第三十一話 古い教会
アルトは御者台を降りた。
クラリスも扉を開け、自ら馬車を降りる。
二人は並んで、教会を見上げた。
「ここにいらっしゃるのね」
クラリスの声は震えていた。
緊張のためなのか、不安のためなのか、自分でもよく分からなかった。
エルンストは、「命は奪うな」と命じたと言っていた。
けれど、あれからもう十年が経っている。その間、リディアはアルトに会いに来なかったのだ。
——本当に、無事なのだろうか。
教会の裏手には墓地がある。
奥には、重い病人を寝かせる療養室もあるはずだ。
嫌な想像だった。
だが、地下には人を閉じ込めるような場所があるかもしれない。
今にも朽ちてしまいそうな教会の建物が、その想像をいっそう掻き立てた。
クラリスは、そんなことばかり考えてしまう自分が信じられなかった。
「アルトさん、行きましょう。きっと、元気なリディア様がいらっしゃるわ」
嫌な想像を振り払うように、クラリスが言った。
アルトは頷く。
しかし、その足取りは重く、ゆっくりとしていた。
クラリスは、アルトもまた不安なのだと気づいた。
「大丈夫よ……。きっと、大丈夫」
それはアルトに向けた言葉であり、自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
二人はようやく教会の入り口に辿り着いた。
アルトが、静かに扉を開ける。
広くはない礼拝堂には、何人もの兵士がいた。
王都から派遣されてきた兵士たちが、ここを仮の宿舎としているようだった。
何人かは長椅子に腰かけ、何人かは床に置いた荷を整理している。
その兵士たちのひとりが、一人の美しい修道女に声をかけていた。
「シスター・リア、この包帯はどこへ置けばいいですか?」
「そちらの箱へお願いします。清潔な布と、使った布は分けてくださいね」
穏やかな声だった。
クラリスには、その修道女に見覚えがあった。
前回の視察でも、聞き取りに協力してくれた女性だ。
クラリスが近づくと、修道女の方もこちらに気づいた。
「あ……クラリス様」
修道女リアは、柔らかな笑顔を浮かべた。
「クラリス様のおかげで、こんなにも早く支援を受けられることになりました。村が、少しずつ活気づき始めています。まだまだこれからではありますが、本当にありがとうございます」
クラリスは、ぎこちなく笑みを返した。
「それは、本当によかったです。国王陛下も実情にお心を痛められて、すぐにご対応くださいました」
「そうでしたか。本当にありがたいことです」
「いえ、当然のことです……。ところで……」
クラリスは、小さく息を吸った。
「リディア……という女性が、こちらにいらっしゃいませんか?」
言ってしまった。
クラリスは、そう思った。
「リディア……ですか?」
修道女が、不思議そうに首を傾げる。
そのとき、クラリスを追って近づいてきたアルトが割って入ってきた。
「……リディア」
かすれた声だった。
修道女が、今度はアルトを見る。
「リディア……。間違いない。リディアだ」
アルトの声が震える。
「僕だ。アルトだ」
クラリスは息を呑んだ。
その修道女がリディアなのだと、アルトにははっきり分かったのだ。
十年の時が経とうと、本当に愛した人のことが分からないはずがない。
クラリスは、そう思っていた。
修道女は、アルトの顔をじっと見つめた。
何かを探すように。
遠い記憶の底を覗き込むように。
やがて彼女は、困ったように眉を寄せた。
「どなた……ですか?」
それが、修道女リアがアルトに返した言葉だった。
第八夜「婚約者が失踪した御者、その代わりとなる者」をお読みいただき、ありがとうございます。
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