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第六章 光秀軍の動揺

本能寺の炎が京の空を赤く染めた翌朝、明智光秀は二条御所の焼け跡を見つめていた。

信長の死――その事実は光秀の胸に重くのしかかっていたが、同時に天下への道が開けたと確信していた。


「これで……天下は我が手に……」


光秀は呟いた。

だが、その声にはわずかな震えがあった。


そこへ、慌ただしく駆け込んでくる家臣の姿があった。


「殿――妙覚寺にいた信忠様が……!」


光秀は振り返った。


「信忠がどうした」


家臣は息を切らしながら叫んだ。


「妙覚寺を突破し、安土へ向かわれました!

 すでに近江路を抜け、安土城に入られたとのこと!」


光秀の顔から血の気が引いた。


「……何だと」


信忠は二条御所に籠もり、そこで討ち死にする――

それが光秀の計算だった。

信忠が生きて安土へ戻るなど、想定していなかった。


「信忠が……安土へ戻った……?」


光秀は震える声で繰り返した。


家臣たちは顔を見合わせ、沈黙した。

その沈黙が、光秀の胸にさらに重くのしかかった。


やがて、光秀の本陣に不穏な噂が広まり始めた。


「信忠様が安土で兵を集めているらしい」


「国友の鉄砲鍛冶が織田家に協力しているそうだ」


「近江、美濃、尾張の兵が安土へ向かっているとか……」


「織田家はまだ終わっていない……?」


兵たちの声は、光秀の耳にも届いていた。


光秀は苛立ちを隠せなかった。


「信忠が生きているだけで、これほど動揺するのか……!」


家臣の一人が恐る恐る口を開いた。


「殿……織田家の兵は、信忠様を中心に再び結束しつつあります。

 このままでは、我らが京を掌握する前に、安土から大軍が押し寄せるやもしれませぬ」


光秀は拳を握りしめた。


「……信忠を討たねばならぬ。

 信忠を討たぬ限り、天下は我が手に入らぬ」


だが、その言葉は自分自身に言い聞かせるような弱さを帯びていた。


さらに悪い報せが続いた。


「殿! 細川藤孝殿が離反いたしました!」


「筒井順慶殿も動かず、援軍を拒否しております!」


「丹波・近江の国人衆が、織田家に再び従う動きを見せております!」


光秀は怒りに震えた。


「なぜだ……!

 信長は死んだのだぞ!

 なぜ皆、織田家に戻る!」


家臣は静かに答えた。


「殿……信忠様が生きておられるからです。

 織田家の嫡男が健在である限り、諸将は織田家を見捨てませぬ」


光秀は膝に手をつき、深く息を吐いた。


「信忠……お前さえいなければ……」


その呟きは、光秀自身の焦りと恐怖を露わにしていた。


その夜、光秀は本陣の地図を前にして一人考え込んでいた。

京を掌握する前に、安土から大軍が押し寄せる可能性がある。

信忠が兵を整えれば、光秀軍は挟撃される。


「……山崎で決着をつけるしかない」


光秀は地図に手を置いた。


「信忠が安土で兵を整える前に、京を固め、山崎で迎え撃つ。

 ここで勝てば、天下は我が手に入る。

 負ければ……すべてが終わる」


光秀は目を閉じた。

その瞼の裏には、信長の怒りの顔が浮かんだ。


「信長様……私は間違っていない……はずだ……」


だが、その言葉は自分自身を説得するような弱さを帯びていた。


光秀軍は動揺していた。

そして光秀自身もまた、信忠生還という“誤算”に追い詰められていた。


山崎の戦いは、すでに始まっていた。




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