第三章 近江路の疾走
京を抜けた瞬間、夜の空気は一変した。
燃え上がる京の熱気が嘘のように消え、近江へ続く街道には冷たい風が吹き抜けていた。
「殿、追撃はまだ来ませぬ!」
先頭を走る騎馬武者が振り返って叫ぶ。
信忠は馬上で頷いた。
「光秀は父上を討つために全兵力を京へ集中させている。
我らが妙覚寺を突破したことは、まだ伝わっておらぬだろう」
その声は落ち着いていた。
だが、胸の奥には燃えるような焦りがあった。
――急がねばならぬ。
安土へ帰り、兵を整え、光秀を討つ。
父の天下を守るために。
信忠は馬の腹を軽く蹴った。
軍勢は一斉に速度を上げ、近江路を駆け抜けた。
近江路は、信長が整備した“天下の大動脈”だった。
宿場町は広く、道は平らに均され、橋は頑丈に架けられている。
夜でも松明を灯せば進軍できるほど整備されていた。
「殿、道が整っているおかげで、兵の疲れが少なく済みます」
家臣の言葉に、信忠は静かに頷いた。
「父上の普請は、戦のためだけではない。
天下を治めるための道だ。
その道が、今、我らを救っている」
信忠はふと、父の姿を思い出した。
安土城の天守から天下を見渡し、
「道を制する者が天下を制す」と語ったあの夜を。
その言葉が、今まさに現実となっていた。
やがて、近江の宿場町・草津に到着した。
夜半にもかかわらず、町人たちは信忠の姿を見ると驚き、すぐに動き始めた。
「織田様のお通りだ! 道を開けよ!」
「水を持て! 兵たちに飲ませて差し上げろ!」
「馬の世話を急げ!」
信忠は馬を降り、町の者たちに深く頭を下げた。
「この混乱の中、助けてくれて感謝する。
織田家は必ずこの恩に報いる」
町人たちは驚き、そして胸を熱くした。
信忠の言葉は、信長とは違う“柔らかさ”を持っていた。
「殿……信忠様は、父上とはまた違うお方ですな」
家臣が呟くと、信忠は微笑んだ。
「父上の道を継ぎつつ、私の道を作るだけだ」
草津を出ると、国友の鉄砲鍛冶から使者が駆けてきた。
「信忠様! 妙覚寺を突破されたと聞き、急ぎ参りました!」
「国友が、我らのために動いてくれたのか」
「はい! 鉄砲百挺、火薬、弾薬を安土へ運び込んでおります!
光秀討伐のため、国友は総力を挙げて織田家に協力いたします!」
信忠は深く頷いた。
「国友の鉄砲は天下一だ。
その力を借りて、必ず光秀を討つ」
使者は涙ぐみながら頭を下げた。
「信忠様……どうか、天下をお取りください。
信長様の夢を、どうか……」
信忠は馬上から使者の肩に手を置いた。
「父上の夢は、私が必ず継ぐ。
そのために、安土へ帰る」
夜明けが近づく頃、安土城の天守が遠くに見え始めた。
その姿は、まるで信忠を迎えるかのように、闇の中で静かに輝いていた。
「殿、安土が見えます!」
兵たちの声が高まる。
疲れ切った顔に、希望の光が宿った。
信忠は馬を止め、安土城を見つめた。
「父上……私は帰ってきました。
ここから、織田家の反撃が始まります」
その言葉は、夜明けの風に乗って安土へ届いたかのようだった。
信忠は馬を走らせた。
安土城へ――天下を奪い返すために。




