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【連載版】婚約破棄された公爵令嬢が「どこにも行かず、ただ走らせて」と言ったので、辻馬車は夜の王都を走り続ける  作者: Vou@書籍化進行中
第六夜 【乗客】王国を支えてきた王弟

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第二十一話 すべては王国のため

 やがて辻馬車は、一つの建物の前で止まった。


 そこは、アルトには馴染みのある場所だった。


「ここは……救護院か?」


 エルンストが眉をひそめる。


「はい。そのようですね」


 アルトは御者台を降り、馬車の扉を開けた。


探しものの馬車(ロスト・キャリッジ)は、ここにエルンスト殿下の探しものがあると判断したようです」


「こんなところに……?」


 エルンストは、救護院の建物を見上げた。


 王城でもない。

 大聖堂でもない。

 有力者の屋敷でもなければ、大商人の店舗でもない。


 王都の片隅にある、古びた救護院だった。


「ありえんな」


「ご自身で、お確かめください」


 エルンストは一瞬だけ躊躇したが、やがて馬車を降りた。


「まあいい。時間ならある」


 その言葉に、アルトは違和感を覚えた。


 王弟エルンスト・ヴァレンシュタインと言えば、王国で最も忙しい男の一人として知られている。

 国王を支え、政務を補佐し、王国の実務を回す者。


 その彼が、時間ならある、と言ったのだ。


   ※


 救護院の中は、夕食の準備で慌ただしかった。


 グスタフのパンが籠に並べられている。

 ルカが皿を数え、ミナが毛布に包まれてそれを見ている。

 エマは小さな手でパン籠を支え、ミリアは湯気の立つスープを器によそっていた。


 クラリスは名簿を片手に、子どもたちの人数を確認している。


「ルカ、その子はまだ熱があるから、パンは小さくちぎってスープに浸して」


「分かってるよ」


「エマ、その籠は重いでしょう。無理をしないで」


「大丈夫。パパが働いてるから、わたしも手伝うの」


 エルンストは、その光景を無言で見ていた。


 誰も彼に跪かない。

 誰も王弟殿下と呼んで道を開けない。

 ここにあるのは、王国の未来を決める政務でも、軍議でも、祝典でもない。


 ただ、今夜の食事を行き渡らせるための、小さな仕事だった。


「あら、エルンスト殿下」


 クラリスがこちらに気づき、驚いたように目を見開いた。


「こんなところで、どうされたのですか? アルトさんまで……もしかして、エルンスト殿下の探しものがここに?」


「クラリス」


 エルンストは静かに言った。


「もう殿下とは呼ばなくていい」


「え……?」


「私は王弟ではなくなった」


 クラリスの表情が固まる。


「どういうことですか」


「おまえが辺境視察の報告を、国王へ上げたからだ」


「私が……?」


「ああ。兄王は気づいたのだ。辺境支援の帳簿が、誰の手で歪められていたのかを」


 エルンストはクラリスをまっすぐ見た。


「書類上、支援をしたことにしていたのは私だ」


 クラリスは息を呑んだ。


「……ご冗談を」


「冗談ではない」


 救護院の喧騒が、一瞬消えたかのようだった。


「そもそも、あの帳簿どおりの支援ができるほど、王都に資金があると思うか?」


「……」


「王国中の村に、十分な毛布を届ける。薬草を届ける。保存食を届ける。井戸を直し、家を直し、孤児を保護する。できるものなら、私だってそうしたかった」


 エルンストの声は落ち着いていた。


 だからこそ、重かった。


「だが、国庫には限りがある。人手にも、馬車にも、薬草にも、兵にも、すべて限りがある」


「だから、届いていない支援を、届いたことにしたのですか」


「そうだ」


 クラリスの瞳が揺れた。


「なぜ……」


「王国を存続させるためだ」


 エルンストは言った。


「王国の中心は王都だ。王都が倒れれば、辺境も、村も、救護院も、すべて終わる。王都の産業が衰えれば、国庫は空になる。騎士団も兵団も縮小される。魔物災害でも起きて王都が蹂躙されれば、救済どころではない」


