第三十四話 記憶晶——メモリア
荒野の中のその場所の周囲には、見渡す限り何もなかった。
「馬車が止まりましたね……」
リアの声には不安と怯えが滲んでいた。
「はい、何もなさそうなのですが、何かあるはずです。あなたが探したものが……」
「どう見ても、何もないではないですか」
リアがそう言うと、ノクスが前脚で地面を掻いた。
アルトが御者台を降りる。
月明かりを頼りにその地面を見ると、小さく不自然に土が盛り上がっているように見えた。
アルトは御者台の下から小さな鋤を取り出し、そこを掘った。
すると、月明かりに反射する何かが出てきた。
「これは……?」
そこに埋められていたのは、片手の手のひらに簡単に収まるほどの、小さな水晶だった。
アルトはその水晶をリアに示す。
「何だかわかりますか? おそらく、あなたが探していたものです」
リアが身を屈めて地面を見る。
そして手を伸ばし、その水晶を取った。
その瞬間、水晶が淡い光を放ち、その光がリアを包んでいった。
リアが目を閉じ、やがて目を開いた。
「アルト……?」
リアが言った。
いや、それがリアではなく、リディアだとアルトにはすぐわかった。
「リディア……なのか?」
「アルト……。やっぱり来てくれたのね」
「記憶が戻ったのか?」
アルトが尋ねる。
リディアは少し寂しそうに首を振り、手にしていた水晶をアルトに見せた。
「この魔道具——記憶晶に記録していただけ。申し訳ないけれど、この娘の体を借りて、一時的に記憶を戻しているだけよ」
それを聞いたアルトが少し寂しそうに笑う。
「その娘は君だよ。いや……君だったと言うべきなのか……」
リディアが驚いた表情を見せた。
「そう……。私は生きていたのね。きっともう無理だと思っていたのだけれど。……それなら、古い記憶だけのこの私と話す必要はもうないかしらね」
「その娘に君の記憶はもうないんだ。君は王宮の追っ手に捕まって、記憶を封じ込められてしまった。その娘はリアという名前で別の人生を送っているんだ」
「あら、それなら、こうして記憶を残した甲斐があったわね」
リディアは小さく微笑みを浮かべた。
「私、この辺りの村で、不正の証拠になるものを見つけたの。でも、王宮から狙われているのがわかったから、万が一のことがあったときのために記憶を残しておこうと思って、この記憶晶に大事な記憶を封じ込めて残しておいたのよ。ヴェルナー侯爵家には探しものの馬車があるから、絶対に誰にもわからないようなところに、目印もおかずに埋めたの」
「うん、君が見つけたものは知っているよ。ラウネ村というところで記録を見つけたんだ。その記録のおかげで王宮の不正も暴いて……国王陛下が慈善事業も再開してくれて……」
「えっ? 私より先に、記録のほうを見つけちゃうなんて。……先に私を見つけて欲しかったわ」
リディアは拗ねたように言った。
「ごめん……」
「冗談よ。そんなふうにすぐ深刻に考えちゃうのは、あなたの良くないところだわ」
そう言ってリディアが笑った。
——太陽のような笑顔だ。
アルトは、懐かしさで胸がいっぱいになった。
「もう君がいなくなってから十年も経つんだ」
「十年……?」
「本当にごめん。もっと早く君を見つけることもできたはずなのに……。こんなにも時間が経ってしまった」
「十年……。その間、私は一度も記憶を戻すことがなかったの?」
アルトは頷く。
「そう……。それなら確かにもう、私は別の人間になってしまったのでしょうね」
「君の記憶を取り戻す方法がないんだ……」
アルトが苦しげな表情をする。
そんなアルトにリディアは優しく声をかける。
「そんな顔したら嫌になっちゃうじゃない。もう私の記憶を取り戻すなんて考えないで。不正は暴かれて、ヴェルナー侯爵家も名誉を回復できたんでしょう?」
「……記憶を取り戻せなかったら、君はどうなるんだ?」
