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【連載版】婚約破棄された公爵令嬢が「どこにも行かず、ただ走らせて」と言ったので、辻馬車は夜の王都を走り続ける  作者: Vou@書籍化進行中
第五夜 【乗客】落ちこぼれ聖女候補

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第十四話 女神様のいるところ

「ここは……?」


 ミリアが呟く。


「グスタフ・ローデンのパン屋です」


 アルトが答えた。


「パン屋……?」


 ミリアは、呆然とする。


「なぜこんなところに……」


「僕は何をお探しなのかも存じませんので……」


 アルトも困ったように言った。


 そのとき、パン屋の奥から主人のグスタフ・ローデンが顔を出した。


「あれ、アルトさん、パンの余りを取りに来たので?」


「あ、いえ。今日は救護院から聖女候補の方をお連れして……」


「ああ、救護院のパンの件ですか? ちょうどよかった。ちょっとパンの仕込みに時間がかかっちまって、明日の分が間に合わなそうで、連絡しようと……」


「パンが間に合わないのですか?」


「はい、すみません。ちょっとここのところ、立て込んでいて……」


 アルトは、グスタフがルカとミナを気にするあまり、ここのところあまり仕事に時間を取れていないのだろうと思った。


「もし人手が足りていないのでしたら、お手伝いさせていただけませんか?」


 ミリアが突然そう言った。


「えっ?」


 グスタフが驚いた顔をする。


「救護院の方々にどうしてもパンを届けてあげたいのです」


「いや、しかし……」


「僕も手伝いますよ。いつももらってばかりで、心苦しかったので……」


 アルトもそう申し出た。


「アルトさんまで……? はは、まいったな……」


   ※


 パン屋の工房は、夜にもかかわらず、熱気に満ちていた。


 袋に入った小麦粉。水桶。作業台の上に置かれた木桶。火の入った石窯。


 大聖堂や救護院で過ごすことがほとんどのミリアには、馴染みの薄いものばかりだった。


「まさか聖女候補の方に、パン屋の手伝いをさせることになるとはな」


 グスタフが気まずそうに言った。


「救護院の方々に届けるパンなのでしょう?」


 ミリアは白い法衣の袖をまくった。


「聖女候補が手伝うには十分な理由だわ」


「そうかい。じゃあ、遠慮なく頼むぞ」


 グスタフは袋の小麦粉を桶に移し、ふるいにかけた。


「まず粉をふるう。粉の塊をほぐして、殻や小石が混じってりゃここで落とす」


「小石……」


「小石の混じったパンを、子どもに食わせるわけにはいかねえだろ」


 その言葉に、ミリアは少しだけ驚いた。

 粉をふるう、そんな地味な作業にも、誰かを傷つけないための意味があったのだ。


 グスタフは小麦粉と塩とパン種を手早く混ぜ、慣れた手つきで()ねてみせた。


「捏ねてもらえるかい?」


 まずはアルトが、見よう見まねで生地に手を置く。


「うん、悪くない。だが、もうちょっと腰を入れろ。力で押すだけじゃねえ。体重を乗せるんだ」


 アルトは言われた通りに捏ねていく。


「よし。じゃあ、ミリア様にも頼むか」


 グスタフが別の生地を用意し、ミリアの前に置いた。


 ミリアもアルトの動作を真似るように、生地を捏ねる。


「ぜんぜんだめだな」


 グスタフが容赦なく言った。


「もっと力を入れて。体重を乗せるんだ」


「は、はい……」


 ミリアは必死に生地を押す。


 生地は柔らかいのに重い。押すのも畳むのも思うようにいかない。

 すぐに腕が痛くなり、額に汗が滲んだ。


「まだまだ。手を止めるな」


「こんなの……無理……」


 ミリアはついに手を止めてしまった。


 グスタフが低い声で言う。


「救護院の連中に、腹を空かせて朝を迎えさせるのか?」


 ミリアは、はっと顔を上げた。


 そして、再び生地に手を置いた。


 これは、自分の修行ではない。自分が聖女にふさわしいかを試されているのでもない。


 救護院で朝を待つ人たちのためのパンを用意する。そのことは、自分が聖女に相応しいかどうかなどということより、よほど大事なことのように思えた。


 そうして、夜は更けていった。


   ※


 捏ねた生地を休ませている間、ミリアとアルトは少しだけ休息した。


 やがて、グスタフがパン生地にかけた布を外す。


「よし。分けるぞ」


 膨らんだ生地を、グスタフは手早くちぎり、丸めていく。


