第二十七話 辻馬車が探していたもの
その夜、アルトは御者台からも降りず、そこでじっと待っていた。
静かな夜だった。
まるで嵐の前のように、王都は凪の中にいるようだった。
やがて建物から一人の女性が出てきて、辻馬車に近づいた。
女性は何も言わず、自分で馬車の扉を開け、中に入った。
「アルトさん……」
女性が馬車の小窓から声をかけると、アルトは、はっとして振り返った。
「ああ……クラリス様。申し訳ございません……」
「考えごとかしら?」
クラリスが尋ねる。
「はい……。そうですね……」
「もし何かお悩みごとがあるのなら、お話してもらえないかしら。もちろん、嫌でなければだけれど」
それを聞いて、アルトが小さく笑った。
「何かおかしいかしら?」
「……いえ、申し訳ございません。僕も初めてクラリス様をお乗せしたとき、同じようなことを申したことを思い出しまして……」
「あら、そうだったかしら」
「はい」
「それならなおさらだわ。あなたは私の話を聞いてくれたのだから、今度は私があなたのお話に耳を傾ける番ね」
アルトは観念したように、小さく息を吐いた。
「……一昨日お伝えしたとおり、昨夜は父に会ったのです」
「はい」
「実はこの十年で、一度も父には会っておりませんでした」
「えっ……? お父様の居場所をずっとご存じなかったのですか?」
「父の居場所は、もともと知っていました。ただ、会いに行く勇気がなかっただけなんです」
「そう……」
「僕はこの馬車で、ずっと現実から逃げていたのです。お客様を乗せて馬車を走らせているうちに、僕自身もどこかへ進めているような気がしていました」
アルトは、少しだけ自嘲するように笑った。
「父に会ったら、現実の僕の立場に直面してしまうのです。家も失い、婚約者も失った、ただの御者。お客様の人生に少しだけ同乗させていただくことで、かろうじて自分の存在を確かめている、空虚な男だったのです」
「アルトさん……。そんなことは……」
アルトは、クラリスの言葉を遮るように続けた。
「そうなのです。いえ、そうだったのです」
アルトの声は静かだった。
「ですが、僕はついに父に会うことができました。失われた僕の十年を、少しだけ取り返せました。クラリス様や、探しものの馬車に乗ってくださった皆様のおかげです。王弟殿下も含め……」
「エルンスト様……?」
「はい。クラリス様たちの人生に触れて、僕の空虚さが埋められていくようでした。お客様の物語が、自分の人生の物語の一部になったかのように……」
アルトは少し間を置いた。
「ですが、父に会う最後のきっかけをくれたのは、やはりエルンスト様でした。あの方が父に謝罪の意を示してくださり、侯爵家の名誉回復まで提案してくださった。僕たち親子にとっては、もう遅すぎることなので……そのこと自体に、あまり意味はないのですが……」
「お父様を訪ねる口実にはなったということね」
「はい。最後に自分自身をひと押しする口実になりました」
「お父様はどうだったの? お元気だった?」
アルトは、少し寂しそうにした。
「……僕が現実から逃げている間に、父はずいぶん老け込んでしまっておりました。ひとりで長い間、いろいろなものを抱え込んで、苦しんでいたのだと思います」
「でも、アルトさんに会えて、きっと安心されたと思うわ」
「もし父の閉じこもった心を少しでも解放することができたのであれば、それは僕ではなく、この馬車がしたことです」
アルトは小さく息を吐く。
「誰かを助けるのは、いつでも探しものの馬車なのです。僕自身には、大した価値はありません」
「アルトさん。そんなことはないわ」
クラリスの声は、少し強かった。
「あなたは私の話を聞いてくれた。私の心を救ってくれたのは、探しものの馬車だけではないわ」
「……ありがとうございます」
「お父様とは、よいお話ができたのね」
「はい。父も、一区切りができたと思います。僕自身もですが。前に進める気がします」
クラリスが頷き、優しく微笑む。
けれど、その瞳には、強い決意のようなものが滲んでいた。
「では、もうリディア様にも、いつでもお会いできるのですね?」
「……どういうことですか?」
「会う勇気が出なかったのは、お父様だけではないのでしょう?」
クラリスは、まっすぐアルトを見た。
「アルトさん。あなたは、リディア様にも会う準備ができていなかったのでしょう?」
「いえ……。リディアの居場所は本当に知らないのです」
「それは、少し違うと思うわ」
「違う……?」
「あなたは、仮にリディア様の居場所を知っていても、会いには行けなかったのではないかしら。自分の侯爵家のせいでリディア様がいなくなってしまったことに、後ろめたさを感じていたのではないですか? あるいは、リディア様が自分のせいでどんな目に遭ってしまったのかを知るのが怖かったのでは?」
「……クラリス様は、僕のことを僕以上にご存じのようですね」
アルトが気まずそうに小さく笑った。
「……ですが、リディアの居場所については手がかりもないので、探しようもありません」
「手がかりなんていらないじゃない」
「えっ?」
「あなたには、探しものの馬車があるじゃないの」
「ですが……ご存じのとおり、この馬車は僕自身の探しものは見つけてくれません」
「それは違うと思うの」
クラリスが、まっすぐにアルトを見る。
そして、諭すように話した。
「アルトさん。探しものの馬車が御者自身の探しものを見つけないというのは、あなたの勘違いではないかと思うの」
「勘違い……?」
「ええ。変なことを言うようだけれど、この馬も、この馬車だって、どんな乗客よりあなたのことを愛しているように、私には思えるの」
クラリスは、そっと馬車の扉の内側に手を触れた。
「馬車は、あなたが乗せるべき乗客を、ずっとあなたのために探してくれていたんじゃないかしら。いつかあなた自身を、必要な場所に連れていくために……」
「……何が仰りたいのですか?」
「私がその乗客だというのは、おこがましいかもしれないけれど……」
クラリスはまた、まっすぐにアルトを見た。
「私は今、他の何よりも、あなたの探しものを見つけたいと思っているわ」
アルトが目を見開いた。
「リディアを……探してくださるのですか? クラリス様が……?」
クラリスが大きく頷く。
「アルトさん。私、リディア様をお探ししたいです。この馬車に乗って」
アルトは言葉を失った。
長い、とても長い沈黙が流れた。
やがて、アルトは口を開いた。
「……僕は、あなたと出会うために、ずっと辻馬車に乗っていたのですね」
クラリスが首を振る。
「いいえ。この馬車が、ずっと私を探していてくれたのよ。あなたのために」
アルトは手綱を握りながら、馬と、それから馬車を見た。
「ノクス……」
「何?」
クラリスが尋ねる。
「この馬の名前です。ノクスというんです」
ノクスが鼻を鳴らした。
「ふふ……アルトさん。ノクスさんが、行こうって言っているわ」
アルトが頷く。
「行こう、ノクス。お客様が探しものだそうだ」
ノクスがもう一度、鼻を鳴らす。
アルトはそれに応えるように、軽く手綱を鳴らした。
馬車がゆっくりと走り出す。
夜の王都を、辻馬車が駆けていく。
やがて、馬車は王都の門を出て行った。




