7
アルゲントゥムに到着してから、一ヶ月が過ぎた。
北方の風は日増しに鋭さを増し、山々の頂は厚い雪に覆われている。けれど、私の心はかつてないほどに熱く燃えていた。
「クィンティリア様、見てください! リウィア様が、ご自分で庭をお歩きになっています!」
侍女ドゥルシッラが弾んだ声で報告に来たとき、私は執務室で新兵器――といっても、この世界の魔法触媒を安定させるための「魔導回路」の設計図を引いている最中だった。
私はペンを置き、窓の外に目をやる。
そこには厚手の毛皮のコートに身を包んだリウィアが、兄であるウェスペリウスの腕を借りながら、一歩一歩、確かな足取りで雪の積もった庭を歩いていた。
一ヶ月前、死の淵にいた少女の姿はもうない。
徹底した換気、高栄養の食事、そして私が前世の知識から再現した「抗生物質」に似た作用を持つ薬草の蒸留液。それらが、彼女の肺を蝕んでいた病魔を追い払ったのだ。
「……よかった」
私は小さく息を吐いた。
リウィアを救ったことは、単なる人助けではない。
私の隣で、かつての「氷の騎士」としての冷徹さを脱ぎ捨て、一人の「未来を信じる男」として微笑むウェスペリウス。彼のその笑顔を守るためなら、私は何度だって運命と戦える。
リウィアの快復を確認した後、私はウェスペリウスと共に、領地最大の見どころである「銀山」へと向かった。
そこには、私が失脚させた元代官テレンティウスに代わり、新しく登用した正直者の技術者たちが集まっていた。
「クィンティリア様、仰せの通り『反射炉』の試作品が完成いたしました」
目の前に鎮座するのは、耐火煉瓦を積み上げた巨大な炉。
前世の冶金学の知識を応用したこの炉は、熱を天井で反射させることで、これまでの数倍の温度を実現する。これにより、不純物が多く捨てられていた「魔法銀」の精錬効率が飛躍的に向上したのだ。
「素晴らしいわ。ウェスペリウス、これを使って作らせた『新装備』の感触はどうかしら?」
ウェスペリウスは、腰に佩いた新しい長剣を抜いた。
従来の鋼より軽く、それでいて魔力の伝導率は十倍以上。青白く発光するその刃は、まるで月光をそのまま形にしたような美しさだ。
「……驚くべき代物です。これまでの重い鎧や剣が、まるでおもちゃのように感じられる。これならば、バルバリス帝国の重装騎兵相手でも、紙を斬るように一蹴できるでしょう」
彼は剣を納め、真剣な眼差しで私を見た。
「クィンティリア様。貴女がこの領地で行っていることは、もはや単なる領地経営の域を超えています。……これは、『革命』です」
「革命なんて、大げさよ。私はただ、あなたが戦場で怪我をしないように、最高の盾と矛を用意したいだけだもの」
私は照れ隠しに背を向けた。
けれど、内心では焦りもあった。
王都の諜報員からの報告によれば、アウルス王子はフルウィアに唆されるまま、公爵家の「反逆」を裏付ける証拠の捏造を完了させたという。
嵐は、すぐそこまで来ている。
その日の夜。
私は寝る前の調べ物をするために、館の図書室にいた。
アルゲントゥムの夜は寒く、暖炉の火だけが唯一の救いだ。私はブランケットを肩にかけ、古い古文書と現代知識を照らし合わせていた。
不意に扉がノックされる。
「クィンティリア様。……まだ、起きていらっしゃいましたか」
ウェスペリウスだった。
彼は夜回りの甲冑を脱ぎ、ゆったりとした部屋着姿だ。その乱れた前髪が、いつもより彼を若く、そして……無防備に見せている。
「ウェスペリウス。あなたこそ、休まなくていいの?」
「貴女の部屋の明かりが消えないうちは、眠れません」
彼は私の隣に歩み寄り、冷えた私の手に、温かいココアが入ったカップを差し出した。
「……これを。ドゥルシッラに教わって、私が淹れました」
「まあ、あなたが? 意外だわ。料理なんてしない人だと思っていたのに」
一口飲むと、甘さと温かさが五臓六腑にしみわたる。
彼は少し恥ずかしそうに視線を逸らし、私の隣の椅子に腰掛けた。
「クィンティリア様。……私は、時折、怖くなるのです」
「……何が?」
「今のこの幸せが、全て貴女の見せている『夢』ではないかと。……没落寸前だった我が家を救い、妹の命を繋ぎ、私に新しい誇りを与えてくれた。……貴女という存在が、あまりにも完璧すぎて、いつか空へ消えてしまうのではないかと、そう思ってしまうのです」
彼の大きな手が、私のブランケット越しに肩を抱いた。
暖炉の火が爆ぜる音だけが、静寂の中で響く。
「……私はどこにも行かないわ。ウェスペリウス、私はね、あなたを幸せにするために、地獄の底から這い上がって……いえ、異世界から戻ってきたようなものなんだから」
半分冗談、半分本気でそう言うと、彼は私の顔をじっと見つめた。
その瞳に宿る熱量に、私の心臓が大きく跳ねる。
「……ならば、一つだけ。我が儘を言ってもよろしいでしょうか」
「何かしら?」
「……主君としてではなく、一人の男として。……貴女を、抱きしめても?」
返事をする間もなかった。
