み、血を吐いた。
それでも彼女は、シオンから目を離さない。
「近づけない……まだ、近づけない……」
アリスの胸元の円環が激しく点滅する。
「邪柩封印は、シオンの魂を中心楔として固定しています。外部からの直接接触は、闇の子覚醒リスクを上昇させます」
マナが顔をしかめる。
「つまり、無理に外すと?」
「闇の子が目覚めます」
それを聞いた瞬間、邪柩の内側から声が響いた。
『めざめる』
『かえる』
『ひとつに』
『シオン……返せ』
『ヌル……返せ』
『痛い……痛い……痛い』
闇の子の声。
今までよりも近い。
ノイズはまだある。
だが、その奥にある感情は、はっきりしていた。
痛み。
孤独。
怒り。
そして、ひとつに戻りたいという願い。
マナが耳を押さえる。
「っ……これが、闇の子」
アリスの膝が崩れかける。
シグレが支えた。
「アリスちゃん!」
「大丈夫です。いえ、大丈夫ではありません。記録圧が増大しています。闇の子の思念が、私の内部回路へ侵入しようとしています」
マナがアリスを抱き寄せる。
「切って!」
「切断不能。私は、邪柩とヨムルンガルド結界の補助媒体として認識されています」
「そんな認識、捨てて!」
「捨てる方法が、わかりません」
アリスの声が小さく震えた。
「私は、自分の中にある目的を拒否したいです。ですが、同時に、この封印を支える方法を理解しています」
「理解しなくていい!」
「マナ様」
「アリスを壊す方法なんて、理解しなくていい!」
マナの叫びは、タルタロスの死者の声に混じって揺れた。
アリスは、マナを見上げた。
「私は、壊れたいわけではありません」
「当たり前よ!」
「ですが、何もしないでシオンを見捨てることも、したくありません」
マナの顔が歪む。
「どうして、みんなそういうこと言うの」
「みんな?」
「シグレも、セーフィエルも、あなたも。見捨てられないって、簡単に言う。でも、見捨てないために自分を壊すのは違うでしょ!」
アリスは黙った。
その言葉は、アリスだけに向けられたものではなかった。
セーフィエルにも。
シグレにも。
シオンにも。
そして、ヌルにも。
邪柩の上空で、白い光が差した。
裁きの門の外から、闘神ヌルの光が伸びている。
門のこちら側までは完全には入れない。だが、彼女は外側から封印を支えていた。巨大な光輪が、タルタロスの空の代わりに輝く。
『シグレ』
ヌルの声が響く。
『時間がない。セーフィエルが邪柩へ触れれば、闇の子が覚醒する。シオンをそのままにすれば、門は閉じられる。ただし、シオンはまた眠る』
「それが、君の答え?」
『それが、これまでの答えだ』
ヌルの声は硬かった。
『アタシは帝都を守る。世界を壊さないためなら、同じ罪をもう一度選ぶ』
セーフィエルが顔を上げる。
「ヌル……!」
『セーフィエル。キミがシオンを救いたいことは知っている。でも、あれを外せば闇の子が出る』
「なら、一緒に考えればよかったでしょう!」
セーフィエルの叫びが、邪柩の前で響いた。
「私を追放して、シオンの名を消して、欠番にして、夢殿の奥に隠して、帝都の聖画から消して! それで、いつか私が諦めると思ったの!?」
『思っていない』
「なら!」
『だから見張っていた』
セーフィエルは笑った。
血に濡れた顔で、怒りと悲しみを混ぜて笑った。
「本当に、あなたは神ね」
『そう呼んだのは人の子だよ』
「そして、私は母親よ」
セーフィエルは立ち上がる。
血で濡れた手を、邪柩へ伸ばす。
「シオンを、返して」
闇の子の声が重なる。
『シオン……返せ』
『ヌル……返せ』
『ひとつに……戻せ』
邪柩が震える。
シオンの身体が、鎖に引かれて軋む。
シグレの胸が割れるように痛んだ。
意識が、引き込まれる。
シオンの声が聞こえた。
――シグレ。
