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【連載版】婚約破棄された公爵令嬢が「どこにも行かず、ただ走らせて」と言ったので、辻馬車は夜の王都を走り続ける  作者: Vou@書籍化進行中
第九夜 【乗客】ある女

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第三十二話 過去のない女

「僕が、分からないのか?」


 アルトが、修道女リアに一歩近づいた。


 リアは困ったように眉を寄せる。


「もし以前にお会いしたことがあったのなら、ごめんなさい。でも……覚えていなくて……」


「……嘘だ」


「えっ?」


「僕のことを忘れるはずがない。君を、こんな目に遭わせてしまった僕を……」


 アルトの声は、ひどく震えていた。


「リアさん……いえ、リディア様」


 クラリスも思わず口を開いた。


「この方をよく見てください。あなたは、この方をよくご存じのはずなのです」


「クラリス様……」


 そのとき、先ほどまでリアと話していた兵士が、おずおずと口を挟んだ。


「申し訳ございません。ですが、シスター・リアは……昔のことを覚えていないのです」


「えっ?」


 クラリスとアルトは、顔を見合わせて呆然とした。


「その娘は、私が拾いました」


 別の声がした。


 見ると、法衣を着た村の司祭が立っていた。


「……どういうことですか?」


 クラリスが尋ねる。


 司祭がクラリスを見据える。


「クラリス様。私の方こそ伺いたい。この娘をご存じなのですか?」


 クラリスはアルトを見た。


 アルトは、かすれた声で答える。


「彼女は、僕の婚約者でした。十年前に行方不明になったのです」


 司祭が目を見開いた。


「十年前……。なるほど。私がこの娘を見つけたのも、十年前です」


「では……やっぱり……リディア様なのね」


 クラリスが呟いた。


「彼女に、何があったのですか?」


 アルトが尋ねる。


 司祭は、沈痛な面持ちで語り始めた。


「何があったのかは私にも分かりません。ただ、十年前のある朝、この教会の前で、この娘が倒れていたのです。あの日のことは、今でも忘れられません」


 アルトは食い入るように、司祭の話に耳を傾ける。


「私は驚いて、すぐに教会の中へ運びました。奥の療養室の寝台に寝かせ、しばらく様子を見ていました。やがて目を覚ましたので、名前を尋ねたのですが……」


 司祭はリアを見る。


「何も覚えていない、と言うのです」


 アルトは息を呑んだ。


「ただ、かろうじて『リア』とだけ名乗りました。ですから、この村ではリアと呼ばれるようになったのです」


 リアは、黙って頷いた。


「その時、私は彼女にまとわりつく邪悪な魔力に気づきました」


「邪悪な魔力……ですか?」


 クラリスが聞き返す。


「ええ」


 司祭は続ける。


「『忘却の帳オブリヴィオン・ヴェール』と呼ばれる呪いです。この呪いにかかると、それまで蓄えられた主要な記憶が覆い隠され、二度と取り出せなくなるのです。非常に高位の魔導士でなければ扱えない禁忌の術です」


忘却の帳オブリヴィオン・ヴェール……」


 クラリスが呟いた。


 ——宮廷魔導士だ。


 エルンストはなんということをしてしまったのだろう。自らの不正を隠すなどという目的のために……。


 クラリスは、自分が墓地や地下牢のような「最悪のこと」を想像していたことに、ひどい罪悪感を覚えた。

 けれど、目の前の現実は、それと以上に残酷なように思えた。


 生きて、そこにいる。それなのに覚えていないのだ。


 自分が本当に愛した人も。

 自分自身の名前さえも。


「呪いの解除はできないのですか?」


 アルトが、司祭にすがるように尋ねた。


「できるなら、最初からしています」


 司祭は首を振る。


「聖女様ほどの力があれば、あるいは……。ですが、私には無理でした」


「聖女様……」


 クラリスはミリアの顔を思い浮かべた。


「聖女()()の力では、どうでしょうか?」


 司祭は力なくただ首を振った。


「それに、もう十年の時が経ってしまいました。この娘はこのネーベル村で、リアとして人生を生きてきました。今さら記憶を取り戻すことが、この娘にとって幸せなのかどうかも分かりません」


「リディアの記憶が戻ることで、リアさんの人格が消えてしまうかもしれない、ということですか? つまりリアさんはもうリディアではない、と?」


 アルトが尋ねる。


 司祭は、すぐには答えなかった。


「分かりません」


 そして、リアを守るように一歩前に出る。


「ですが、私は何より、この娘にとって最善のことを考えたいのです。本音を言えば、リアとして、このまま穏やかに生きてほしいと思っています」


「そんな……」


 クラリスはアルトを見た。


 アルトは、しばらく押し黙っていた。


 やがて、静かに口を開く。


「少しだけ、時間をいただけませんか?」


 アルトはリアを見た。


 そして数歩だけ近づく。


「リアさん」


 そう呼ぶことで、アルトは自分の胸が痛むことに気づいた。


「今夜だけ、僕にあなたのお時間をいただけませんか?」


 リアは、不安そうにアルトを見つめた。


「あなたを、この村からどこかへ連れていこうというわけではありません」


 アルトは、できるだけ穏やかに言った。


「ただ、僕の馬車に乗っていただきたいのです」

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王弟の罪は重いな〜命奪っとるやないかお前……
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