第二章 妙覚寺脱出戦
妙覚寺の山門を揺らすように、太鼓の音が響いた。
明智勢が包囲を狭めている合図だった。
火縄の赤い光が闇に点々と浮かび、まるで寺を呑み込む獣の眼のように見える。
「殿、敵は三方より迫っております。
このままでは夜明けまで持ちませぬ」
報告した家臣の声は震えていた。
だが信忠は、妙覚寺の本堂の前に立ち、静かに夜空を見上げた。
「夜明けまで持つ必要はない。
夜明け前に、ここを出る」
「しかし、殿――!」
「光秀は父上を討った。
ならば次に狙うのは、織田家の嫡男である私だ。
ここで籠もれば、父上と同じ運命を辿るだけだ」
信忠は振り返り、家臣たちを見渡した。
その眼差しは、炎のように強く、しかし不思議なほど澄んでいた。
「我らは安土へ帰る。
織田家の本拠で兵を整え、光秀を討つ。
この妙覚寺は、我らの墓所ではない」
その言葉に、兵たちの顔から恐怖が消えた。
代わりに、静かな闘志が宿る。
寺の裏手にある細道は、京の町へ抜ける唯一の脱出口だった。
だがそこにも、すでに明智勢が布陣している。
「殿、裏手の道は狭く、鉄砲隊を並べられませぬ」
「だからこそ、鉄砲隊を先頭にする」
信忠は即座に答えた。
「狭い道では、敵は横に広がれぬ。
ならば、我らの鉄砲を正面から浴びせればよい」
その判断は、信長譲りの“地形を読む才”だった。
「鉄砲隊、火縄を点けよ。
撃つのは一度でよい。
その一撃で道を開く」
兵たちは火縄を点け、闇の中で赤い光が揺れた。
「殿、敵が迫ります!」
「よい。全員、息を殺せ」
妙覚寺の裏門が静かに開いた。
冷たい夜風が流れ込み、兵たちの頬を撫でる。
信忠は馬を降り、歩いて先頭に立った。
総大将が自ら先頭に立つ――その姿に、兵たちは胸を熱くした。
「撃て――!」
信忠の声と同時に、轟音が闇を裂いた。
鉄砲隊の一斉射撃が、狭い道に密集していた明智勢を吹き飛ばす。
硝煙が白く立ちこめ、敵の悲鳴が夜に響いた。
「突撃せよ! 道を開け!」
信忠は刀を抜き、煙の中へ飛び込んだ。
敵兵が槍を突き出すが、信忠は一歩踏み込み、刃を閃かせた。
「ぐっ……!」
敵兵が倒れる。
信忠は振り返らず、前へ前へと進む。
「殿の後に続けぇッ!」
兵たちが一斉に駆け出し、狭い道を突破した。
明智勢は混乱し、包囲が崩れ始める。
京の町へ抜けると、夜の闇が広がった。
遠くで火の手が上がり、京の町は混乱の渦中にあった。
「殿、京を抜ければ、近江路へ出られます!」
「急ぐぞ。光秀の追撃が来る前に、京を離れる」
信忠は馬に跨り、兵たちを率いて京の町を駆け抜けた。
町人たちが逃げ惑い、火の粉が舞う中、信忠の軍勢は一直線に北へ向かった。
妙覚寺の包囲は破られた。
信忠は生き延びた。
そして――
この瞬間、織田家の未来もまた、生き延びた。
信忠は馬上で、燃え上がる京の空を振り返った。
「父上……必ず、天下を守ります」
その言葉は、夜風に消えた。
だが、信忠の胸には確かな炎が灯っていた。
安土へ帰る。
兵を整える。
光秀を討つ。
ここから、信忠の天下が始まる。




