第四十一話 救護院の犠牲者
「誰かいますか? 私です。クラリスです」
家具で塞がれた扉越しに、クラリスが声をかける。
すると、家具の一部がどかされ、できた隙間から顔がのぞいた。
老兵ガレスだった。
「クラリス様……。ご無事で何よりです。アルトさんも一緒か。さあ、中へ。皆……というわけにはいきませんでしたが、ほとんどの者が無事です」
クラリスは、その言葉に息を呑んだ。
皆が無事ではない、というその事実が、胸に深く刺さった。
力が抜け、倒れそうになるクラリスを、アルトが支える。
「ガレスさん、すみませんが、早くクラリス様を中へ」
※
救護院に入ると、職員たちや子どもたちがクラリスの顔を見て、一様に安堵の表情を浮かべた。
中には、泣きそうな顔で笑う子どももいた。
その場に、わずかながら希望のようなものが芽生えたように見えた。
やはりクラリスはここに来るべきだったのだ、とアルトは思った。
クラリスは、一人ずつ顔を確認していく。
エマ、ルカ、ミナ、それ以外の子どもたちも皆、無事なようだった。
クラリスは少しだけ安堵した。
そこには、聖女候補ミリアや、パン屋のグスタフの姿もあった。
職員たちも、確認できる限りでは無事なようだった。
「ガレスさん、皆、無事なようですが……」
クラリスがそう言うと、ガレスの表情が曇った。
「施療室の方へ、どうぞ」
連れられた施療室には、以前から入院していた患者たちが寝台に横になっていた。
クラリスが知っている患者たちは、そのままそこにいるように見えた。
けれど、一人だけ、新しい患者がいた。
「あっ……」
その患者は寝台に横たわり、目を閉じ、浅い呼吸を繰り返していた。
「ミリア様が、表面の傷と出血は治してくださって、何とか少しだけ命をつなぎとめはしたのですが、内臓をやられたのか、爪に毒があったのか……。このままでは、もう長くはもたないでしょう」
「エルンスト様……」
クラリスが、その名を呟いた。
それは、アルトの仇の男の名だった。
アルトの目も、横たわるエルンストの姿を捉えていた。
リディアとの別れのあと、再びその男と向き合った瞬間、アルトは一気に頭が熱くなるのを感じた。
この男が、正しいことをしたのかどうかなど関係ない。
死にかけていようが、悔いていようが、関係ない。
リディアを奪ったこの男が、ただただ憎かった。
死にかけのこの男に、自分の手でさらに苦痛を与え、とどめを刺してやりたかった。
そのとき、アルトが懐にしまっていたリディアの記憶晶が、かすかに光り、熱を持った気がした。
——リディア、君は僕を止めようとするのか……?
「何が……あったのですか?」
クラリスは、押し黙ったままのアルトを横目に、ガレスへ尋ねた。
「この魔物災害は突然でした」
ガレスは低い声で話し始めた。
「おそらく、知能の高い魔物がいて、王都の様子を伺っていたのでしょう。多くの王都の兵士が、貧しい村の支援のために王都を出ていくと、まもなく一斉に魔物が王都へ押し寄せました」
クラリスの顔が曇る。
——やはり、そうだったのだ。
自分が辺境視察の報告をして、王弟エルンストが王宮を追放され、国王が本格的な救済事業を決めた。その結果、兵士たちは辺境へ出払った。
そして、王都が襲われた。
胸が強く締め付けられるようだった。
「魔物は王都中を襲いました。特に、人が集まる場所を狙っていたようです。この救護院も、その一つでした。……王都に警鐘が鳴り響いたとき、わしは真っ先にこの救護院へ来ました。なまくらの古い剣を担いで」
ガレスは、自嘲するように笑った。
「正直に言うと……やっと死に場所を得られると思った」
クラリスもアルトも、黙ってガレスの話に耳を傾けていた。
「救護院は、すでに魔物に襲われていました。ですが、そこにエルンスト様が何人かの王国騎士を連れて、魔物を撃退しようとしていたのです。エルンスト様ご自身も、剣を取って戦っておられた」
