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第一章 炎上する京の空

京の空が赤く染まったのは、未明の刻であった。

六月の湿り気を含んだ風が、妙覚寺の瓦を震わせる。

遠く、本能寺の方角から黒煙が立ちのぼり、火の粉が夜空に散っていた。


「殿――本能寺が、明智勢に囲まれております!」


荒々しく駆け込んできた使者の声が、静寂を破った。

織田信忠は、寝所から飛び起きると、襖を開け放ち、燃え上がる京の空を見つめた。


「父上が……」


言葉はそこで途切れた。

胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。

だが、信忠の顔に絶望はなかった。

ただ、烈火のような決意だけが宿っていた。


「妙覚寺を出る。二条御所には向かわぬ」


側近たちは息を呑んだ。


「殿、それでは……! 二条御所に籠もられれば、援軍が――」


「援軍など来ぬ。光秀は父上を討つために、すべてを整えている。

 ならば、我らは父上の死を無駄にせぬために、動かねばならぬ」


信忠はゆっくりと刀を帯び、具足を身につけた。

その動作は驚くほど静かで、しかし揺るぎなかった。


「安土へ戻る。織田家の本拠で兵を整え、光秀を討つ。

 父上の天下を、必ず守る」


その言葉は、妙覚寺の薄暗い堂内に、鋼のように響いた。


寺の外では、すでに明智勢の先遣隊が包囲を狭めていた。

槍の穂先が月光を反射し、鉄砲の火縄が赤く燃えている。


「殿、妙覚寺は包囲されております! 突破は困難かと!」


「困難だからこそ、突破するのだ」


信忠は馬に跨り、兵たちを見渡した。

恐怖に震える者もいたが、信忠の眼差しを受けると、皆が静かに頷いた。


「我らは織田の兵だ。父上の天下を継ぐ者だ。

 ここで死ぬことは許されぬ。

 安土へ帰り、光秀を討つ――それが我らの使命だ」


信忠は刀を抜いた。

月光が刃に走り、白い光が兵たちの顔を照らした。


「突撃する。

 鉄砲隊、前へ!

 撃ち抜け、道を開け!」


轟音が夜を裂いた。

鉄砲隊の一斉射撃が、妙覚寺の門前にいた明智勢を吹き飛ばす。

火縄の火が揺れ、硝煙が立ちこめる。


「続け! 続けぇッ!」


信忠は馬を駆け、敵陣へ突っ込んだ。

槍を避け、刀で斬り伏せ、血飛沫が夜気に散る。


若き総大将の姿は、まるで炎そのものだった。

燃え上がる京の空を背に、信忠は前へ前へと進む。


「安土へ帰る! 父上の天下を守るために!」


兵たちの声が重なり、妙覚寺の包囲は崩れた。

信忠の軍勢は、京の闇を切り裂き、近江へ向けて疾走した。


その背後で、本能寺の炎はさらに高く燃え上がり、

信長の時代の終わりを告げるように、京の空を赤く染め続けていた。


だが――

その炎の中から、新たな天下人が生まれようとしていた。


織田信忠。

父の夢を継ぎ、さらにその先へ進む男。


この夜、歴史は静かに、しかし確かに分岐した。

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