次の瞬間、彼は精神世界にいた。
そこは、タルタロスではなかった。
夢殿でもない。
死都東京の駅でもない。
小さな庭だった。
白い花が咲いている。
風が吹いている。
遠くに、まだ建設途中の帝都の塔が見えた。
シオンがそこに立っていた。
ワルキューレの白い装束ではない。
普通の少女のような服を着ている。髪は少し乱れ、手には剣がない。顔には疲れが残っているが、鎖はない。
シグレは、彼女を見た。
「ここは?」
「わたしが忘れたかった場所」
シオンは言った。
「でも、忘れきれなかった場所」
「夢?」
「精神の隙間。あなたの残響と、わたしの魂が触れている場所」
シグレは胸を押さえた。
痛みがある。
だが、タルタロスで感じたような引き裂かれる痛みではない。
人の痛みだった。
「シオン」
「うん」
「君を助けに来た」
シオンは、少しだけ笑った。
「そう言ってくれる人が、まだいたのね」
「セーフィエルがいる」
「母さんは、ずっと来ようとしていた」
「マナもいる。アリスもいる。ヌルも、外から封印を支えてる」
「ヌル様も」
シオンは、目を伏せた。
「そう。まだ、支えているのね」
「憎んでる?」
シオンはすぐには答えなかった。
白い花が揺れる。
「憎んだこともある」
「うん」
「どうしてわたしなの、って思った。どうして母さんじゃ駄目なの。どうしてヌル様じゃ駄目なの。どうして世界は、わたし一人の痛みを必要とするの、って」
シグレは何も言えない。
「でも、わたしはワルキューレだった。剣を持っていた。帝都を守りたかった。闇の子が出れば、たくさんの人が壊れるとわかっていた。だから、最後に逃げなかった」
「それは、自分で選んだこと?」
シオンは悲しそうに笑った。
「今なら、わからない」
その答えが、いちばん痛かった。
「選んだようにも思う。選ばされたようにも思う。誇りだったようにも思う。諦めだったようにも思う。母さんに謝りたかった。ヌル様を許せなかった。帝都を守りたかった。全部、本当だった」
矛盾。
この物語に出てくる者たちは、みんな矛盾している。
セーフィエルも。
ヌルも。
アリスも。
シグレも。
シオンも。
シオンはシグレを見る。
「あなたは、わたしではない」
「うん」
「だから、わたしの代わりに眠らなくていい」
その言葉は、シグレの胸の奥へまっすぐ届いた。
「でも、ボクの中に君の残響がある」
「あるわ」
「君の痛みも知ってしまった」
「うん」
「見捨てたくない」
「ありがとう」
「でも、君の代わりにはなれない」
シグレは、自分の言葉を確かめるように言った。
「ボクは、シオンじゃない。ノインでもない。君の残響があっても、君の剣筋が手に残っても、君の痛みで胸が痛くても」
白い花が強く揺れた。
「ボクはシグレだ」
初めて、はっきりと言えた。
眠たげな雑貨店店長。
面倒ごとが嫌いで、こたつが好きで、ハルナに叱られて、マナに怒鳴られて、アリスと約束して、クレハに利用されて、シンに高額請求される。
帝都の天使と呼ばれても。
ノインの残響を持っていても。
裁きの門に呼ばれても。
それでも、自分はシグレだ。
シオンは、少しだけ目を見開いた。
それから、笑った。
泣きそうなほど、嬉しそうに。
「よかった」
「よかった?」
「あなたが、わたしにならなくて」
彼女は、そっとシグレへ手を伸ばした。
「わたしの痛みを知ってくれてありがとう。でも、持っていかなくていい。わたしの役目を、あなた一人で背負わなくていい」
「じゃあ、どうすればいい?」
シオンは、遠くを見る。
そこにはタルタロスの鎖がうっすら見えていた。
「わたしを、ほどいて」
「ほどいたら、闇の子が」
「だから、ほどき方を変える」
「どうやって?」
「一人を楔にするのを、やめる」
シグレの呼吸が止まる。
