第三十五話 冷たい水晶
アルトは膝から崩れ落ち、両手をついて地面を見ていた。
涙がこぼれ落ち、乾いた土を湿らせる。
そんなアルトに、リアは声をかけることができなかった。
そのとき、御者も乗客も乗せていない馬車が、静かに動き出した。
御者の指示を受けたわけではない。
乗客の探しものへ向かうわけでもない。
ただ、馬と馬車自身の意思で動いているようだった。
ノクスが、アルトの隣に立つ。
そして、その大きな顔を、そっとアルトの肩に押し当てた。
まるで悲しみに暮れる子どもを慰めるように、ノクスは、何度も、何度も、アルトに顔を擦り寄せた。
「アルトさん」
やがて、リアが意を決したかのようにアルトに声をかけた。
「私も、体を預けている間に、リディアの記憶を見ました」
アルトは答えなかった。
それでも、リアは続けた。
「リディアが、どれだけあなたのことを愛していたのか。あなたが、どれだけリディアを愛していたのか。それも、分かりました」
リアは、光を失った記憶晶を見下ろした。
「あなたがリディアを失って、どれほどつらかったのかも……」
アルトは、何も言わない。
リアは小さく息を吸った。
「ですが、私は謝ることはしません」
夜の荒野に、はっきりとその声は響いた。
「私がリディアの人生を奪ったとは思いません。リディアが、私にリアとしての人生を託してくれたのだと思います」
アルトが、わずかに顔を上げた。
「だから私は、その思いに応えるためにも、リアとして精一杯生きていきます」
リアは、記憶晶をアルトへ差し出した。
「リディアの魔力の名残りを感じられます。アルトさん。これは、あなたが持っていてください」
「……」
「これは、リディアが、あなたに届けようとしていたものです」
アルトは、その小さな水晶を見た。
ノクスが、もう一度、アルトの肩に顔を押し当てる。
立て、と言っているようだった。
アルトは震える手を伸ばした。
リアの手に触れる。
それはもう、リディアの手ではなかった。
受け取った水晶は冷たかった。




