梅宮宵子編 下
ピロンッ
通知音が鳴る。
宵子はスマホを見ていなかったが、そのメッセージの相手を直感する。
およそ間違いなく門松だ。
ピロンッ
立て続けに着信する。宵子はお風呂にも入らないで、自室のベッドの上で横になっていた。あまりにも今日という日に疲れていたから。
宵子は動くのも辛い心地だが、なんとか寝転んだままスマホを手に取りメッセージを確認する。
『今日は楽しかったです!失礼かもですけど、宵子さん食べっぷりが良くって、見ていて気持ちよかったです笑。また、美味しいお店探しときますね!』
——違う。あんたに気を遣っただけ…。
『最後に好きとか言って困らせちゃいましたよね、、宵子さんとはなんというか共感できることが多いし、話しやすくって笑。運命なんじゃないか、なんて思ったんです笑』
——こいつは何を言っているんだ?わたしはむしろ今日話していて違うところばかりを見つけたのに。
宵子はもう門松に会う気はしなかった。しかし、少なくとも今日一緒に過ごして、よくしてくれた相手に失礼なことをする気にはなれなくて、メッセージだけは返すことにした。
『今日は楽しかったです。また、どこか行きましょう!』
——ぷっ、どこかってどこよ。これで十分でしょ。こんなに素っ気ない返信がくればいかな鈍チンでもわかるはず…。
ピロンッ
『次はどんな所が良いですか笑?俺が決めてよければ次は水族館にしません?夜の、本来なら閉館後の時間帯に行くツアーみたいなのがあって、いつか行ってみたいなって思ってたんです!来週末とかあいてます?』
門松の返信の速さに喉が詰まるような感覚を覚える宵子。あまりに返信が速いので、既読がついてしまう。
「うわわ!はやっ!」
「はぁ、仕方ない、返すか…。」
『すみません、、来週末はちょっと母と出かける用事があって。ごめんなさい。また、行けそうな日があったら連絡しますね!』
宵子はそれだけ打ち込んで送信ボタンを押してすぐにメッセージアプリを落とす。
——これでも返ってくるのだろうか?次はもう無視しよう。というか、あとでブロックしておこう…。
「今日はもう終わり、寝てしまおう……。」
———
翌朝。
ベランダに入り込んだ雀がちゅんちゅんと鳴く声に目が覚める。
普段宵子は寝る前、というか夜になれば遮光カーテンを閉める。しかし、昨日はレースのカーテンのみで寝てしまっていたらしく、明るい日差しが床を照らしていた。
宵子は少し躊躇しつつも、スマホを手に取る。昨夜の内に由美に連絡をしなかったので何かメッセージが来ているかもしれない。
スマホの画面には通知が溜まっていた。動画の更新、服や化粧品の広告メール、由美からのメッセージ。
そして、門松からのメッセージ。
内容は見たくなかった。昨日の返信は彼を振ったようなものだ。しかし、鈍感な門松のことだから振られたことにも気づかないで、メッセージをしてきているかもしれない。
宵子は門松をブロックしようとするが——そのやり方がわからなかった。
友達に追加するくらいの人をあえてブロックすることを、普段からする人はどれくらいいるのだろうか。少なくとも宵子はブロックしたくなるほどの相手はいないし、ブロックしたことがあるのは元彼くらいなものだったのだ。
——もういい、トーク画面を非表示にしてしまおう。見なければ、返さなければ同じなのだから。
——流石に察して、その内送ってこなくなるだろう。
トーク画面を非表示にした後、由美から送られてきたメッセージを開く。
『おつ〜。ケンタさんとのデート、どうだったか、また聞かせてね。ていうか、日付またいで連絡ないってもしかして…笑。ちゃんと、避妊しろよ〜笑笑。』
「ちっ。」
宵子は思わず舌打ちしてしまう。
——人の気も知らないで、何よ!体の関係なんて持つわけない。無理すぎる。生理的に無理。
メッセージへ返信するつもりで開いたものの、あまりに腹が立つ。そして、返事をするのはやめて、宵子はスマホを閉じた。
そして、枕に顔を埋めて言葉にならない言葉を吐き出す。
「…ゔぅぅううぁああぁゔ…!」
「はっ、はぁはぁ…はあ〜……。」
枕から自分の頭皮の匂いがする。なんとなく気持ちが落ち着いてきて、宵子はなんとか気持ちを切り替えることができた。
「うし、起きよう。そんでジムに行こう。いつも通りに過ごして…。で帰ってきたら…ゆんに聞いてもらおう…。」
宵子はベッドからもぞもぞと這い出す。
それからいつも通りに準備をして、ジムに向かった。
———
日曜日の朝方はジムに来る人が割といる。
だから、宵子は普段なら早朝の時間にジムを利用している。しかし、今日はゆっくり寝てしまっていたので遅くなってしまった。
主婦や休みのサラリーマンたちがそれぞれにマシンを使っていて、宵子は普段のメニューをこなすのはやめることにした。適当に空いているマシンの筋トレをして、有酸素運動は散歩で済ませることに決める。
——そういえば、あの人…。通っているジムはわたしと同じリベラルじゃなかった…?まあ、今まで会ったことないから大丈夫だよね?