シオンは続ける。
「わたし一人に集められた封印の役目を、分ける。あなたの残響、アリスの記録回路、ヨムルンガルド結界、ヌル様の光、そして……闇の子自身の眠りへ」
「闇の子自身?」
「あれは、壊したいだけじゃない。戻りたいだけ。痛みが大きすぎて、全部を飲み込もうとしている。でも、声を聞けば、眠りの形を変えられるかもしれない」
「失敗したら?」
「帝都が壊れる」
「重いなぁ」
「うん」
「ボク一人じゃ無理だね」
「一人じゃないでしょう」
その言葉で、シグレは現実へ戻った。
邪柩の前。
タルタロスの最深部。
マナがアリスを抱えている。
セーフィエルが血まみれでシオンへ手を伸ばしている。
闘神ヌルの光が門の外から差し込み、封印を支えている。
闇の子の声が響いている。
シグレは立ち上がった。
「方法がある」
全員の視線が彼に向いた。
セーフィエルが震える声で問う。
「シオンと話したの」
「うん」
「何て」
「ボクは、シオンじゃないって」
セーフィエルの顔が歪む。
「それは……わかっているわ」
「でも、シオンの痛みを知ってる。だから、見捨てない」
セーフィエルの目に、涙が溜まる。
「助けられるの?」
「完全に元に戻すのは無理だと思う」
「……」
「でも、永遠に一人で眠らせるのはやめられる」
ヌルの声が響いた。
『何をするつもり?』
「封印を分ける」
シグレは言った。
「シオン一人に集まっている楔の役目を、ボクとアリスちゃんとヨムルンガルド結界に分散する。ヌルの光も借りる。闇の子の眠りも、押さえ込むんじゃなくて、少しだけ形を変える」
『無茶だね』
「よく言われる」
『失敗すれば帝都が落ちる』
「成功しても、君の今までの秩序は変わる」
『それをアタシに飲めと言うの?』
「飲めない?」
沈黙。
闘神ヌルの光が揺れた。
『……シオン一人に背負わせ続ける秩序は、もう限界だ』
その声は、神のものではなかった。
長い時間、罪を見ないふりせずに見続けてきた者の声だった。
『いいよ。やってみせて、人の子』
セーフィエルが叫ぶ。
「シオンを完全に返して!」
シグレは彼女を見る。
「返すよ」
「嘘」
「君が昔の娘を抱きしめることは、もうできないかもしれない」
「そんなの」
「でも、永遠に苦しむ人柱からは解放する」
セーフィエルは震えていた。
怒りで。
悲しみで。
希望で。
絶望で。
「それは、救いなの」
「わからない」
シグレは正直に言った。
「でも、シオンは、代わりに誰かが眠ることを望んでない」
「……あの子らしいわ」
セーフィエルは泣いた。
初めて、はっきり泣いた。
「本当に、あの子らしい」
アリスが一歩前に出る。
マナが抱き止める。
「待って」
「マナ様」
「駄目」
「まだ、何も言っていません」
「言う顔してる」
「顔で判断されました」
「判断するわよ。あなた、今から自分を封印に使うって言うつもりでしょ」
「はい」
「駄目!」
マナの声が、タルタロスに響いた。
「絶対に駄目。私はあなたを守るって決めた。誰かの再現でも、封印の端末でも、セーフィエルの未練でもなく、アリスとして守るって決めた!」
アリスは、静かにマナを見た。
「マナ様」
「何」
「私は、誰かの再現ではありませんね」
「そうよ」
「私は、失敗作ではありませんね」
「当たり前よ」
「私は、アリスですね」
「そう」
「では、私が選びます」
マナの顔が凍る。
アリスは、マナの手をそっと握った。
「私は、シオンの代わりに眠りません。誰かの人柱にもなりません。ですが、記録します。シオンがいたこと。痛かったこと。ヌルが選んだこと。セーフィエルが泣いたこと。闇の子が痛いと叫んだこと。シグレがシグレとして選んだこと」
アリスの胸元の円環が、柔らかい光に変わる。
