第三十六話 拭えない恨み、消えない恋しさ
アルトとクラリスは、夜明けを待たずにネーベル村を後にした。
司祭や兵士は引き止めようとしたが、アルトは応じなかった。
クラリスも、アルトの意思を尊重した。
再び、夜の荒野を辻馬車は駆けていた。
アルトは手綱を握ったまま、何も言わなかった。
クラリスも、声をかけようとは思わなかった。
アルトが自ら話したいと思うまで、そっとしておこうと決めていた。
「エルンスト様は、リディアの命は奪っていない、と仰っていました」
唐突に、アルトが口を開いた。
「それは、嘘ではなかったのかもしれません」
クラリスは何も言わず、耳を傾けた。
「ですが、僕にとっては、それは嘘でした」
アルトの声は、かすれていた。
「リディアは、魔道具に記憶だけを残していました。彼女の記憶は、誰もやってこない荒野の中で、彼女がもういないのだということを僕に伝えるために、十年間待っていたかのようでした」
クラリスは、胸の奥が締めつけられるようだった。
「彼女は体だけを残して、この世界から、すでにいなくなっていたのです」
クラリスは、アルトの気持ちが自分の想像も及ばないものなのだろうと思った。そう思うと、何も言えなかった。
「エルンスト様を許せるかどうか分からない、と以前は言いましたが……」
アルトの声には、今まで聞いたことのない強さがあった。
「今となっては、とても許せる気がしません」
「アルトさん……」
クラリスが名を呼ぶ。
けれど、次にアルトの口からこぼれたのは、ひどく弱々しい言葉だった。
「……ですが、本当は、そんなこともどうでもいいのです」
夜の荒野に消え入りそうな声だった。
「僕は、ただ……リディアが恋しいのです」
アルトは俯いた。
「リディアは僕に、人を恨まず、幸せになれと言いました」
クラリスには、その願いが、リディアがアルトにそう願った気持ちが、痛いほど分かった。
クラリスもまた、アルトに同じことを願っていたから。
「ですが、彼女を失った今、僕はどうやったら幸せになどなれると言うのでしょう」
アルトはまだ、その気持ちを整理できていないのだろう、とクラリスは思った。
怒りも、悲しみも、後悔も、恋しさも、すべてが胸の中で絡まり合っているのだ。
だから、クラリスは静かに言った。
「すべて吐き出して……。私は、あなたの言葉を、ひと言も漏らさず聞いているから」
それが、今のクラリスに言える精一杯の言葉だった。
「あなたは、ひとりではないわ」
辻馬車は、月明かりだけが照らす荒野を走る。
その行く先は暗く、まだ夜明けの気配はなかった。
それでも辻馬車は、前へと駆けていく。
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