逆転
ホロウ公爵が強引に、アネットの服の胸元をはだける。
「あぁっ⁉」
大きく盛り上がった胸の膨らみがふるんと揺れる。
まるでそれを歓迎するように。
ホロウ公爵がごくりと息を呑むのが分かる。
違う。そんなつもりはない。
秘かに少し自慢だったここに触れていいのはメイルだけ。
メイルだけだったはずだ。
「嫌! 嫌! 嫌! 嫌っ!」
パァン!
頭の中に、雷でも落ちた様な衝撃が響く。
ホロウ公爵の大きな手が、アネットの頬を張ったのだ。
「あ……あ……」
かなりの衝撃で、一瞬意識が朦朧とする程だった。
「アネット。落ち着いて、よく考えるのだ」
「……?」
「もうお前には私しかいない。私しかいないのだ」
それは、そうかも知れない。
メイルとの婚約は既に破棄されてしまっている。
彼が本音ではアネットを快く思っていなかったという事も叩きつけられてしまった。
……いや、あれが嘘に近いような誇張した表現だったら?
メイルが執事やホロウ公爵を警戒してああ言わざるを得なかったとしたら――
この事態を引き起こしたのがこの父だったとしたら――
それはそれで、アネットは部下を殺しその罪をファーム侯爵家に擦り付けようとした大罪人の娘になる。
それが表沙汰になれば、公爵令嬢のままではいられないだろう。
そしてファーム侯爵家にとっては不倶戴天の敵となる。再び婚約など出来るはずがない。
メイルが犯人でも、父や執事が犯人でも、どちらにしても自分の望む未来はないのだ。
「お父様……一つだけ聞かせて。全部、メイルに罪を着せるためにお父様がやったの?」
「そうだ。具体的な計画は執事に任せたが、な。私はお前を手にいられれればそれでいい」
「そう……分かりました」
今、はっきりと意識した。
この世界はアネットにとっては夢も希望もない。
今思えば――父ホロウ公爵や執事達を何の疑いも無く信じるべきでは無かった。
彼等がアネットを見る異常な目に、気づかなければいけなかった。
婚約を破棄すると通達された時、不安になってメイルに縋りに行くべきでは無かった。
メイルはきっと気づいていた。だから敵だらけの中で迂闊な事は言えなかったのだ。
最近のメイルは優しくなった。アネットの事も気遣ってくれていた。
そのメイルなら、明らかに何も知らないアネットを巻き込むわけには行かないと思うだろう。だから突き放すしかなかったのだ。
その真意に気付けず、アネットは感情のままにメイルを殴った。
婚約破棄にも頷いた。最後の決断をしたのは他ならぬ自分自身だ。
自分は通達を受けても頑として認めず、メイルを信じて待っていれば良かったのだ。
メイルは先日、問題行動はもうしないと約束してくれていたではないか。
何故それを信じてあげられなかったのか――
そうすれば、ここでメイルに助けを求めて叫ぶ権利くらいはあっただろう。
だが今それに気付いた所で、もう遅い。
そう分かった時――アネットの瞳は輝きを失い、深く昏く濁ってしまった。
「もういいわ。好きにして下さい」
魂の抜けたような眼差しで、一切の抵抗を止めて力を抜いた。
もうどうでもいい、どうでも――
バンッ!
バルコニーに続く窓が開く音。
「む……⁉ 何者か!?」
ホロウ公爵は慌ててそちらに視線を向ける。
しかし窓際に誰の姿もない。
強風に煽られて、一人でに開いたのだろうか。
「ふん。人騒がせな。さあ、アネット……」
「はい。優しくして下さいね♡」
気色の悪い男の猫撫で声が返って来る。
いつの間にか、そこにいた筈の欲しくてたまらなかった女が、暗黒騎士か呪剣士のような姿にすり替わっていた。
◆◇◆
「な、何故お前がここにいる、メイル! 気色の悪いッ!」
背影殺だ。
窓を開けて侵入した瞬間に、アネットに向けて発動した。
公爵は窓の方を見ていたが、俺はその隙にアネットと入れ替わったのである。
「どっちがだよ! この性犯罪者がッ!」
金的攻撃!