宵子はなんとなく周囲を見回す。
ジムにいるのは、いつもなら帰り際に見るメンツだ。タオルを首から下げた薄紫のトレーニングウェアの主婦。部活のシャツを着たよく筋肉のついた学生。ダイエット目的らしい中年のサラリーマン。
——いるわけないか。そもそも住所は言ってないんだから…。家が近所ってわけもないだろうし。
しかし、自分を安心させようにも一度覚えた疑念は簡単には消えてくれない。宵子は落ち着かない気分で早々に筋トレは切り上げ、ジムから退散した。
家へ真っ直ぐに帰れば十分とかからない距離を今日は遠回りして帰る。宵子はお昼ご飯もついでに買い出しに行くことに決める。スーパーの開店まであと三十分。散歩するにはちょうど良い時間だ。
散歩中は色々な記憶が湧き上がっては消えていく。昔のこと、仕事のこと、先日行った旅行のこと、由美のこと。
そして、門松のこと。
「〈俺、宵子さんのことが好きです。〉」
「〈話もすごく合うし、可愛いなって。だから、また会いたいです!〉」
「〈ケンタさんとのデート楽しんだ?避妊はしろよ〜。〉」
宵子の頭の中で、様々な記憶がその声と共に再生されては消えていく。考えないようにしたいのに、彼女の頭の中は門松の記憶に支配されてしまっていた。
——余計なことを考えちゃうなぁ。
「はぁ。…今日はスーパーのスイーツ大人買いして韓国ドラマ見て忘れよう…。」
———
買い物も済ませて家に帰ってきた宵子。気は進まないがスマホを開く。ありがたいことに門松からのメッセージは無かった。ほっと胸を撫で下ろし、由美のメッセージに返信を送ろうとする。
『健太さんとは付き合えそうになかったよ。お茶してみてもなんか細かいところでフィーリングが合わないって感じだった。しかもその後、流れでご飯にも行くことになったけど、そこでもやっぱりなんか合わないなって、なっちゃって…。例えばパスタ食べるのにスプーン使ってたんだけど、ダメじゃないんだけど子供っぽいというか、、』
途中までメッセージを打って、明らかな長文に宵子は思い直す。
今打ち込んだ全文は消して、一言だけメッセージを送った。
『あの人は無し。電話で話してもいい?』
そのメッセージを送ってからものの数分で、メッセージの代わりに由美から折り返しの電話が来た。
「〈どったの、よいちゃん。遅いから上手くいってんのかなって思ってたけど…。嫌なことでもされた?〉」
「嫌なこと…はされてない、けど。なんか全然合わないんだよ。」
「待ち合わせの時ね、健太さん…彼、一時間も早く来てたんだって——」
宵子は門松との集合して以降に覚えた違和感を一つずつつらつらと話していく。由美はそれを黙って聞き続けてくれていた。
「——しかもだよ!?わたしですら忘れてた、街コンの時にしてた絆創膏の話まで持ち出してくんの!!流石にキモいよ…。」
「で別れ際さっさと帰りたいって言ってんのに、引き止めて好きだからまた会ってくれとか言うの!人前でだよ?ほんとに恥ずかしかったんだから…。」
宵子はここまでに胸に抱えていた濁り切った澱みを全て吐き出し切る。
その宵子の様子から吐き出し切ったらしいと判断した由美は閉ざしていた口を開く。
「〈ふぅん、なるほどね。そりゃ嫌だよね。そんな何でもかんでも見て覚えてますって。ストーカーじみてるっていうか。よいちゃんがよく言ってるような気遣いはその人にはできないでしょうね。〉」
「そう!なんていうか、表面的には気遣いがある感じだけど、わたしの内面的なところ?わたしの気持ちを一切汲まない感じがして…。」