「1つの生地を36個に分けるんだ。小さいのを12個。柔らかめを6つ。残りは普通のやつだ」


「そんなに細かく分けるのですか?」


「当たり前だ。小さい子には大きすぎると食えねえ。熱を出した子には、硬いパンをそのまま出すな。スープに浸してやるんだ」


 ミリアは黙って頷いた。


 治癒の奇跡を与えることだけが、人を助けるのではない。食べられる大きさにすること。柔らかくすること。熱を出した子が飲み込める一口を用意すること。


 それもまた、救いなのだ。


 グスタフは火かき棒で石窯の中を整え、丸めた生地を窯へ入れていった。


 しばらくすると、パンの香ばしい匂いが工房に漂い始める。


 グスタフが窯からパンを引き出した。


 きれいな狐色をしたパンが、作業台の上に並んでいく。


「わあ……」


 ミリアは思わず声を漏らした。


 粉と水と塩とパン種だったものが、パンになっていた。


 ただそれだけのことなのに、ミリアには、それがひどく不思議なことのように思えた。


「聖女候補様の捏ねたパンだ。味見してみな」


 グスタフが一つ差し出す。


 ミリアは両手で受け取った。


「熱っ……」


「焼きたてだからな。気をつけろ」


 ミリアは恐る恐る、少しだけ口にした。


 温かかった。


 今まで食べてきたパンとは違う。形も少しいびつで、表面も少し固い。


 けれど、その温かさが、胸の奥へゆっくり染み込んでいくようだった。


「……おいしい」


「そりゃよかった」


 グスタフは照れくさそうに「ふん」と鼻を鳴らした。


「俺ができるのは、パンを焼くことだけだ。病を治すことも、祈ることもできねえ」


 そう言って、焼き上がったパンを一つずつ籠へ入れていく。


「だがな、腹を空かせているやつがこれを食えば、少しは力が出る。辛い目に遭ったやつでも、温かいパンをかじれば、ほんの少しだけ幸せになれることがある」


 ミリアは、手の中のパンを見つめた。


「ほんの少し……」


「そうだ。ほんの少しだ」


 グスタフは淡々と言った。


「だが、そのほんの少しがなきゃ、人は生きていけねえんだ」


 その言葉が、飲み込んだパンとともに、ミリアの胸の奥に落ちた。


 奇跡とは、病を一瞬で癒す光のことだと思っていた。

 民衆の前で起きる、誰の目にも明らかな女神の恩恵だと思っていた。


 けれど——


 腹を空かせた子どもが、朝、温かいパンを一口食べられること。熱を出した子が、スープに浸した柔らかいパンを飲み込めること。今日を諦めかけた誰かが、明日も少しだけ生きてみようと思えること。


 それもまた、奇跡なのではないか。


 ミリアの目から、涙がこぼれた。


「おいおい、大げさだな。そんなにうまかったか?」


 グスタフが困ったように言う。


 ミリアは小さく首を振った。


「いいえ……。おいしいだけではないのです」


 ミリアは、パンの入った籠を見つめた。


「私、何も分かっていませんでした」


 大聖堂の祭壇。

 美しく咲く白い花。

 民衆の涙。

 女神の名を呼ぶ祈り。


 女神様は、そういう場所にだけいらっしゃるのだと思っていた。


 けれど、そうではないのだという気がした。


 粉をふるう手元にも。

 夜通し石窯の火を見る職人の横顔にも。

 誰かにほんの少しの幸せを届けるために数えられたパンの中にも。


 ——女神様はいてくださるのかもしれない。


「女神様は……大聖堂や教会や祈祷所にだけいらっしゃるのではないのですね」


 ミリアは小さく呟いた。


「ささやかだけれど、こういう場所にも、小さな奇跡を置いてくださっているのかもしれません」


 グスタフはしばらくぽかんとしていたが、やがて声を上げて笑った。


「何だかわからんが、うまけりゃよかった」


 それから、籠をアルトの方へ押し出す。


「さあ、救護院でパンを待ってる連中がいるんだろう? 持っていってくれ」


「はい」


 ミリアもパンの詰まった籠を両腕で抱えた。

 疲れ切った腕に、その籠は重かった。けれど、その重さが嫌ではなかった。


「グスタフさん、ありがとうございました」


 ミリアが言うと、グスタフは照れくさそうに片手を上げた。


「礼なら、ちゃんと届けてから言いな」


 アルトも籠を馬車に積み、御者台へ上がる。


 軽く手綱が鳴った。


 馬車がゆっくりと走り出す。


 すでに夜は明けかけていた。


 朝焼けに照らされた王都を、辻馬車が駆けていく。


 救護院で待つ人々へ、明日を届けるために。

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