俺はホロウ公爵の股間を思い切り蹴り上げる。
子供も孫もいた身としては、こんな行為は許せない。虫唾が走る。
「ぐおっ!?」
たまらずベッドから転がり落ちるホロウ公爵。
「アネット! 来い!」
ベッド脇で蹲っているアネットの腕を引っ張る。
「メイル……」
目が今までのアネットではない。
虚ろで、感情があまり感じられない。
余程怖い思いをしたのだろう。ともかく安全な場所に!
「メイル! こちらです!」
バルコニーに続く窓の所に、セネリオ王子が姿を見せる。
俺と王子はバルコニーの所に潜んで中の様子を窺っていた。
そこで機会を見て踏み込んだのだ。
「はい!」
アネットを引っ張り、バルコニーへ。
逃げ場が無くなると思われるかも知れないが、そうではない。
「皆、障壁を!」
「「「はい! 王子っ!」」」
下にセネリオ王子に帯同して来た近衛騎士達がいる。
彼等がクッションになる魔法の障壁を張ってくれた。
俺はアネットを抱え上げ、セネリオ王子と共にバルコニーからジャンプする。
障壁は柔らかく俺達を受け止めてくれ、無傷で館の庭へと着地できた。
「皆、聞いて下さい。今回の件、メイルに罪を着せるためにホロウ公爵が企てたものと認定します。これから公爵の身柄を拘束します。いいですね!?」
「「「ははっ!」」」
近衛騎士隊が一斉に抜刀する。
精鋭の近衛騎士が五人。これは頼もしい。
「出会え、出会え! 侵入者だ! 逃がすな!」
バルコニーに姿を見せた公爵が叫ぶ。
「侵入者!? いたぞ!」
「皆集まれ! ここだぞ!」
兵士達が集まって来て俺達を取り囲む。
数は向こうの方が何倍も多いが――
「あ、あれ王家の紋章じゃないか?」
「ああ、近衛騎士だ……! じゃあ、それを率いるのは」
「「「セネリオ王子っ!?」」」
それを見て、セネリオ王子が王家の紋章入りの剣を抜いて掲げる。
「その通りです! 国王の名代として、グレン子爵一家の毒殺、及びその罪をメイル・ファームに負わせようとした咎により、ホロウ公爵を断罪します!」
セネリオ王子は凛とした威厳を漲らせて周囲を圧倒する。
凄いカリスマだ。流石主人公、俺も背筋が伸びる。
「これに手向かえば、あなた方も同罪と見做します! それが嫌なのであれば、武器を捨てなさい!」
一般兵がそれに抗えるわけもなく、次々に剣や槍が地面に放り投げられる。
「ぐ……! お前達っ!?」
その光景に、ホロウ公爵は悔しそうに歯噛みする。
「さあ、諦めて降伏なさい。さもなくばその罪、一族郎党に及びますよ!」
セネリオ王子の警告を受けて、ホロウ公爵が視線を向けたのはアネットの方だ。
逡巡しているようにも見える。
アネットの事を思うなら、ここはもう諦めて、せめて大人しく裁きを受けるべきだ。
俺としては、最後に親として正しく娘を思う行動を期待したい。
アネットにも公爵に降伏を呼びかけて欲しい所だ。
だがアネットにはそんな余裕はないらしい。
公爵と目が合うと、縋り付くように俺の腕にぎゅっと抱きついてくる。
そして体をガタガタと震わせている。
あ、マズイか。
「!」
それを見たホロウ公爵が、酷く傷ついた顔をする。
まるで好きな娘にふられた青少年だ。
だから娘をそんな目で見るなと。
公爵はがっくりと肩を落とし――
いきなりバルコニーから身を躍らせる。
身投げか!?
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