「要は徹底的に鈍いっていうか…。メッセージにしてもそう。わたしが乗り気じゃないのなんて、わかるじゃない?絵文字もないし!」
「〈ほんとにねぇ。こんなけ素っ気ないのに、わからないもんなのかね、男って。流石に気づきそうなもんだけど。〉」
「〈まあ、付き合わないで良いんじゃない?焦らなくってもそのうちイイ人見つかるよ。〉」
「そう、だね。また街コン、行くかぁ。次はゆん一緒に来てくれない?変なやつに捕まるのもう嫌だし…。」
「〈一緒にぃ?いやあ、彼氏に悪いもん…ついてくのは。まあ、聞いてみるよ。多分嫌がるだろうけど…。〉」
「〈ぇ?……あっ、ごめん。そろそろ出かけないとだから、一旦切るね。また、夜にでも聞かせてよ。じゃ。〉」
プツッ ツーツー
由美は電話を切り上げて、通話を切ってしまう。
唐突に訪れた静寂に宵子は置き去りにされたような感覚を覚える。家にいるのに、見知らぬ場所にいるような感覚。使い慣れた家具すらよそよそしく他人のような顔をしている。
「あーあ!!」
宵子は自分の存在を確かめるために大袈裟にため息をつく。
「お弁当のおかず作ろうっと!!」
宵子は何かを見えないふりをし、できればそれが大声を警戒して去ってくれるように祈る。何かがいるとは思わない。でも、何かいたら?
いつも通りのおかず。玉子焼きにきんぴら、ひじき煮。ちょっと頑張ってから揚げもこの日は作る。ついでに晩ご飯のおかずも作り上げていく。
作り終えたおかずは小分けにしてタッパーに詰め、冷凍保存していく。
ひと通りの作業を終え一息つき、お茶の準備を始める宵子。買ってきたスイーツを楽しむため——
ピロンッ
——着信か、誰から
ピロンッ
「何?誰?お母さん?またテレビのニュースの写真送って——」
宵子はもう察していた。それは、母親ではないと。
ピロンッ
門松だった。彼の名前が宵子のスマホの待ち受け画面でチラつく。
——ダメだ、やっぱりブロックすれば良かった。
宵子は既読がつかないように、中身を確かめると、ひとつ目はスタンプで、残り二つがメッセージだった。
『宵子さん、メッセージ見逃してる笑?おっちょこちょいなところも可愛いね、おーい笑』
『水族館のチケットさ、宵子さんの予定聞けてないけど、再来週の土曜日に取ったよ!悪いとは思ったけどさ笑。ホテルも予約してあるから、安心してね!』
思わず宵子はスマホが手から滑り落ちる。手が震えている。寒くて震えてるときの比じゃない。
——な、な!?意味がわからない。気持ち悪い気持ち悪い!
「行くわけないでしょ!ばか!なに勝手に…!」
自分の知らないところで勝手に話を進めて、自分の知らない自分が作り上げられていく感覚。
「ブロック!ブロックしよう!」
宵子は取り落としたスマホを拾い上げる。
画面の端が少し欠けている。つまらない男のせいで大切に扱ってきたスマホに傷がついたことに宵子は苛立ちながら、検索サイトを立ち上げる。
ブロックの仕方はすぐに見つかった。相手にはブロックしたことが伝わらないらしい。「別に伝わったって構わないのに」と宵子は思う。
調べた通りにスマホを操作して門松のアカウントはブロックしてしまう。
——これでもう二度とあの人から連絡は来ない。会うことももう無い。気色の悪いメッセージも見なくて済むんだ。
門松のアカウントをブロックしたことで、宵子はようやく平静を取り戻した。ほんの少しの罪悪感はある。しかし、たった数時間程度一緒に過ごしただけのほとんど他人のために気を病むのは馬鹿らしいとも思う。