「私が記憶を取り戻したら、この子……リアはどうなるの? 私は誰かを犠牲にしてまで記憶を戻したいとは思わないわ」
「……君がいなくなったら……僕はどうしたらいいんだ? 君を探すことだけを生きる理由にしていたというのに……」
「ふふ。そうならちょっと嬉しい気もするけれど……。本当にそう?」
リディアがアルトの後ろで待つ、探しものの馬車を見る。
「私はずっと前から知っているわ。ノクスも、あの馬車も、あなたのことが大好きなのよ。あの子たちが、あなたを、ただ失踪した婚約者を探すだけの不幸な男にしておくはずがないわ」
「えっ……?」
アルトはふと、クラリスにも同じようなことを言われたことを思い出した。
「私がいない間にも、この馬車はあなたのために、たくさんの大切なものを見つけてくれたんじゃないの?」
「……」
「そうなんでしょう? あなたにはまだあなたの人生が残っているんだから、しっかり生きて」
リディアは笑顔のまま、少しだけ寂しそうにに言った。
「別の人を好きになってもいいわ。少し妬いちゃうけれど。あなたに幸せになってもらえたら嬉しいし、あなたにもこの世界が悪いことばかりじゃなくて、すてきなのだと思ってほしい。
それで、私がそんなことを言ってたな、って、たまに思い出してくれたら十分」
そのとき、アルトは、リディアを取り戻すことはもう二度とできないのだと悟った。
「誰も恨まないで。恨んだら、きっとあなたは苦しみからずっと逃れられなくなってしまう」
アルトの頬を涙が伝った。
「本当に、本当にごめん。こんなことになってしまったのはヴェルナー侯爵家の……いや、僕のせいだ」
リディアは、優しく明るい声で言う。
「もう泣かないで……アルト。私は一度だって自分が選んだことに後悔をしたことはなかったし、あなたと出会えて、一緒の時を過ごせて、本当に幸せだったわ」
リディアは大きな笑顔を見せる。
「怖かったけれど……誰かのために恐怖を乗り越えて行動できる私が誇らしくて、嬉しかったの。自分の人生が自分のもので、その人生を精一杯生きているって感じられたわ」
アルトは何も言えない。
「あなたのおかげで、この世界はとても楽しくて美しかったわ。何も悔いはないの。本当よ」
アルトはただただ泣いていた。
「さようなら、アルト。元気でね」
「待って……」
アルトはやっとのことでかすれた声を出した。
そのとき、記憶晶が強い光を放った。
閉じ込められていた記憶が溢れ出す。
光の中に、リディアがかつて見ていた、大事な記憶の光景が浮かび上がる。
その光を通じて、アルトの中にリディアの感情の記憶までもが流れ込んでくる。
ヴェルナー侯爵家の探しものの馬車から、ヴェルナー侯爵と、一人の若い青年——アルトが降りてくる。
家同士の会合で、初めてアルトと出会い、リディアが恥ずかしそうにアルトを見る。アルトも照れたような顔で小さく笑顔を見せる。
婚約が決まり、リディアはアルトとお茶会でぎこちない会話をする。アルトは口数が少ないけれど、優しい人だと感じた。そう思うと自分が少し暖かい気持ちになっていることに気づいた。
夜会でリディアが無理やりアルトの手を取る。
初めてアルトの手に触れ、胸が高鳴る。
アルトが躓き、思わず笑ってしまう。
アルトが少し不機嫌になるのがかわいらしく思える。
アルトが少しずつ上手に踊れるようになる。
アルトは嬉しそうに笑ってリディアを見る。
そんなアルトと踊るのがとても楽しい。
まるで自分たちが世界の中心にいて、皆が祝福してくれるような気分になる。
——ああ、この方から目が離せない。いつのまにか、この方をとても愛してしまっていたみたい。
どの光景にもアルトがいた。そのすべてに、温かい感情が流れていた。
世界が、美しかった。
次第に景色が色を失い、薄くなっていく。
そして、消えた。
記憶晶は光を失い、月明かりを反射するだけだった。
リディアはリアとなり、リディアが二度と戻ることはなかった。




