第三十三話 ネーベル村の夜、荒野
アルトが、手綱を軽く鳴らす。
過去を失った女を乗せて、辻馬車がゆっくりと走り出した。
「無理を言って申し訳ありません」
「いえ、いいんです。それに……」
リアが小さく言った。
「私も、自分の過去を知りたい気持ちはありました」
その言葉に、アルトは少しだけ安堵した。
「アルトさんは、私を……いえ、リディアを必死に探されていたのですよね」
「はい」
「では、リディアのことをよくご存じなのですね?」
アルトは頷いた。
「あなたは、何も変わっていないように見えます。僕には、十年前で時間が止まっているみたいに見える」
「そうですか……。では、リディアも喜んでいるでしょうね」
リアは小さく笑みを浮かべた。
けれど、その笑みはどこか寂しかった。
「私は、アルトさんの……婚約者だったのですよね?」
「はい」
「私は、どんな人でしたか?」
アルトは手綱を握ったまま目を閉じると、思い出が蘇ってくる。
「とても明るくて、楽しくて、僕にとっては太陽みたいな人でした」
「太陽……」
「王都の社交界でも人目を集めて、とても人気のある人でした。僕と婚約が決まったときには、多くの男性から妬まれたものです」
「そう……」
「ダンスも得意で……。僕は苦手だったのですけれど、無理やり夜会に連れて行かれて、一緒に踊らされて。僕は何度も躓きそうになって、あなたに笑われました」
アルトは小さく笑った。
だが、リアは少し寂しそうに言った。
「王都の貴族の方だったのですね」
「……」
「なんだか、私とは全然違う方みたい」
「いえ、あなたですよ。何も変わらない」
まるで自分に言い聞かせるように言った。
リアは首を振る。
「私は、貧しいネーベル村の修道女です。そうですね……明るさだけは、取り柄かもしれませんけれど」
アルトは、また少しだけ笑みを浮かべた。
「私は、今の人生がとても気に入っているんです」
リアが言った。
「この貧しいネーベル村が好きなんです」
アルトは黙って聞いていた。
「この村は、記憶のない、得体の知れない女を、何も言わずに受け入れてくれました。皆、親切なんです。私は、そんな村の方たちのためになることをしたいと思って、教会の修道女として働いてきました」
リアは、自分の手を見た。
「少し魔力もあるので、簡単な治癒もできるんです」
「そういえば、リディアにもいくらか魔力がありました」
アルトは懐かしむように言った。
「とても優しい魔力でした」
「そうですか……」
リアは微笑んだ。
「記憶がなくても、いえ、たとえ記憶が戻ったとしても、私はこの村でずっと生きていきたいと思うようになりました」
そこで、リアは小さく息を吐いた。
「それでも、十年前までの私の人生を奪って、まるで勝手に人の人生を生きてしまっているような、後ろめたい気持ちもあるんです」
「リディアに対して後ろめたいのですか?」
「はい」
アルトは、複雑な思いだった。
司祭の言葉が脳裏に浮かぶ。
——この娘にとって最善のことを考えたい。
アルトには、リアにとって、そしてリディアにとって何が最善なのか分からなかった。
リディアを取り戻したい。
だが、目の前にいるリアの人生を奪いたいわけではない。
だからこそ、この馬車に、リアをどうしても乗せる必要があったのだ。
ネーベル村を走っていた馬車が、ゆっくりと村の外へ向かっていた。
「アルトさん……どちらに向かわれているのですか?」
「僕にも分かりません」
「えっ……?」
リアが不安そうな顔をする。
「この馬車は、探しものの馬車なのです」
「探しものの馬車……?」
「お乗りになった方の探しものを見つけてくれる、不思議な力のある馬車です。この村の外へ向かっているのであれば、そこに、あなたの探しものがあるはずなのです」
「私の、探しもの……」
リアが呟いた。
辻馬車が、夜の荒野を走っていく。
広い荒野のどこか、誰からも顧みられることのない場所へ向けて。
やがて馬車は止まる。
月明かりだけが照らす、何もない、荒野の中で。




