第三十話 辻馬車が止まる
その村は、「失われた村」と呼ばれるラウネ村からほど近い、ネーベル村という名の村だった。
「私、この村も覚えているわ。視察のときにも、探しものの馬車がここで止まったはずよ」
クラリスが言う。
だが、アルトは何も応えなかった。
「ねえ、アルトさん」
クラリスが少し声を張る。
「ああ……すみません、クラリス様」
「どうかしたの?」
「はい」
アルトは御者台で、前を向いたままだった。
「馬車が止まろうとしないのです」
「……? 馬車は走るものではなくて?」
「僕は、休むためにこの村へ入ったのではありません」
「そうなの? 日が暮れてきたから、アルトさんが村で休ませようとしたのかと思っていたのだけれど……」
そこまで言って、クラリスは気づいた。
「まさか……」
アルトは、前を向いたまま頷いた。
「この村に、リディアがいるのだと思います」
クラリスは息を呑んだ。
ネーベル村にも、王都から派遣された兵士たちの姿がちらほらと見えた。
日暮れで作業を終えたのだろう。兵士たちは道具を担ぎ、どこかへ戻ろうとしている。
その兵士たちを追うように、あるいは追い越すように、辻馬車は村の中をゆっくりと進んでいった。
ときおり馬車に気づいた兵士と目が合うと、クラリスは小さく手を振った。
だが、心は落ち着かなかった。
——いよいよ、リディア様とお会いするのだわ。
この旅の間、クラリスはリディアを探すことだけを考えていた。
アルトのために。そしてリディアのために。
王国が強いた欺瞞の犠牲となった二人が救われることで、その欺瞞との本当の訣別にもなるのだと思っていた。
けれど、いざその瞬間が近づいていると思うと、胸の奥がざわついた。
リディアが見つかれば、アルトは救われる。
十年間止まっていた彼の時間が、ようやく動き出すのだ。
リディアは、アルトを愛していた人だ。
アルトのために危険を冒し、王国の不正を追い、その結果として姿を消した人だ。
もし彼女が無事で、彼女がアルトを許すなら。
そしてもし、アルトがもう一度リディアの手を取るなら。
それは、きっと正しいことなのだ。
正しいことのはずなのに……。
——アルトさんは、リディア様と一緒になったら、辻馬車をやめてしまうのかしら。
そう考えた瞬間、クラリスはひどく心細くなった。
今になって初めて気づいた。
アルトと一緒に辻馬車で夜を走る時間が、自分にとって、どれほど大切なものになっていたのか。
王都の夜の灯りを背に、誰かの探しものを見つけ、誰かの痛みを聞いて……行き先を見失ってしまった人々を明日へ届ける馬車。
その御者台には、いつもアルトがいる。
クラリスは小窓越しに、御者台のアルトを見た。
そのとき、馬車が止まった。
アルトが振り返る。
その顔は、今まで見たことがないほど真剣だった。
クラリスは胸を締めつけられるように感じた。
馬車が止まった先には、決して大きくも、丈夫そうでもない、古い建物があった。
兵士たちが、その建物の中へ入っていく。
扉の上には、古ぼけた聖女像が埋め込まれていた。
それは、村の教会だった。
「ここに……いるようです」
アルトが、かすれた声で言った。