その日はいっそのこと、スマホの電源から落としてしまった。
——今日はもう、スマホは見ない。ゲームだって一日くらいログインしなくたって構わないでしょ。デジタルデトックスってやつだ。
結局、その日はスマホの電源は入れることなく終えた。由美や家族からメッセージが来ているかもしれないし、変に心配かけるかもしれないとは思った。だが、宵子は大人で、所詮半日メッセージに返信しないだけのことだ。「どうってことはないだろう」と高をくくりスマホを放置した。
———
ピロンッ ピロンッ
深夜。
枕元で振動と共に通知音が鳴る。
宵子はその音のせいで、覚醒してしまう。
——こんな時間に一体誰?明日は仕事なのに…。
ちらりとだけ見て、再度眠りに入るつもりだった宵子。しかし、眠りにつくことはできなかった。
メッセージの送り元が、ブロックしたはずの門松だったから。
『俺、宵子さんを怒らせるようなことなんかしました??』
『なんで返信してくれないんですか?既読すらつかないし…。』
ピロンッ
『せめて既読だけでもつけてくださいよ。』
「なんで…!ブロックしたのに!!」
宵子が大声で叫ぶ。そうすると自身の目が開き鮮明な自室の光景が目に入る。見ていたはずの光景は虚で直前までのメッセージは現実でなかったことに気づく。
——今のは…夢?なんて悪夢…。勘弁してよ、久しぶりに見たよ、悪夢。
そして、時間を確かめようとスマホを手に取る。
なんと、門松からのメッセージが届いていた。教えていない別のSNSアカウントからだった。
『宵子さん、大丈夫ですか?病気とか怪我とかで倒れてるんじゃないかって心配で、、ちょっと良くないかなって思ったんですが、調べてみたら見つけれたので送りました、すみません、、必要なら家に行きますからね!』
「は…なんなの!?こいつ…!やめてよ、気持ち悪いよぉ…。」
宵子は涙が溢れてくる。
宵子は嫌々ながらメッセージアプリのブロックを解除して、返信を送ることにする。変に執着されるくらいなら、しっかり返したほうがマシだと思ったから。
『体調は大丈夫です。酔って寝ていたので、』
宵子はまた、遠回しに断り文句を書きかけるが思い直す。門松には直球で言わないとダメだ。
『体調は大丈夫です。正直なところ健太さんのことを男性として好きになれそうにありません。一方的に断ってしまってごめんなさい。もう連絡してこないでください。』
一息に打ち込んだメッセージを門松に送る。
その後は布団に潜り込んで、気絶するように眠った。
———
翌朝。
窓を打ちつける雨の音に目が覚める。時計を見るとメッセージを送ってからまだ二時間しか経っていなかった。
遮光カーテンの外はまだ暗く、街灯が照らす黒いアスファルトには水溜りができてキラキラと光を反射しているのが見える。
宵子は部屋の電灯をつける気にはなれず、暗い中をベットの横に置いた丸机からタンブラーを取り上げて台所に向かう。
冷蔵庫の扉を開けて冷やしておいた水をタンブラーに注ぐ。一息に飲み干すと体の芯を水が冷やしていく。
——仕事、休もうかな…。
一晩、いや数時間寝たところで精神も体も平静には戻らない。さっきまで寝ていて落ち着いていたはずの心臓も早鐘を打つ。
不安。
一言で言い表すなら、そうとしか言いようのない気持ちの悪さが体中を支配する。何に対する物なのか明確に言葉にできない。
仕事に行ったところで、いつものように一日をこなせるとはとても思えなかった。
——そういえば、昨夜のあの人からのメッセージ、なんで気づいたんだろう?…いや違う、電源切ってなかった?