「だから、辺境を切り捨てたのですか」


「切り捨てたのではない」


 エルンストは低く返した。


「優先順位をつけただけだ」


 クラリスは、唇を噛んだ。


「その優先順位から外された人たちは、帳簿の上で救われたことにされたのですよ」


「ああ」


「助けを求めることすら、できなくされたのですよ」


「ああ」


「それでも、正しかったと?」


 エルンストは、すぐには答えなかった。


 救護院の奥で、ミナがスープを一口飲んだ。

 ルカがほっと息を吐く。

 エマがパン籠を抱え直す。

 ミリアが、こぼれたスープを布で拭う。


 エルンストは、その小さな光景を見てから言った。


「正しかったと、思わなければならなかった」


 クラリスは何も言えなかった。


 エルンストの視線が、アルトへ向く。


「アルト・ヴェルナー」


「はい」


「私のしていたことに気づき、それを明るみに出そうとしたヴェルナー侯爵家を取り潰したのも私だ」


 アルトの呼吸が止まった。


「……」


「ヴェルナー侯爵の告発は、王都そのものに罪を背負わせるものだと、私は考えた。王都の民を守るためには、侯爵家に罪をかぶせるしかないと信じた」


 エルンストは、深く頭を下げた。


「すまなかった」


 アルトは、すぐには答えられなかった。


 十年分の言葉が、喉の奥で絡まっていた。


「名誉の回復はできる」


 エルンストは言った。


「ヴェルナー侯爵家の冤罪を、王国として認めることもできる。おまえが望むなら、貴族の身分を戻すこともできるだろう」


「……ありがたいお話です」


 アルトは、なんとか声を出した。


「ですが、僕はまだ、御者をやめるわけにはいきません」


「リディア・エーヴェルトを探しているからか?」


 その名が出た瞬間、アルトの表情が変わった。


「……リディアをご存じなのですか」


「ああ。ヴェルナー侯爵家の令息の婚約者だということは知っていた」


「リディアは、どこにいるのですか」


 エルンストは、目を伏せた。


「詳しい行方は知らない」


「……知らない?」


「私がしたのは、彼女の持つ証拠を王都に届かせるなと命じたことだけだ」


「それで、リディアは……」


「命を奪うことだけは禁じた」


 エルンストは、はっきりと言った。


「それだけは約束する」


 アルトは、拳を握りしめた。


 その約束に安堵していいのか、怒ればいいのか、自分でも分からなかった。


「では、彼女はどこに……」


「分からない。すまないが……」


 クラリスがエルンストに尋ねる。


「なぜ、今さら罪をお認めになったのですか?」


 エルンストは小さく笑った。


「疲れたのだ」


「疲れた……?」


「ああ。一人で王都の罪を背負い続けることに」


 救護院の灯りが、エルンストの横顔を照らしていた。


「私はずっと、必要なことをしているのだと思っていた。王国を守るため、王都を守るため、兄王の善政を守るため。誰かが汚れ役を引き受けなければならないのだと」


「……」


「だが、ラウネ村の報告を読んだ時、思ったのだ」


 エルンストは、皿を並べるルカを見た。

 小さな手でパン籠を支えるエマを見た。

 スープをよそうミリアを見た。

 名簿を握るクラリスを見た。


「私が守ろうとしていた王国とは、どこにあるのだろうな」


 誰も答えなかった。


「私は、存在しえないものを探していた」


 エルンストは静かに言った。


「だから、この馬車に乗った。もし本当に、探しものがある場所へ連れていくというなら、見せてもらおうと思った」


「何を、お探しになったのですか?」


 クラリスが尋ねる。


 エルンストは少しだけ沈黙した。


 それから、気まずそうに口を開く。


「王国民すべてを幸せにする方法だ」


 クラリスは言葉を失った。


 エルンストは救護院を見渡した。


「だが、馬車が私に見せたのは、これだ」


 ミナが、スープに浸したパンをもう一口食べる。

 ルカが少しだけ笑う。

 エマが眠そうに目をこすりながら、パン籠を運ぶ。

 ミリアがその手を支える。

 クラリスが、最後の一人まで数を確認する。


「一人の子どもが、パンを一口食べるだけの場所だ」


 クラリスは静かに言った。


「はい」


「それだけでは、王国は救えない」


「はい」


「それでも、ここが答えだと言うのか」


 クラリスは、エルンストをまっすぐ見つめた。


「私は、王国民すべてを幸せにする方法は、あると思います」

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― 新着の感想 ―
なーに言ってんだか
こんなところでアルトが探し求めていた手がかりが…! エルンスト殿下、多分すごく誠実な人間なんですよね。彼にとっては王国=王都で、兄だった。兄王と王都を守ることが、国を守ることだった。そのために誠実に…
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