ガレスは、横たわるエルンストを見た。
「わしもそこに加わって戦いました。だが、混戦の中、隙を見て一匹のワーウルフが建物の扉を壊して侵入したのです。そのことに気づいたのは、エルンスト様だけでした」
「このおじさんが、ミナと俺を庇って……」
気づくと、後ろでルカが泣いていた。
ガレスが、ルカの方へ視線を向ける。
「エルンスト様はすぐにワーウルフを追っていった。だが、ミナという女の子が逃げ遅れて襲われそうになり、このルカが無謀にも魔物に立ち向かおうとしていた」
ルカは拳を握りしめ、震わせている。
「やられそうになった二人を、エルンスト様が庇われたのです。わしも悲鳴を聞いて、慌てて救護院の中に入りました。ですが、その時にはすでに、エルンスト様は爪で腹を抉られておりました」
ガレスの声が低くなる。
「それでも、エルンスト様はその魔物の腕を離さず掴んでいた。子どもらを逃がす時間を稼ごうとしていたのです。わしは慌ててワーウルフの首を落としましたが、エルンスト様はすでに大きな傷を負われていた」
「おじさんは、あのときのパンをありがとうって……」
ルカが泣きながら言った。
「パンのお礼ができてよかったって……」
クラリスは何も言えなかった。
アルトもまた、何も言えなかった。
「本来なら、この老いぼれが死ぬべきだったと思うのですが……」
ガレスは小さく息を吐いた。
「この子たちを守りきるまでは、マルガレーテは、わしが死ぬことを許さんようです」
そして、ガレスは再び横たわるエルンストを見た。
「……孤児の子どもらを守るために、かつての王弟が自らの命を投げ出すとはな」
——だから何だと言うのだ。
アルトには、エルンストが、過去の大きな罪から逃れるために、偽善的な行為の中で死んでいこうとしている卑怯者としか思えなかった。
「アルトさん、あんた……」
ガレスが、険しい顔をしているアルトに気づいた。
「何か、とても大切なものを失ったみたいだな」
クラリスが心配そうにアルトを見る。
「強い悲しみと……怒りが見える」
ガレスも、哀れむような目をアルトへ向けた。
「アルト……」
ガレスとは別の声がした。
見ると、エルンストが目を覚ましていた。
アルトがエルンストを睨み、掴みかからんばかりに一歩踏み出す。
ガレスが慌てて、その肩を押さえて制する。
「ヴェルナーの息子か……」
エルンストは、消え入りそうな、かすれた声で言った。
「ずいぶんと強い敵意を向けるではないか。まるで……魔物のようだ」
エルンストは、わずかに笑った。
それから、ガレスへ視線を移す。
「ガレス。王都の状況はどうだ?」
「芳しくありません。魔物の数はまだ多く、兵士の数は減ってきております。このままでは……」
ガレスの言葉に、クラリスが手で顔を覆った。
「そうか」
エルンストは苦しげに浅く息を吸い、吐いた。
「ヴェルナーの息子がここに来たのは、運命なのであろう。女神というものが本当に存在するのだと、死の際に思い知らされるとはな」
エルンストは、わずかに首を傾け、アルトを見る。
「アルト・ヴェルナー。取り引きをしよう」
「取り引き……?」
アルトの声が低くなる。
父を失脚させ、何よりも大切なリディアを奪った男が、今さら、自分と取り引きをしようと言うのか。
「おまえに、この身を差し出そう」
エルンストは、アルトから目を逸らさなかった。
「憎しみをぶつけたいなら、好きにすればいい。私を殴るなり、刺すなり、好きにしろ」
「……」
「その代わり」
エルンストの声には、今にも命が尽きようとしている人のものとは思えない力があった。
「私を、おまえの馬車に乗せろ」
アルトが歯ぎしりする。血が滲み出てきそうなほどに。
「探しものの馬車に」