改めてベッドに戻ってスマホを確認すると当然のように立ち上がって見慣れた待ち受け画面が表示される。
「切ったと思ったけど思い違いだったのかな…。」
幸いなことに誰からも連絡はなく、通知も溜まっていない。
就業の一時間程前に体調不良の連絡をしてしまいさえすれば、もうスマホも見なくて済む。
タンタンタンタンッ
昼間ならほとんど聞こえないはずの廊下を歩く人の足音。
途端に宵子の心臓がばくばくと音を立て始める。
ギィー ガチャンッ
カチャッ
隣人だった。
おそらくコンビニにだとか、朝刊を取りにだとか、ゴミ捨てで一階に行っていたのだろう。
そして、宵子は不安の正体がわかった。
門松が家まで来るのではないかと、通勤中に門松に遭ってしまうのではないかという不安だ。
何を言われるのか、何をされるのか、分からない。 あの鈍感な男が逆上して包丁で背中から。
あるいは、駅のホームで電車の到着間際に後ろからどんと押されて。
「は、ぁ…はっ…。」
——わかっている、考えすぎなのは。対面で会ったあの人の姿とわたしを殺そうとする姿は結びつかない。
——でも、なぜか確信できてしまう。得体の知れない気持ちの悪いものがどこかに混じっているような…。
「なんとかやり過ごさないと…。」
宵子は布団を頭から被り、目を閉じる。
———
しばらくすると、外がにわかに騒がしくなってくる。水気を含んだ車の走り去る音が多く聞こえるようになり、人の声も微かにする。
朝が来たらしい。
少しだけ気持ちが安らぐのを感じる。日の高い時間にそう無茶なことのできる人はいないだろう。家からでさえしなければ大丈夫なはずだ。
あと一時間ほどすれば、会社に電話を——。
——電話……。実家に帰れば良いんじゃ?少し離れているけど、体調が悪いからと言って迎えに来て貰えばいいし。
——なんで今まで思いつかなかったんだろう。お母さんに電話して…。
「いや、盗聴とかされてるかも?第一わたしの家がわかる人間に実家がわからないはずないし…。」
「か、帰れない…。耐えるしかない。いつまで…?」
「スマホ!連絡諦めて電源切った方がいいんじゃ…!盗聴とか追跡とかされるかも!」
宵子は急いでスマホの電源を落とす。そして、それを小鍋に入れて、タンスの中に仕舞い込む。
そうしていると、目に涙が浮かんでくる。ほんの数日前まで普通に暮らしていて、そういうものとは一線を引いていた。それなのにいつのまにか自分は”そちら側”にいて。
——わたしが何をしたっていうの?なんか悪いことした?合わない人を、好きじゃない人を振っただけなのに…?
自分の不幸な身の上を証明してやりたい気持ちで下唇を食いしばる。血が出るくらいに、できれば肉が千切れてしまえばいいと思う。
唇に少しだけ血が滲む。痛くてとてもそれ以上に力を込めることができなかった。
ブブブッ
どこからか振動音が聞こえてくる。
心の中で「工事の音かな?」と言うだけ言ってみる。しかし、それは違うということは十分に理解している。工事の音ならこんな少しだけでは終わらないし、それ以上に工事にしては静かすぎるから。
ブブブッ
また、振動音がする。
まるで早く確認しろと宵子に催促するように。
絶対に見てはやらないと固く心に決める。
ブブブッ
「やめて!なんなのよ!放っておいてよ!」
ブブブッ
「出ないから!わたしはあんたのことが大嫌いなんだから!」
ブブブッ
「ひっ…!はっ……はあ、は、ぁぁ…。」
ブブブッ
「タンスじゃダメなのかも。もう壊しちゃえば…!」
宵子はスマホを見るのも触るのももう恐ろしくなっていた。だから小鍋ごと掴み取り、浴室に行って昨夜の溜めたままになっていた浴槽の水の中にスマホを沈めた。
鍋は沈むのに邪魔になるだけだったのでスマホだけを沈めたのだが、それが良くなかった。
浴槽の底でスマホが振動する。妙に増幅された振動音に体がびくりと震える。
スマホには通知が来ていた。読めるはずはないのに門松からとわかった。
『可愛い宵子さん、恥ずかしがらないで。自分の気持ちに素直になって!』
ブブブッ
『俺、二人の子供の名前とかも考えてたんだよ!宵子さんみたいに、季節感とか時季を感じさせるような名前も良いよね!』
「なんで!電源も切ってるのに!」
宵子は鼻水と涙が溢れて顔をぐちゃぐちゃにしながらその場から逃げるようにベッドに戻る。
カーテンの隙間から見える外は暗くなり始めていた。
——うそ、もう夜?さっきまで朝だと…。
ピロンッ
通知音が枕元で鳴る。さっき水に沈めたはずのスマホが手元にある。
「きゃあぁ!なんで!水に沈めたのに!」
『今から家に行くよ。待っててね、宵子さん。』
「やめて、来ないで!は、はぁ、あああ!」
——逃げないと!急いで!でも、逃げる途中で見つかる?
ピロンッ
『もう着くよ、宵子さんの可愛い声、早く聞きたいな。』
「ベランダ、ベランダから!植え込みに飛び降りれば!」
宵子は窓を開け放つ。
風がびゅうびゅうと吹き荒び、雨が部屋に入り込む。
宵子が降りしきる雨に打たれながらベランダの手すりに足をかけたとき——
ピン ポーン
門松健太編も上中下をまとめて投稿予定です。
後日(一週間程度以内を目処に)投稿します。
よろしくお願いします。