力強い腕が私を引き寄せ、私は彼の胸の中に閉じ込められた。
鋼の鎧を脱いだ彼の体は、驚くほど柔らかく、そして……私を包み込むほどに大きい。
「ウェスペリウス……」
「……愛しています、クィンティリア。貴女が何者であっても。貴女の知性がどれほど恐ろしくとも。私の命も、心も、全て貴女のものです。……どうか、私を捨てないでください」
首筋に押し当てられた彼の吐息が、熱い。
孤独な騎士として生きてきた彼の、痛いほどの独占欲と、深い孤独からの救い。
私は彼の背中に手を回し、その震えを鎮めるように優しく撫でた。
「捨てないわ。……絶対に。私たちは、二人で一つの運命を歩むのよ」
その夜、私たちは初めて、主従という壁を越えた。
甘い口づけの余韻の中で、私は心に誓った。
明日、どんな敵が現れようとも。王家が何を仕掛けてこようとも。
この男の愛だけは、私が全力で守り抜くと。
幸福な夜は、冷酷な朝によって切り裂かれた。
翌朝。
館の門前に、王家の紋章を掲げた一団が現れた。
先頭に立つのは、王家直属の騎士団長であり、アウルスの腰巾着として知られる男――**デキムス・フラウィウス(Decimus Flavius)**。
彼は馬から降りると、出迎えた私とウェスペリウスの前で、一枚の羊皮紙を大仰に広げた。
「クィンティリア・オクタウィウス! 並びに、ウェスペリウス・リウィウス! 貴殿ら両名に対し、国王陛下の名の下に『反逆罪』の容疑で逮捕を命じる!」
静まり返る白銀館の庭。
領民たちが遠巻きに不安げな視線を送る中、デキムスは勝ち誇ったように声を張り上げた。
「証拠は挙がっているのだ! 貴殿らはバルバリス帝国の間諜と通じ、新型の武器を領内で秘密裏に製造し、王国へのクーデターを画策した! ……さらに、そこの騎士ウェスペリウスを多額の金で買収し、王家への忠誠を破棄させた罪、重罪である!」
ウェスペリウスが剣の柄に手をかけた。
その体から、氷のような殺気が溢れ出す。
けれど、私は彼の腕をそっと抑えた。
「……デキムス殿。その『証拠』とやらは、一体どこにあるのかしら?」
「ふん! 貴殿の寝室から、帝国皇帝に宛てた密書が発見されたのだ! 昨日、我らの部下が密かに館へ入り、押収済みだ!」
(……なるほど。昨日の騒ぎの最中に、誰かを入れたのね)
私は、デキムスの後ろで嘲笑を浮かべている「あの男」――昨夜まで私の下で働いていた、裏切り者の庭師に目をやった。
けれど、私の唇には、絶望ではなく「笑み」が浮かんでいた。
「まあ。それは奇遇ですわね」
「……何が奇遇だと?」
「実は私も、昨日、面白いものを見つけたのです。……ドゥルシッラ、あれを持ってきて」
ドゥルシッラが恭しく持ってきたのは、小型の魔導録音機。
私が現代知識で改良した、周囲の音を記録し、魔力で再生するデバイスだ。
「これは、私が実験用に館の各所に配置していた『魔導耳』の記録です。……再生してもよろしいかしら?」
私はスイッチを入れた。
そこから流れてきたのは、紛れもなくアウルス王子の声。
『――いいか、デキムス。クィンティリアの部屋に、この偽造した密書を置け。あの女は賢すぎる。生かしておけば、私の王位が危うい。……ついでに、あの生意気な騎士も始末してしまえ。戦死扱いにすれば、誰にも疑われん』
デキムスの顔から、一気に血の気が引いた。
周囲の王家騎士たちも、ざわつき始める。
「な……これは……何だ! 捏造だ! 魔導具を使った卑劣な罠だ!」
「罠? いいえ、ただの『防犯対策』ですわ。公爵家の令嬢として、不審者の侵入を警戒するのは当然ではありませんか?」
私は一歩、デキムスに歩み寄った。
「デキムス殿。その密書を持って、王都へ帰りなさい。そしてアウルス殿下に伝えて。……『私はもう、あなたの手の内にはいない。これからは、私があなたの罪を裁く側になる』と」
「くっ……お、おのれ! 構わん、捕らえろ! 力ずくでも……!」
デキムスが剣を抜こうとした瞬間。
キン、という鋭い音が響いた。
デキムスの剣が、鞘ごと凍りつき、地面に縫い付けられた。
ウェスペリウスが、私の前に立ちはだかっていた。
「……私の主に、指一本触れさせるとでも思ったか?」
彼の背後に、先ほどまで作業をしていた領地騎士たちが、新型の「魔法銀」の武器を携えて集結する。
その圧倒的な武力と、録音された事実の重みに、王家騎士団の士気は完全に崩壊した。
「……撤収だ! 引け! 引けいっ!」
デキムスたちは、這々の体でアルゲントゥムを逃げ出した。
領民たちから、歓声が上がる。
私はウェスペリウスの隣で、遠ざかる砂埃を静かに見つめていた。
「……いよいよ、全面対決ね。ウェスペリウス」
「ええ。ですが、もはや恐れるものはありません。貴女がいる場所こそが、私の守るべき唯一の王国です」
私たちは手を繋ぎ、朝日が昇る雪原を見つめた。
王家との決別。
それは、この国そのものを創り変えるための、最初の一歩に過ぎなかった。




