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【連載版】婚約破棄された公爵令嬢が「どこにも行かず、ただ走らせて」と言ったので、辻馬車は夜の王都を走り続ける  作者: Vou@書籍化進行中
第六夜 【乗客】王国を支えてきた王弟

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第二十話 存在しえないものを探す王弟

 その夜、アルトの辻馬車は、王城の城門前にあった。


 夜更けの王城は静まり返っていた。

 高い城壁の上では、松明の火が風に揺れている。

 門を守る兵たちは、時おりこちらへ視線を向けたが、誰もアルトに声をかけようとはしなかった。


 アルトは御者台のそばに立ち、じっと待っていた。


 どれほど待っただろうか。


 やがて、王城の門がゆっくりと開いた。


 一人の男が、護衛も従者も連れずに出てくる。


 簡素な外套を羽織ってはいたが、その立ち姿だけで、ただの貴族ではないと分かる。

 背筋は伸び、足取りはしっかりとしていた。

 だが、その顔には、長い政務を終えた者の疲労が薄く滲んでいた。


 アルトは深く一礼し、馬車の扉を開ける。


 男は黙って馬車に乗り込んだ。


 アルトは扉を閉め、御者台へ戻る。


「王弟殿下。本日は、どちらへ?」


 その男は、王弟エルンスト・ヴァレンシュタインだった。


 善王と呼ばれる国王フリードリヒ・ヴァレンシュタインを支え、王国の政務を実質的に取り仕切る男。

 王国の民からは、国王の善政を陰で支える賢弟として知られている。


 彼はただ一人、夜の辻馬車に乗っていた。


「護衛もつけず、わざわざ一人でおまえの辻馬車に乗っているのだ」


 エルンストは静かに言った。


「行き先などない。探したいものがあるだけだ」


「かしこまりました。では、出してよろしいでしょうか」


「ああ」


 アルトが手綱を軽く鳴らす。


 馬車は、王城の門前をゆっくりと離れた。


 夜の王都を、辻馬車が走り出す。


   ※


「クラリス様から、この馬車のことをお聞きになったのですか?」


 アルトが尋ねた。


「ああ。クラリスから聞いた」


 エルンストは短く答える。


「おまえは確か……アルト、と言ったか」


「はい。アルト・ヴェルナーです」


「ヴェルナー……?」


 エルンストの声が、わずかに変わった。


「どこかで聞いた名だな。貴族だったのか?」


「はい」


 アルトは短く答えた。


「今は辻馬車の御者をしておりますが」


「それは見れば分かる」


 エルンストは窓の外へ視線を向けた。


「ヴェルナー……ヴェルナー侯爵家か」


 その名を口にしたあと、エルンストは少しだけ沈黙した。


「そうか。あの家の者だったのか」


「はい」


「政治的な問題で失脚した家だったな」


「そのように聞いております」


 アルトの声は静かだった。


 エルンストは、それ以上を尋ねなかった。

 アルトも、それ以上を語らなかった。


 車輪の音だけが馬車の中を満たしていた。


「……なるほど」


 やがて、エルンストがぽつりと言った。


「ヴェルナー侯爵家が失脚したから、おまえは辻馬車の御者になった。おかげで私は今、この探しものの馬車(ロスト・キャリッジ)に乗れているというわけか」


「……そのような言い方も、できるかもしれません」


 エルンストは、わずかに口元を緩める。


「一つ聞きたい」


「はい」


「もし、私の探しものが、存在しえないものだった場合、この馬車はどうなる?」


 アルトは少しだけ考えた。


「僕の経験上、人が想い描けるものであれば、この馬車は何かしらの場所へ連れていってくれます」


「人が想い描けるものなら、か」


「はい」


「では、死んだ人間を探していたらどうする?」


「その方の魂が残る場所へ連れていってくれるのだと思います」


 エルンストは、ふっと鼻で笑った。


「私は、そこまで信心深くはない」


「そうでしたか」


「だが、死者を探す者の気持ちは分からなくもない。死者は少なくとも、かつて存在した」


 エルンストの声は低かった。


「私が探しているものは、それよりずっと始末が悪い」


「存在しえないものを、お探しなのですか?」


「どうだろうな」


 エルンストは、夜の王都を見つめた。


 窓の向こうには、王城の灯りが遠ざかっていく。

 代わりに、酒場の明かり、巡回兵の灯火、商店の閉ざされた窓が流れてくる。


「少なくとも、私はそれを存在しえないものだと考えている」


「それでも、お探しになるのですね」


「ああ」


 エルンストは静かに答えた。


「存在しないと分かっていても、探さずにはいられないものがあるのだ」


 アルトは、その言葉に少しだけ手綱を握り直した。


 自分にも、そういうものがある。


 十年前に消えた婚約者。

 どこにいるのかも、生きているのかも分からない人。

 それでも探さずにはいられなかった人。


 エルンストは、そんなアルトの沈黙に気づいたのか、わずかに目を細めた。


「おまえにも、あるのか」


「……はい」


「そうか」


 エルンストはそれ以上聞かなかった。


 馬車は、夜の王都を進む。


 王城でも、大聖堂でもない方角へ。


 エルンストが眉をひそめた。


「どこへ向かっている?」


「馬車が選んだ道です」


「私は、まだ何を探しているかも告げていない」


「はい」


 アルトは前を向いたまま答えた。


「ですが、この馬車は、乗客の方が本当に探しているもののある場所へ向かいます」


「……なるほど」


 エルンストは、静かに背を預けた。


「では、見せてもらおうか」


 辻馬車は、夜の王都を駆けていく。


 王国を支える男が、存在しえないと信じながら、それでも探さずにはいられなかったものへ向かって。

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