「私は、封印を支える新しい記録媒体になります。楔ではなく、記録として。誰か一人が消されないように」
マナの目から涙が落ちた。
「壊れない?」
「わかりません」
「そこは嘘でも壊れないって言って」
「嘘は不適切です」
「こういう時くらい!」
「壊れないように努力します」
「……それで許すと思う?」
「思いません」
「じゃあ、なんで」
「マナ様が私をアリスだと言ってくれたからです。私は、アリスとして選びます」
マナは、アリスを抱きしめた。
強く。
壊れないように、でも離さないように。
「絶対、戻ってきなさい」
「はい」
「約束」
「約束、記録しました」
シグレはムラサメを構えた。
青白い刃が、今まででいちばん静かに光っている。
セーフィエルは、血に濡れた手をシオンへ伸ばす。
ヌルの光が、門の外から降る。
アリスの円環が、記録媒体として開く。
マナがその背後で、全力の防御術式を展開する。
闇の子が囁く。
『シオン……返せ』
『ヌル……返せ』
『ひとつに……戻せ』
シグレは、その声へ向かって言った。
「ひとつには戻れない」
闇が震える。
「ヌルはヌル。君は君。シオンはシオン。ボクはシグレ。アリスちゃんはアリス」
ムラサメの刃が、鎖へ触れる。
「でも、声は聞く」
最初の鎖を斬った。
断ち切るのではない。
ほどく。
シオンの魂に食い込んでいた封印の重みを、一部だけ外し、アリスの記録回路へ、ヨムルンガルド結界へ、シグレの残響へ、そしてヌルの光へ分散する。
痛みが来た。
シグレは叫びそうになった。
シオンの痛み。
長い時間の孤独。
母に会いたかった気持ち。
帝都を守りたかった誇り。
ヌルを許せなかった怒り。
それでも誰かを恨みきれなかった優しさ。
全部が流れ込む。
でも、飲まれない。
シグレは歯を食いしばる。
「ボクは……シグレだ」
もう一本、鎖をほどく。
アリスが震える。
「記録圧、上昇。ですが、保持可能。シオンの存在記録を保持します」
「アリス!」
マナが支える。
「私は、ここにいます」
アリスは言った。
「私は、アリスです」
セーフィエルが泣きながら、シオンの名前を呼ぶ。
「シオン……!」
シオンの瞼が、ゆっくりと開いた。
現実のタルタロスで。
邪柩の前で。
長い長い封印の中で、初めて彼女は目を開けた。
その瞳に、セーフィエルが映る。
「母さん」
声は小さかった。
けれど、確かに届いた。
セーフィエルは崩れ落ちた。
「シオン……!」
手を伸ばす。
まだ触れられない。
鎖はすべてほどけたわけではない。
封印は再構成の途中だ。
だが、シオンはもう、ただの楔ではなかった。
彼女は母を見ていた。
自分の名前を、自分の声で呼んでいた。
闇の子が叫んだ。
『返せ』
『返せ』
『ヌル……シオン……光……闇……』
『ひとつに……』
その声が、突然、門の外へ抜けた。
再構成の隙間。
ほどけた鎖の隙間。
シオンの魂が人柱から外れ始めた、その一瞬。
闇の子の思念が、現世へ接続した。
帝都エデンの空が黒く染まった。
ホウジュ区の人々が空を見上げる。
カミハラ区の研究塔が揺れる。
アツギ中枢区の夢殿の白い光が一瞬、黒く反転する。
ヴァルハラ宮殿の上空で、闘神ヌルの光輪が軋む。
帝都全域に、声が降った。
『聞こえる』
それは、ノイズではなかった。
一瞬だけ、はっきりした声だった。
『わたしも、ここにいる』
世界が止まった。
女帝ヌルの光の都市に、闇の子の存在証明が刻まれた。
タルタロス最深部で、シグレはムラサメを握りしめる。
アリスは記録回路を開き続ける。
マナは泣きながらアリスを支える。
セーフィエルは、シオンへ手を伸ばす。
シオンは、まだ鎖の中で、それでも確かに目を開けている。
そして、封印の再構成は始まった。
戻れない場所まで、すべてが動き出していた。




